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[転載]「末の松山波越さじ」とはそうだったのか

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     契りきな かたみに袖をしぼりつつ 末の松山波越さじとは       清原元輔 後拾遺
 
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珍しく夜中に起きている。
昨夜のNHKで上の百人一首の和歌のことをやっていた。
地震予知に関する番組である。
 
この和歌は清少納言の父親である清原元輔(きよはらの・もとすけ)の歌で、よく知っている歌のひおとつだったが、
宮城の多賀城近くの「末の松山」という小高い明媚な段丘が舞台。
意味はたわいないもので、百人一首の中ではそれほど思いいれをもっていなかった。
しかし番組の中で、この「末の松山」の由来を知ってちょっと驚いた。「そうだったのか」だった。
 
「波越さじ」というのは、貞観の大地震で起きた大津波のことで、津波は3・11の大地震同様、内陸5キロまでおしよせたが、ここ末の松山の手前で止まったとされ、実際今回の大津波でもそのとおりこの段丘の手前まで水に浸かったが、それより内陸は大丈夫だったのだという。
 
大津波でも越せなかった末の松山。この歌はそれを固い約束にたとえている。
あれほどの大津波でさえ越せなかった末の松山のようにあなたと別れない約束を交わしたのに、あなたはそれを裏切った、という意味である。2人の間に心変わりがなく永遠に愛し続けるという永遠の固いきづなを「末の松山」にたとえた。
 
 
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「末の松山」を詠んだ歌として、古くは、古今和歌集に見られる東歌「君をおきてあだし心をわがもたばすゑの松山浪もこえなむ(あなたをさしおいてわたしがほかの人を思う心をもったら、あり得ないことだが、末の松山に波が越えてしまうだろう)」があり、藤原興風が宮廷で詠んだ「浦ちかくふりくる雪は白浪の末の松山こすかとぞ見る」も同集に採録されているほどなので、往古の歌人はここで大津波が起きたことを言い伝えてきたわけである。
おそらく平安時代あたりまではこの大地震は忘れられていなかった。
 
ぼくは百人一首でこの歌をちゃんと知っていたにも関わらず、それが大地震と大津波に関わる伝承をもとにしていることに気付かないできたことに、和歌から得られる歴史知識を見落としていたことに愕然としたのである。
 
いわんや、地震学者をや。
 
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なお末の松山のすぐ手前に「沖の石」という名所もあるが、こちらは
わが袖は 潮干(しほひ)に見えぬ 沖の石の 人こそ知らね 乾く間もなし 二条院讃岐
が有名で、「潮干に見えぬ」というからには、ここは津波に呑まれたのだろう。
距離はわずか100メートルほどの差である。
運命とはそうしたものである。
「沖の石」の地名は、ここ周辺まで海が来ていたということになろうか。いずれにせよ縄文海進で海だった海岸部であるが、そういう場所はどこでもかなり内陸部まで海抜が低いのである。内陸と安心していたら死に関わる。あなたが住む土地の海抜くらいはしっておくほうがよいだろう。
 
 
 
和歌であれなんであれ、ただの風雅と切り捨ててはならないという、いい教訓になった。ちゃんと和歌にも歴史は描かれている。あなどることなかれ。
 
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転載元: あさきゆめみし ゑひもせす


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