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墓制から考える邪馬台国・・・弥生時代
これまで約八年間の調査では、いくつかのこれまでの弥生時代に関するコモンセンス(常識・定説)はかなり覆されていることは、まじめな古代史ファンなら誰だって知っている。
例えば・・・
1 墓は大きいから実力者のものとは言えない
これは考古学の歴史の中では、奈良県の黒塚古墳発掘結果から多くの考古学者が言及すること。
黒塚古墳は大古墳群の林立する大和盆地の中では、むしろ小さいほうの古墳。しかし中から出てきた遺物は神獣鏡33枚、画文帯神獣鏡、U字型鉄器、などなど優秀なものばかりだった。巨大な前方後円墳である摂津三嶋の今城塚古墳などではほとんどが土器や埴輪なのだから、小さいからといって馬鹿にならないとなってきた。
そこでほかの墓を見ると、弥生時代の墳丘墓には、地方によってばらばらの墓制があって、大きくわけて九州北部の支石墓・甕棺墓、吉野ヶ里のような集団埋葬の墳丘墓と時代と地域を追った変遷があり、近畿では方形周溝墓があり、吉備では楯築のようなプレ双方墳丘墓もあったことがわかってきた。つまり列島の墓制は弥生時代までは統一性がなく地方色豊かなのである。それが古墳時代に入るとまず列島東部では方墳、西部では円墳という大きな区分けが生まれてきて、やがて纒向に大前方後円墳が登場する。
これが西日本の九州まで蔓延していき、その後東国も前方後方墳が主流だったのが前方後円墳になっていった。という大きな流れがわかってきた。これは畿内考古学にとっては都合がよい。
大きくて、前方後円墳であることがステータスだったのだから、当然、邪馬台国の女王卑弥呼の墓だって大きかったのだ、という「常識」を産み出す。
倭人伝では「直径100歩」と書いてあるわけなので箸墓は年代的にも大きさもちょうどいい。さらに宮内庁管轄で発掘もできないから、当分この説でまかりとおっていける。これも実に畿内説には都合がよかったわけだ。
確かに、三世紀になると大和地方の方形周溝墓は前方後円墳に変化する。これを纒向型と命名したのは畿内側の大ヒットであろう。名前からして纒向こそ邪馬台国という意識がみえみえの命名である。
2 弥生時代中心人物の「倭人」の墓は墳丘墓ではない
しかし大事なことは邪馬台国の二世紀中盤~三世紀直前の墓制の中心は、九州北西部に広がる甕棺墓であって、墳丘墓ではなかった。先進地九州北部の墓制はあるとき忽然と消えて、東へ移動していく。それも大移動ではなくちょこちょこと。畿内でも甕棺類似の土器棺が出ている。それがなぜか方形周溝墓→前方後円墳氏族の方が畿内では優勢で、九州的な甕棺は淘汰されてしまうのである。ということは畿内の主流派は甕棺氏族の倭人ではないということになる。じゃあ、誰だ?
3 大古墳は見せる墓
吉野ヶ里のような群集墓としての墳丘墓とは違って、畿内の群集墓はこの時代方形周溝墓。九州やほかの西日本にも方形周溝墓は存在するが時代的に4世紀くらいになって、畿内のような碁盤目状の大群集墓にはならない。畿内では周溝墓は一ヶ所に集中的に作られ、豆腐をさいの目に切ったように碁盤目状に集っている。まるで水田の区画のようである。それが次第に大きくなるかというとそうんなことはない。もちろんリーダーの墓はやがて少し離れて大きめになっていく。これはのちの豪族の古墳や住居が群集地域とは隔離した場所に、環濠をほって作られたことと似ている。
初期の前方後円墳は定説では吉備楯築型が畿内で発展した、というのだが、どうだろう?方形周溝墓の巨大化という説も根強くある。研究者たちがどの説であっても一致するのは「大古墳は見せるための」墓だということ。
初期の前方後円墳が小高い丘陵地を削って作られるものがあるからだ。誰に見せるの?
そこが倭人伝の言う中国からの使節の到来に合致するというわけだ。当時は朝貢外交なので、中国が親分である。それより前の一世紀中盤までは朝貢相手は公孫氏朝鮮だ。その頃にはまだ前方後円墳など見せる墓は存在していない。だから後漢の使節に対する見栄っぱりな「がらんどう大設備」として前方後円墳が見えやすい岡の上に造られた。それがやがて古墳そのものを超巨大化して平地に造るようになったということだ。(けれど箸墓は最初から平地であり、纒向型プレ古墳群も盆地中心部の湿地帯だった場所にある。これは例外?)
奈良盆地は弥生時代ではまだ中心部が古奈良湖の残照で湿地帯である。だから居住地は山の辺道よりの丘陵地が中心。墓はその真下に作った。
神仙思想や陰陽道的に見ても湿地帯は母の胎内であり、ふさわしい。
大和を古代人が選んだ理由は、淀川のような大河河口部では、九州の筑後川河口部と同じで大氾濫が起こるからだし、大和川のような規模で、盆地を網羅する中規模河川のほうが、水田には向いている。さらに中国的な神仙思想にも、縄文由来の大地母思想にも、周囲を女陰(にょいんと読む。「じょいん」じゃないよNHK女子アナさん)のように山に囲まれていてこれも都市にふさわしかったから。
前方後円墳は甕棺墓や周溝墓のように純然たる墓としての機能よりも、やがて祭祀場としての意味合いを深めていく。その証拠が「造り出し」の設置だった。周囲を環濠の水で囲んで、母の胎内を形成し、玉砂利を敷いて神聖さを演出してある。これは縄文からの祖霊信仰の弥生的演出になるので、どうも畿内の倭人は弥生人的な風習ではなく、縄文伝統の風習を重視していたようだ。ここから倭人=縄文人説が登場するのである。
4 巨大化は誇大化?つまり大きい古墳は空虚なオブジェ?
そして見せるためだからそれは権威的オブジェなのであり、対外的であると同時に、巨大化は誇大化でもあったという見方なのである。それはつまり中身よりも外面という今の日本人の見栄っ張り思想にも通じてくる。政治的に大きく見せたい。それが日本の明治からの政治思想には脈々と流れている。その嗜好性は、実は遣唐使の時代、日本人使節はみな偉丈夫で美男で見かけがよい、という中国の史書記録にもちゃんと描き出されていたのである。島国で極東の離れ小島でめったに海外の賓客がこない日本だからこそそうなってくるわけだ。記紀もそういう思想の影響下で書かれたと見ていい。魏志が言うtころの卑弥呼の大墳墓でさえも、そういう見栄で作られたのかも知れない。とにかく記紀は邪馬台国・狗奴国に関してはまったく口を閉ざしている。大和朝廷にとってそれは都合が悪いからだということだろう。なぜ都合が悪いのかを考えるべきである。
古代史は、このように、記紀を反面教師にして、その原因はどこになるのか?それは日本人的な行動学では読み取れないか?からアプローチするのが早道なのである。
5 「倭大乱」の痕跡は畿内にはなく九州甕棺墓にある
こうして墓を見てくると、なるほど畿内説の言うように、邪馬台国は大和の大古墳を造った人々の国ではないかとの思いはどんどん深まっていく。
しかし、『後漢書』東夷伝の言う「桓霊の頃(170~180年あたり)、倭国大いに乱れる」という「大乱」つまりいくさの痕跡は大和にはまったくなく、それは北西部九州の甕棺墓だけに存在するのである。
甕棺から出た遺体は1000体以上に及ぶが、そのうちの一割100体もの体にいくさの傷跡、やじりなどが見られる。このような戦争の痕跡はほかに山口県の土居が浜など玄界灘・日本海側にしか出てこないのである。
つまり倭国大乱は、大陸に近い日本海側で起きた。これが記紀の「出雲国譲り」「筑紫天孫降臨」に合致する。
しかし、筑紫天孫降臨に関してだけが、記紀はそれを南九州のことするのだ。だからここは記紀のロジックであると見たほうがいい。南九州へは筑紫玄界灘側にやってきた王統が、南にあった熊襲隼人という縄文からの先住民族を懐柔して、水先案内とする(つまり阿多隼人の帰順と熊襲征伐)ために持ち上げたと見たほうがすっきりする。ということは西都原にある二つの大古墳には?がつくこととなる。 もちろんここには隼人が北上した痕跡としての持田古墳群もあり、古くから人が来ていたことは間違いないが。
大陸が乱れた場合、北部九州は直接の影響を受けてしまう可能性が高い。だからここに倭人たちは長期滞在しなかったわけだ。東へ移住していく。しかしそのコースは最初、日本海なのである。瀬戸内や太平洋ではない。これは先に書いた稲作と鉄器と遠賀川式土器の北上の順番にまさに合致するのである。なぜ瀬戸内や太平洋はあとにあったか?これもすでに各論で分析済みである。瀬戸内は航海が難しく、太平洋は遠回りになる。海人族安曇の航海順位でも、記紀の出雲神話タケミナカタの逃避コースでも、歴史書はすべて日本海が先だったと言っている。それは対馬海流のなせるわざでもあった。対馬海流の乗るということは、つまり名神高速道路に乗るということ。最速で東北までいける。しかし太平洋の海流では外海に流されてしまう。
6 だからこそ、隔絶した地域から巫女が選ばれた?
ここが畿内説の逆説的な強みだとも言える。
そしてなにより大和の天理にある東大寺山古墳からは「中平」年号の鉄剣が出た。ここは畿内説にとって味方になる。全国で出てきた紀年銘文では最古の中国の年号である。しかも金象嵌は純金製であった。(あの稲荷山古墳鉄剣でも七割程度の純度)また黒塚古墳のU字型パイプ状遺物も、難升米がもらった黄どうである可能性がある。
7 ではなぜ魏志は方位がめちゃくちゃなのか?
いよいよ本題の核心にせまる微妙な部分にさしかかってきた。
その分析は乞うご期待。
今日はここまで。