新石器革命とは?
「新石器革命(しんせっきかくめい、英語: Neolithic Revolution)とは、新石器時代に人類が農耕・牧畜を始めたことと関連して定住生活を行うようになった、一連の変革のことである。 農耕・牧畜と定住のどちらが先かについては諸説ある。農耕の開始による観点から農耕革命(のうこうかくめい、あるいは農業革命とも)、定住生活の開始による観点から定住革命(ていじゅうかくめい)、食料(食糧)生産の安定化による観点から食料生産革命(しょくりょうせいさんかくめい)[注 1][1][2][3]などとも呼称される」Wiki新石器革命
旧石器と新石器の違い、ご存知だろうか?
旧石器は打製石器で、新石器は磨製石器という最大の違いがある。
打ち砕いて鋭利にするだけの旧石器は主として動物の解体、皮剥ぎに使うものなので、狩猟生活時代の利器だが、磨製石器はそれをさらに持ちやすくするために表面の鋭利な断面などを磨き上げるもの。これだけで石器を持ちやすくし、つまりは力が入れやすくなる。打ち砕いただけでは手に傷を負ってしまうのだ。
それがどうして農業を生み出す革命の起点となったのか?
一般に「農業生産が先に考え出され、それに有効な道具としての磨製石器が必然的に考え出された」とされる。しかし最近、旧石器時代にも局部磨製製品が発見され、石器の進化と農業に直接的な原因がないのではないかという意見が主流になり始めている。日本では新石器時代は縄文時代初期から始まるが、その時代に日本で農耕があったという証拠は確かにまだ存在しない。農耕は後期、末期まで待つ。つまり新石器革命=農業革命というこれまでの西欧考古学の考え方はもう通用しないだろうとなってきている。むしろ土器の発明のほうが農業革命だったと言えよう。
考古学はこれまでシュメール~メソポタミアといういわゆる西欧の視点から論じられてきて、新石器の始まりもシュメールで始まり、やがて東へと伝播したという考えにとらわれてきたと言える。磨製石器の使いやすさにばかり視点がいっていたのではないか。現実的には東洋では磨製石器と農耕はほとんどリンクしておらず、日本の考古学者でも磨き上げて美しくするのはむしろ美的観念の革命ではないか?つまり人類の獲得した特性である「凝り」への願望が、農業や牧畜とは無関係にこの時期に爆発するなんらかのほかの原因はあったはずだとなってきている。つまりもっと古い時代にもそういう美的爆発の萌芽はオーカー片に刻まれた線刻などが発見され、美意識が当時の気候変化・・・温暖化によって引き起こされる「ゆとり」の生み出す物だということは人類進化論的には矛盾がないのである。
こうした人類の意識革命が起こる時代はだいたい環境がよくなり、心にゆとりができた頃にみあっている。農耕も牧畜もむしろ気候が安定したから始まる。そういうものに使う道具はそこからどんどん改良が始まる。 それがイベントというものである。石器の持ち手部分を痛くなくする行為は、発明当初、より効率的に動物や植物をさばくための工夫であり、それ以外ではなかったはずだ。だから新石器ができたから農業が始まったことにはならない。気象環境の変化こそが革命の引き金だった。新石器そのものが革命を起こしたのではなく、農業や牧畜の必要性から磨製石器は広まるのだ。
そもそも農業と牧畜のどちらが先かですらまだ明確になっていない。新石器時代の新しい食料として代表的なのは決して農業で作られる穀物ではなく、ドングリなどの堅果植物である。それを採集するのにも、効率よく育てるのにも、持ちやすい石器はさほど関係がなさそうである。すると磨製石器の有用性とは、農業が開始されたことよりも、効率的に使いやすいということで、農業だけではなくそれ以前からの狩猟生活のほうがむしろ便利だったことに気がつくのである。確かに、後天的にその有用性は農業にも効果があったが、それが始まりだったとは言えなくなるわけだ。
それに比べるとその後の土器発明は画期的に調理そのものを楽にした。しかし石器の変化にはそうした革命はどうだったかは漠然としてしまう。そもそもが肉食を愛好した狩猟時代に、動物をより効率的に安全にさばくために新石器がはじまると考えるほうが整合性が高いように感じる。小麦による農業の始まりへの必然性は当初なかったと思えるのである。まず最初に牧畜が始まってこそ新石器の持ちやすさは有効である。刈り取りなどの作業にもそれは有用ではあるが、それはあとになったと思うのである。チョッパーナイフの反面を磨いて持ちやすくしてはいるが、鎌としての本当の効果はそこに柄がつくことでもっと革命的に変化したであろう。
だから西欧考古学の区分である磨製石器発明=新石器革命という概念は西欧だけに通じる考えだというほかはないだろう。狩猟採集生活よりも定住農耕生活のほうが楽しく、楽で、経済的で、人類の進化だというのはもう、あきらかに過去の幻想ではないか?オーストラリア原住民は今でも狩猟生活を続けているが、彼らの中で狩猟も採集も「重く苦しい悲惨な労働」ではない。それはむしろレクレーションのように面白く、ゲームのように開放される楽しい時間なのだと言う。http://members.jcom.home.ne.jp/spu/002.htm
現代の労働者が、果たして仕事のすべてをそのように考えるだろうか?むしろ毎日、したくもない時間に翻弄され、くたくたになって家路につくのではないか?なのである。
磨製石器の発明は、日々の日課などではない、わくわくするような楽しい狩猟や牧畜という心があってこそ、心のゆとりや、発明の楽しみとして、まるでわれわれが絵を描いたり、スポーツしたり、コレクション、工夫をするようにして始まったのである。何かに「凝る」とはそういうものではないか?
縄文土器はある一時期(中期以後)、爆発的にシェイプにこだわりはじめ、火焔土器のような世界に類例のない前衛的形状を持つのだが、最近の発掘では、その使いにくいだろう形状の土器にも煤や食料の残りかすが付着していて、実用土器であったことが言われ始めている。どう考えてもあのようなでこぼこの多い土器では、とても調理、その後の洗浄には不適格としか思えないシェイプをしている。だからこれまで火焔土器などは全部祭祀に用いる特殊なものと考えられてきた。これも大きな間違いだったわけである。そしてさらに後期になるとその奇想天外な土器群は消え去り、機能的な、絵柄だけのものへ変化して弥生時代を迎えた。その時期の気候は寒冷化時代だった。そのころ、まさに三内丸山から縄文人がいなくなるのだ。そして南下して関東~西日本で簡便な土偶や、弥生とミックスマッチした新しい縄文土器が出現している。形状は画一的で弥生土器の機能性を持ちながら、絵柄や模様は縄文的な野生的なものが登場。まさに北日本はそのとき冬の時代を迎えていた。独創性や凝りのある奇抜な縄文土器が終わるのである。人類がいかに気候の変動に左右されたか、進化がとまったかという結論がそこにある。
(概略図です。正確なグラフではありません。ただし今後の年表にはこういう気候変動との対照表が不可欠です。現在、そういうものはネット上にないようです。まだ環境考古学そのものが新しい着想だということですから、大事です。)
こうした土器や石器の実用を考えるのは民族学、文化人類学の仕事で、考古学者はほとんどダメだったのだ。要するに考古学には今後、そういう実用・・・生活に密着した視点論点が補われなければなるまい。ちょうどスーパーマーケットの男性バイヤーが、主婦の料理や家族の嗜好性には頓着なく、売れ行きだけを頼りに商品を仕入れていて不人気になるようなことだろうか。自分自身でプロ並みに毎日料理しない、あるいはまったく料理経験がない30そこそこの若いバイヤーが、うまいもの、食材の関連性、歳時記などに気が向くはずもないのだ。しかしほとんどのスーパーの仕入れ担当者は全部そういう人ばかりなのだ。これでは主婦の気持ちがわかろうはずもない。春先に天ぷらが食べたい・・・それは季節指数でわかっていても、ではタラの芽にふきのとうに・・・と野菜ばかり集めてみても売り上げの向上にはなかなかつながらない。そこに天婦羅粉、卵、サラダオイルなどをジャンルを越えて集めてみる。場合によっては魚売り場に野菜があってもおかしくはない。実際、業態に関係のない、それらを超越した発想の店舗は、その時期、時期にそうしたプレゼンテーションによって画期的に短期に売り上げは伸びるのである。
コンビニエンスという。
業態超越販売法である。
あるいは一時期、少女の好むような商品をなんでもかんでも集めて成功したバラエティ・ショップが流行ったことがあった。そこには物品だけでなく、食料品(チョコやキャンディなど)、花(母の日にカーネーション)、などなど、業種にこだわらない集め方があるものである。実際それらはタイムリーで飛ぶように売れたのである。お客にとってはいちいち自分で考えて探して組み合わせる必要がないからだ。つまりそれがコンビ ニエンスという意味である。そういう組合せの新発想が考古学にも求められる。
使いやすい石器はなんのために始まったかについて、考古学はこれまであまりに人間的でない鈍感な着想しか持たなかった。民俗学、民族学、文化人類学を真の学問ではないもの、主観的手法しか持てない、論法が成立していない漠然としたものとしてなめていたのか?
そしてそれら文学部的な学問もまた、確かに手法を確立させないままやってきたことも確かであろう。それらもまた理系の科学的論法を取り入れて客観性を高めてゆくべきであろう。石器や土器の発掘状況を直接見る、想像しなければならない。どちらも机で考えず、実際にその石器を使い狩猟してみたり、土器を使って調理してみるべきである。学者はなんでも一応はできるのが前提である。エジプト学者の吉村氏や考古学の北條氏はちゃんと毎日料理する。面白いのはみんなそういう人は女房がいない。
人生、人類史はこれだから面白い。
学問を究めるならできすぎ君になれ。しかしまともな結婚生活は期待するなかれでしょうか?
不肖私も×いち独身である~~~~~~~ちっきしょうめ!