伊賀忍軍・秦氏・木地師・山窩・小椋氏・佐々木氏・渡来人でヒットした休日をうっちゃるによい参考サイト
木地師小椋氏の系譜(4版)―清和源氏満季流と本佐々木氏
http://blog.sasakitoru.com/201106/article_3.html
「木地師は、戦国期に近江守護佐々木六角氏の支配下にあって甲賀銀山の開発を担っていた。その木地師の統括者であった小椋氏が、鎌倉幕府草創期には近江守護佐々木氏の郎党であったことが、九条兼実の日記『玉葉』や鎌倉幕府の記録『吾妻鏡』で分かる。」
http://blog.sasakitoru.com/201106/article_3.html
「木地師は、戦国期に近江守護佐々木六角氏の支配下にあって甲賀銀山の開発を担っていた。その木地師の統括者であった小椋氏が、鎌倉幕府草創期には近江守護佐々木氏の郎党であったことが、九条兼実の日記『玉葉』や鎌倉幕府の記録『吾妻鏡』で分かる。」
サンカ(山窩)を考える
http://www.kumanolife.com/History/kenshi1.html
「沖浦和光著[竹の民族誌]には阿多隼人の血を引く人達が南北朝動乱時代に南朝側について戦い、敗れて賤民に貶められ山深く隠れ住んでいた時に、困窮ぶりを見たサンカの人達が親切に箕作りを教えてくれたのが竹細工の始まりだとの伝承が残る被差別 部落の話しがあります」サンカの被差別性
「サンカに関心を持ち始めてから、忍者とサンカについて書かれた本を何冊か読みましたが、いまひとつよく判りませんでした。どちらにしても資料の少ない、謎とされた人達ですから仕方がないのかも知れません。サンカと忍者との関係ですが、サンカ共同体と忍者集団とは別 の存在であったと思います。ですが何らかの関係は確実にあったと思います。飛躍していますが、例えば、サンカ最高権威者(権力者)である乱裁道宗(アヤタチミチムネ)と忍者集団の頭領とされる人物が同一の人物であったり、極めて近い間柄であったり、また忍者集団の中にサンカ出身者が多くいた可能性など充分に考えられると思っています。忍者の持つ技術や文化は大陸からの影響が強いことなどを考慮すると難しくなりますが、やはりサンカ共同体が体制側に組み込まれなかった渡来系の人達を内包していったのではと思っています。八代将軍徳川吉宗に伝わる話しがあります。よく時代劇で、お庭番という忍者のような役職の者が出てきますが、あれは吉宗が紀州藩から隠密を呼び寄せて作ったものらしいです。その隠密ですが、根来者と呼ばれた忍者集団で、密教行者(修験道)から発し、同根には出雲熊野系と紀伊熊野系があり、(その混流の末には信州の飯綱山を発祥地とした忍術の元とも云われる飯綱遣いがある )諏訪神社(出雲系)から出た諏訪三郎兼家(甲賀忍者の祖)の忍術と融合し、さらに河内・和泉・大和・紀伊のサンカ共同体とも融合したものであると伝わっているようです。また戦国時代に信長により討伐された伊賀忍者の頭領である百地丹波が高野山に逃れ、後に根来に移りて本拠とし、信長に抗戦したとの記録があるそうですから、伊賀忍術の流れも伝わったのだと思います。その吉宗側近の根来隠密には、吉宗の生母が自分達と同族であったとの認識があったようです。父の光貞が風呂炊女を側女として源六(吉宗)を生ませたとありますが、隠密仲間の間には大和葛城の忍び(サンカ)の一族の者であると解していたようです。吉宗の剛胆さや庶民性(下々の者に対しても分け隔てなく接し、卑賎とされる者をも登用した)、また様々な障害を乗り越えて将軍の座に就いたことを考えると、闇の者とされた忍者集団やサンカ共同体の見えない形での働きがあったのかも知れません。時代が幕末から明治となり、隠密(忍者)家業の人達も職を失い、お庭番の時に磨いた植木職などを生かし、正業に就いた者も多くいたが、生活に困窮し、再びサンカ共同体へ吸収された人達もいた可能性があるとの見解もあります。」サンカと忍者
日本古代史の謎に迫る
http://www.geocities.jp/toryon33/kodaishi2.html
「「馬子・蝦夷・入鹿」三代の漢字の一番前の「馬」と一番後の「鹿」をつなげば「馬鹿」になる。これを「蝦夷」とからめて三代の名前の意味を読み取れば、「野蛮で未開の愚かな狼藉者たち」となる。」
http://www.geocities.jp/toryon33/kodaishi2.html
「「馬子・蝦夷・入鹿」三代の漢字の一番前の「馬」と一番後の「鹿」をつなげば「馬鹿」になる。これを「蝦夷」とからめて三代の名前の意味を読み取れば、「野蛮で未開の愚かな狼藉者たち」となる。」