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翹岐記事の分析 『日本書紀』はまったくの出鱈目本か?


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韓国ドラマの翹岐


●翹岐と大佐平智積に関した記事
二月の丁亥,百済の弔使の人等言く、「去年十一月、大佐平智積卒せぬ。又百済の使人、崐崘の使を海裏に擲れたり。今年の正月に、国の主の母薨せぬ。又弟王子、兒翹岐及び其の母妹の女子四人、内佐平岐味、高き名有る人四十余、嶋に放たれぬ」といふ。

・ここで百済の使者は智積が死んだと伝えている。
・また翹岐とその一家が離島に送られたとも言っている。

庚戌(02.24)に、翹岐を召して、阿曇山背連の家に安置らしむ。辛亥(02.25)に、高麗・百済の客に饗へたまふ。癸丑(02.27)に、高麗の使人・百済の使人、並に罷り帰る。

夏四月の丙戌の朔癸巳(04.08)に、大使翹岐、其の従者を將て朝に拜す。乙未(04.08)に、蘇我大臣、畝傍の家にして、百済の翹岐等を喚ぶ。親ら對ひて語話す。仍りて良馬一匹・鐵廿铤を賜ふ。

・翹岐のことを大使だと書いている。
・蝦夷が翹岐を厚遇したと書いている。

五月の乙卯の朔己未(05.05)に、河内国の依網屯倉の前にして、翹岐等を召びて、射猟を観しむ。庚午(05.16)に、百済国の調の使の船と吉士の船と、倶に難波津に泊れり。【蓋し吉士は前に使を百済に奉りたるか】。壬申(05.18)に、百済の使人調進る。吉士服命す。乙亥(05.21)に、翹岐が從者一人死去ぬ。丙子(05.22)に、翹岐が兒死去ぬ

・続々と百済から人が来ている。これはみな逃避行や救援希求であろう。
・理由は一切なしで、いきなり翹岐の従者と実子が死んでいる。

秋七月の甲寅の朔壬戌(07.09)に、客星月に入れり。乙亥(07.22)に、百済の使人大佐平智積等に朝に饗へたまふ。
【或本に云く、百済使人大佐平智積及び兒達率 、名を闕せり・恩率軍善といふ】。
・前に死んでいるはずの智積が朝廷で饗宴を受けている。

乃ち健兒に命せて、翹岐が前に相撲らしむ。智積等、宴畢りて退でて、翹岐が門を拜す。丙子(07.23)に、蘇我臣人鹿が豎者、白雀の子を獲る。

現代文にしてこれらを並べてみよう。
二月二十四日、翹岐(ぎょうき)を呼んで阿曇山背連(比羅夫)の家に住まわせた。
夏四月八日、大使翹岐(ぎょうき)が従者を連れて帝に拝謁した。
十日、蘇我大臣は畝傍の家に、百済の翹岐(ぎょうき)らを呼んで親しく対談した。良馬一匹と鉄(鉄の延べ板)二十挺を贈った。
五月五日、河内国依網屯倉の前に、翹岐(ぎょうき)らを呼んで騎射を見物させた。
二十一日、翹岐(ぎょうき)の従者の一人が死んだ。
二十二日、翹岐(ぎょうき)の子どもが死んだ。
二十四日翹岐(ぎょうき)は妻子を連れて、百済の大井の家(河内長野市大井)に移った。
二十二日、百済の使者、大佐平智積(ちしゃく)らに朝廷で饗応された。そこで力の強い者に命じて、翹岐(ぎょうき)の前で相撲をとらせた。
智積(ちしゃく)らは宴会が終わって退出し、翹岐(ぎょうき)の家に行き門前で拝礼した。


登場人物解説
韓流歴史ドラマファンならだいたい御存知かも?

●翹岐 (ぎょうき。朝鮮読みキョギ:교기)
「義慈王の甥(おい)または子。皇極(こうぎょく)天皇元年(642)義慈王の母の死にともない島流しとなる。同年来日し大使として参内(さんだい),蘇我蝦夷(えみし)宅にまねかれた。のち百済大井(大阪府河内長野市か)にうつった。」コトばんく 翹岐
「義慈王は即位するとただちに貴族中心の政治運営体制に改革を行った。642年に王族翹岐 とその母妹女子4人を含んだ高名人士40人を島で放逐した。すると貴族らの権力が弱化されて王権が強化された。しかし王権強化のための義慈王の極端な措置のため、王族と貴族の間に対立が深刻になって、百済支配層の分裂が発生するようになった。またこのころは日本に朝貢もしており、王子豊璋(徐豊璋)王と禅広王(善光(徐善光)王)を人質として倭国に滞在させていた。」Wiki翹岐



●大佐平砂宅智積(ちしゃく)
? 義慈王のときの大佐平だという。翹岐 とは共に義慈王に反駁する旧王族となるか?韓国に智積石碑あり。京都の智積院との関係はないだろう。

百済には
砂宅妃(サテクビ:사택비)  オ・ヨンス(오연수)という王妃の名がある。
沙宅積(サテクジョクドク)の娘で武王(ムワン)の妃。懸命かつ冷徹・冷静な人物である。
「王として戴冠するものは百済の純血でなければならない」と息子翹岐(キョギ:교기)を王にしようとあらゆる画策を巡らす。
つまり翹岐 の母親であるので、砂宅智積も翹岐 の血縁ではないかと思える。


●余豊璋
扶余 豊璋(ふよ ほうしょう、扶余豐璋、生没年不詳)は、「百済最後の王である義慈王(在位:641年 - 660年)の王子。『日本書紀』での表記は扶余豊璋もしくは徐豊璋であるが、『三国史記』では余豊璋もしくは徐豊璋、『旧唐書』では余豊もしくは徐豊である。また、『日本書紀』にも登場する百済の王族翹岐を豊璋と同一人物とする説もある。倭国滞在中、百済本国が唐・新羅に滅ぼされたため、百済を復興すべく帰国した。」

「『書紀』には既に孝徳天皇の650年2月15日、造営途中の難波宮で白雉改元の契機となった白雉献上の儀式に豊璋が出席している。豊璋は日本と百済の同盟を担保する人質ではあったが、倭国側は太安万侶の一族多蒋敷の妹を豊璋に娶わせるなど、待遇は賓客扱いであり決して悪くはなかった。」Wiki扶余豊璋


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●豊璋の父百済義慈王と祖父武王
武王(ぶおう、ム・ワン 무왕 580年 ? - 641年 )は、百済 の第30代の王(在位:600年 - 641年 )。27代王の威徳王 の子。諱 は璋、『三国遺事 』王暦には武康、献丙の別名が伝わっている。『隋書 』には余(徐)璋(余(徐)は百済王の姓)の名で現れる。
※武王の「璋」はあきらと読めるので「明」と同義だから舒明天皇のことともいう説アリ。http://ameblo.jp/miura-hari/entry-11941926837.html
これは要するに皇極紀が百済史書を置き換えてまるっと作られたという偽書説につながる。


義慈王(ぎじおう、ウイジャ・ワン 의자왕 599年 - 660年 )は、百済の第31代、最後の王(在位:641年 - 660年)で、諱の義慈のままに義慈王と記される。第30代の武王の嫡男である。『旧唐書』などには扶余義慈として現れる。高句麗と共同し新羅を攻めていたが、逆に唐・新羅同盟を成立させてしまい、660年に唐に滅ぼされた。孝、泰、隆、演、豊璋、勇[1](百済王善光)の6人の王子の名が確認できるほか、庶子41人がいた。
いずれもWiki






鈴木靖民(すずき・やすたみ、横浜歴史博物館館長)の一説では豊璋=翹岐
小林惠子(こばやし・やすこ、作家)説では翹岐=中大兄、智積=中臣鎌足
しかし『日本書紀』では大職冠を下賜された人物が二人あり、それは豊璋と、死の直前の鎌足だけである。大阪府高槻市、昔の摂津三島にある阿武山(あぶやま)古墳からこの冠帽らしき遺物が出ており、阿武山古墳を鎌足の墓とする説が有力視されているが、『日本書紀』では鎌足はのちに息子不比等によって今の談山(たんざん)神社がある場所に改葬されたとあり、それにしては阿武山には被葬者の遺骸が存在している。もしこの冠が大職冠であるのなら、阿武山は今一人の被下賜者である豊璋の墓だとなる。

小林説では、鎌足の史書での登場は、豊璋が百済王になるために日本から消えた直後に鎌足が登場し、豊璋が百済で行方不明になったとたんに大和で鎌足が再登場する。そのときの鎌足はすでに老衰し、京都山科の別業(別荘)で病に伏していた。この山科は大津と隣り合い、息長氏や三尾氏、あるいは多くの渡来系移住者の、ともに居住地であり、その途中に天智天皇陵も置かれている。鎌足はそれゆえに山科背後の山稜地域を渡来技術者によって開拓、鉱山開発していたと考えられる。実際、いくつかの製鉄遺跡もここに点在する。

藤原氏、鎌足の歴史上の出自は明確でなく諸説あるが、そのなかで東国常陸(茨城県)出身説が強いのであるが、東国や東海で『日本書紀』にある大生部などの多氏に近い諸族の存在があったことは間違いなく、それは開拓民として彼らが早くから入ったということであろうが、ほかに茨田氏や阿蘇氏の入った痕跡が存在する。多氏からは翹岐へ妻が入っており、豊璋はその甥に当たるとされ、多氏、阿蘇氏と藤原氏、鎌足、天智らの深い関わりはあったはずである。

また摂津三島には春日神社があり、この春日(かすが)地名が藤原氏とどのようにからむかもひとつのヒントになるだろう。春日は奈良の春日山が有名であり、まさに春日大社は藤原氏の本拠地である。さらにこの神社は常陸の 藤原氏の神社となる鹿島神宮から分祀されたとされる。摂津三島が今、茨木市と高槻市に分かれるが、「いばらき」地名で鹿島と三島は一致する。また「かしま」は熊本県阿蘇山の杵島(きしま)からくる名前で、これは阿蘇氏、多氏の九州からの移住があったためだと民俗誌では定説となっている。「きしま」とは鬼島で、鉱山開発地名である。

このように、藤原氏に限らず、蘇我氏などの時の有力者には鉱山、特に武器の材料となる鉄が重要な産業であり、それを支えたのが渡来系技術者、あるいは先住系縄文以来の土着の「くずの民」たちであった。それをいかに牛耳るか、また船を手繰るこれも旧来の海人族をいかに手繰れるかが、宰相、摂政としての座を安定化させたのである。

鎌足が乙巳の変直前に神祇官を蘇我蝦夷大臣から任じられ、これを固辞して三島に篭るのであるが、これは仏教を国家信仰としようとしていた蘇我氏のむしろ策謀で、圧迫されていた旧来の神道の長になればいずれは政治的に鎌足があやうい立場に追い込まれかねないからであろう。隠棲の理由はこれであろう。そこでいきづまったあげくにクーデターしかなくなった。

鎌足と中臣氏には確たる氏族関係があったかどうか定かでなく、『日本書紀』では不比等が力を持ったのちに鎌足像を作り上げてある。したがって鎌足がどこから出てきたかも不明なのであるから、これを百済から来たとしてもあながち違和感はあるまい。

さて、死んだと報告された智積が日本にいきなり登場するシーンは、自国で死んだと言う流言を流してとんずらしたということだろう。最初から翹岐も智積も、意図的に日本に亡命したということだ。その理由は百済の義慈王との不仲である。旧態官僚として追い出されたのだ。だから二人ともに、故郷百済には強い復帰の思いがあるはずだ。



ただし、筆者には別に、『日本書紀』のこうした出来事はすべて百済の出来事を置き換えただけであり、日本の大和では特段なにも事跡はなかった(もちろん壬申の乱や乙巳の変や磐井の乱やていびの乱などもなかったかも。すべて治乱興亡思想で創作)。さらに白村江の敗北もなしで、大和は救援しなかったという説も持っている。

つまり『日本書紀』は全部作り事説だが、そうともいえない考古学的新発見もあるので、『日本書紀』のどこまでがうそか本当かを見極めるのがこれからの歴史学だと思っている。

中国共産主義歴史学の見方は、『日本書紀』は大げさに作り上げた絵空事というのが定説であるが、それもこれまでの中国歴代王家と大和王家の関係から出た歴史が裏付けた解釈で、あながち虚言ともいえないものだろう。日本の地方の立場から見ても、大和を中心とした『日本書紀』記述には信憑性は乏しいという見方が強い。

かと言って九州の王権がそれほど強く、長く、7世紀頃まで中国と強い関係を持ってきたかといえば、それも考えにくい。古代は朝貢外交であるから、列島も半島も、二転三転した地域国家の朝貢外交が出入りしたのが当然である。まして中国でさえ王権は常に安定しなかった。『日本書紀』はやはり女帝を正統化するためにかなりの背伸びや潤色がふんだんに盛り込まれた物語仕立てなのである。そこに信憑性がないのは、大和にとっても同じコトであろう。









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