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秦氏と三角縁神獣鏡・笠松と黄幢と「はた」

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「三角縁神獣鏡はいくつかの共通した特徴、規範をもっている。

一、面径が平均22.3センチメートルで、20~25センチメートル内に大半の鏡が入ることから、大きさが均一で中国鏡の中では大型鏡に属する。

二、鏡背の内区に東大父や西大母などの神仙と龍虎などの霊獣が配される。

三、縁が三角形状に肥厚している。ことなどがあげられる。

四、一見して同じ鏡なのであるが、背の図像の配置や神像・獣像を対比してみると多様な変位がみられ、異なる鏡であるの特徴である。

  三角縁神獣鏡は画文帯神獣鏡と共に、背の図像は、不老長寿を願った神仙思想をデザインしたものである。当時の指導者層にもてはやされ、それを共有することが、大和政権を中心とする首長達の秩序維持に役立っていたかのようである。」

「中国鏡の大きな画期は、漢代にある。文様構成が多様化すると同時に、銘文が確立し、盛行している。漢代には、多種類の銅鏡が製作され、星雲鏡類・四乳禽獣文鏡類を除く、ほとんどの種類に銘文が鋳られるようになる。それらは、鏡の文様に拘束されることなく、同じ吉祥の銘文が踏み返し、用いられるのが特徴である。後漢の銘文は七言句、四言句、三言句の形をとり、数種類のテキストがあり、それに基づいて適時省略、改変して長寿・子宝・出世・財産が銘文を創出している。神獣鏡類の代表的な銘文には、「五帝天皇 白牙弾琴 黄帝除凶 朱鳥玄武 白虎青龍」があげられ、画像鏡類には、「尚方作竟四夷服 多賀国人民息 胡虜殄滅天下復○風雨時節五穀熟 長保二親得天力」、「長宜子孫」、「上有仙人不知老 渇飲玉泉飢食棗」、「尚方作竟真大巧 上有仙人不知老」があげられる。

  三角縁神獣鏡の銘文にもこのような中国の伝統を引継、七言句、四言句、四字熟語によりかたちづけられたテキストが存在する。テキストのルーツは方格規矩鏡の「尚方作鏡真大好 上有仙人不知老 渇飲玉泉飢食棗 浮游天下敖四海 寿如金石為国保」にあると考えられ、「真大好」を「其大好」に、「上有仙人不知老」を「神守及龍虎」と具体化し、「浮游天下敖四海」を削除して三角縁神獣鏡のテキストとしている。また、方形区画に銘を刻む場合は、四字熟語「天王日月」が多く、天帝と日月のバランスがとれた理想の状態を表している[18]。」
東京大学総合研究博物館 http://www.um.u-tokyo.ac.jp/publish_db/2001Hazama/07/7126.html






笠松文のある神獣鏡を、魏がわざわざ卑弥呼のために作った、あるいは呉工人に作らせたという説が最近復活している。しかし、それならばその鋳型が華北や朝鮮半島から、いやそれが無理でも国内の近畿で出てくるべきである。楽浪でもいい。このようにこの説にはまだ欠けている証拠がある。箸墓と鋳型である。


岸本直文による三角縁神獣鏡編年の一案
 
 
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北條芳隆・一瀬和夫・福永伸哉編『古墳時代の考古学4 副葬品の型式と編年』2011より 1金属製品の型式学的研究 岸本直史「②三角縁神獣鏡と前期古墳」より編集
 
 
 
 
 
「岸本によれば三角縁神獣鏡のデザインは、これまで言われてきたような画像鏡的要素も多々あるものの、画文帯神獣鏡諸形式を改変したものが主流であると言う。岸本や福永の編年はあくまでも一案ではあるが、これまで大阪府の安満宮山古墳の五面の鏡のうち、青龍鏡から類推して、「三角縁神獣鏡を魏鏡(中国製)とし、卑弥呼の遣使時に、一括して、同時に製作され、下賜されたとする説にとって「有力証拠の一つ」であると言う(岸本直文「卑弥呼の鏡の可能性強まる」『京都新聞』8月8日付)。しかし、それが最終判断として正解かは、筆者は否定も肯定もしない。そもそも考古学がそういう断定をするべき学問だとは考えていない。
 
 
 
いずれにせよ三角縁神獣鏡にはさまざまな絵柄やデザインがあることは、すでにここにも書いたことであり、ではそれを時代を追って編年した資料を筆者が常々探していたことは事実である。たまたまそのひとつに当たったので、利用させていただこう。
 
 
 
三角縁神獣鏡の意匠のうち、邪馬台国の位置問題にとって最も重要なのは、卑弥呼が生きて、そして墓に入れられるまでの3世紀に該当する絵柄がある銅鏡であることは言うまでもない。つまりその絵柄で最古期に当たる3世紀中ごろ、できれば卑弥呼の死直後のものこそが「卑弥呼の鏡」ではないかと類推するのはあながち間違いではないだろう。
 
 
するとその時期の絵柄とは、上の図にもあるが、最古期・古段階にまたがって採用されている「傘(笠)松文」ということになるだろう。以前、笠松文とは吉備の象徴ではないかとか、卑弥呼が魏から檄としてもらった黄幢(こうどう)というものの形ではないかと書いたことがある。
 
 
 
 
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▲朝鮮・安岳3号墳主壁画
奥野正男『考古学から見た邪馬台国の東遷』
(毎日新聞社1982年)より引用
 
黄幢の形状は三段式のキヌガサ状のものが朝鮮の壁画にも描かれており、日本の装飾古墳や船形埴輪などのキヌガサの原型のひとつになるかとも見える。
 
「笠松」という命名は、このさい、あまりふさわしくなくなったようにも思え、どうもやはりこれは黄幢であろう。
 
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岸本の別の作図にある笠松文の立体画像でも、その形状はどうみても旗物のようになっている。
 
 
 
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さて、その今は笠松模様とされている絵柄のある最も古い様式の鏡が出た場所の一覧である。これは筆者が拾い上げたもので、完全かどうかはわからない。
 
 
「笠松文」のある三角縁神獣鏡出土地一覧
●福岡県
香住ケ丘古墳(福岡市東区) 4後半・円墳   獣帯二神二獣鏡 
御陵(韓人池)古墳(大野城市)4後半~5前 三角縁四神四獣鏡 
原口古墳 (筑紫市武蔵)4前半?・円墳  三角縁三神三3獣鏡2(椿井・赤塚と同氾 )
●京都府
椿井大塚山古墳 3後半・纏向型 獣帯二神二獣鏡
●奈良県
黒塚古墳 8号鏡(直径22.3cm)三角縁神人竜虎鏡
鏡作坐天照御魂神社(田原本町)所蔵 唐草文帯三神二獣鏡
●大阪府
国分神社(大阪府)蔵 徐州・洛陽鏡
●山口県
宮ノ州古墳 4後半 半円方形帯同向式神獣鏡
●静岡県
 上平川大塚古墳 4後半 獣帯同向式神獣鏡
●愛知県
 東之宮古墳  3後半~4前半   唐草文帯三神二獣鏡 
●静岡県
新豊院山2号墳   4後半?・纏向型 銘帯四神四獣鏡 
●岡山県
伝・鶴山丸山古墳 4後半・円墳  唐草文帯二神二獣鏡
●大分県
赤塚古墳   4後半・柄鏡型 唐草文帯二神二獣鏡
●福井県
花野谷古墳  4前半 天王・日 月獣文帯四神四獣鏡
 
1 笠松文のある鏡が出た古墳は、遡っても3世紀後半を遡らない。
2 つまり卑弥呼の死よりもあとに築造された古墳である。
 
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赤塚古墳出土鏡の笠松文
 
 
 
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鏡作神社ご神体の鏡の笠松文
 
 
 
 
もしこの笠松文が黄幢で、それが三角縁神獣鏡の最古の絵柄であるならば、想定できるのは、卑弥呼がもらった黄幢のデザインが、ある意味、ほかの神仙思想の絵柄の神獣たち同様に、鏡に採用されたものを邪馬台国の女王が欲した「好物」だったのかも・・・と考えてみるのもなかなか刺激的である。
 
 
笠松がブームとなって、卑弥呼死後もしばらく愛用されたとも考えうる。もちろんそれが魏からもらった鏡だとはまだ言うわけにはいかない。三角縁神獣鏡そのものの最古の時代が、3世紀後半を遡らないのだからだ。もしそう断定したければ、3世紀半ば築造という箸墓や纏向石塚などの前方後円墳型の墳丘墓から出てこなければなるまい。そういう意味で纏向の黒塚古墳で1989年ころ再確認された8号鏡は重要である。黒塚の石室石槨外側のスポットには、あのU字型のパイプが置かれており、それはもしや組み合わせればちょうど黄幢になるかも知れない遺物だからだ。これもすでにだいぶん前にここに書いた。
 
しかしU字型鉄製品の判別結果がどうなっているのか、筆者はまったく知らない。
 
 
 では本場の中国には笠松文のある銅鏡はあるだろうか?
最近、中国でも三角縁神獣鏡が見つかったという説が多々出てきている。
しかし今の中国の情報はなかなかにわかには信じがたいという人も多い。
 
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大阪の国分神社に徐州・洛陽鏡があるが、あくまでもそれは伝承なので、本当に中国のものかはわからない。ご神体では鉛同位体分析も無理かも知れないが。
 
 
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一番下が笠松文のある中国鏡??
 
 
松木武彦の言うように、近畿の弥生時代が、縄文のヘテラルキー社会で、ケルトの海洋民たちと同じように移動を主とする狩猟民族であったならば、弥生近畿人のダイナミックな行動力が、中国と直接の考証していた結果で、縄文的な邪馬台国世界に早くから持ち込まれていたなんてこともありはしないかと妄想してしまうが。。。(ブリトンのケルトを今模索しているが、茫洋として広すぎ手がかりが見つからないまま。それにケルトは遡っても縄文ほど古くないのだ。せいぜい紀元前3000年を起原とするようである。)

 
 
 
笠松文が吉備の古墳から出たのは4世紀後半の古墳からで、これまで楯築などの弥生時代末期~古墳時代初期の墓から出てこないのは、邪馬台国吉備説にとっては大きな欠落である。吉備の墳丘墓からは弧帯文や特殊器台や東海系出雲系土器は十二分に出ていても、鏡がほとんど見つかっていないのである。
 
 
 
三角縁神獣鏡の笠松文のある形式の鏡が、果たして卑弥呼とまったく同時代の鏡かどうかは、今のところ不明のままで、どうもやはり「どうしても箸墓」を暴かねば解決しそうにない。ひとえに宮内庁の好意を待つしかない。
 
 
いずれにせよ、黒塚古墳の被葬者がいよいよ邪馬台国にとって重要な墓になったことは間違いないだろう。この被葬者の頭部に立ててあった鏡は、まさに三角縁のモデルだと岸本が言う、画文帯神獣鏡なのである。そしてあの椿井大塚山古墳でもこの鏡が頭部にたった一枚置かれていた。あとの神獣鏡は十把ひとからげ状態だったことは黒塚と同じである。
 
 
 
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つまり・・・3世紀後半~4世紀前半の最重要だった鏡は画文帯であり、三角縁は当初、その絵柄をちりばめた中に、笠松も描かれた鏡だということである。」

民族学伝承ひろいあげ辞典過去記事「三角縁神獣鏡の編年と卑弥呼の鏡問題・笠松文は黄幢か?」 http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/56440144.html




以上のように、秦氏の松尾が黄幢の意匠化であったとすると、秦氏が卑弥呼の3世紀に、すでに列島に登場していた可能性はまったく否定できるものではなくなるのである。






追加。十重二十重。はたえ=は多いこと。





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黄幢







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黒塚古墳U字型 鉄製品















 









 



 



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