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秦氏一覧再掲載と松尾大山咋神について

秦氏一覧
◆考古学から
■平城宮出土木簡に書き残された間違いなく実在確定の秦姓の人
木簡1
 (表)播磨国赤穂郡大原□
 (裏)五保秦酒虫赤米五斗
木簡2
 (表)赤穂郡大原郷 秦造吉備人丁二斗 秦造小奈戸三丁斗
 (裏)□庸一俵
木簡3
 (表)赤穂郡大原郷 戸主秦造吉備人
 (□は不明な字)
秦酒虫 
秦造吉備人
いずれも播磨国赤穂郡の人である。

◆播磨国の大辟神社
 1979(明治十二)年の「赤穂郡神社明細帳」によれば、大避神社は旧赤穂郡内で21社とされているほか、『相生市史』ではもともと27社は存在していたと記載されています。現在では多くが合祀され、赤穂市内では4社が残るのみです。
ここまでhttp://www.ako-hyg.ed.jp/bunkazai/column/sakoshirekishi.html
今の赤穂市と相生市をあわせた地域がかつての播磨国赤穂郡坂越(さごし)郷である。

世阿弥の「風姿花伝」に「坂越河勝伝承」があるが、世阿弥がなぜ赤穂郡の秦酒虫ら「秦人」らの存在を知っていたのか、まずもって不明である。考えられるのは世阿弥が秦氏を名乗る背景に、彼が真実秦人の子孫であるか、その伝承を神社に集まる芸能者の誰かから聞いたか、当時誰でもその逸話を知っていたかのいずれかだろう。
赤穂郡については秦氏・秦人の移住記録はないが、揖保郡には記録がある。

●茨田郡枚方から播磨国揖保郡枚方里へ移住した秦首と部
北河内茨田(まんだ)郡は今の枚方市・寝屋川市・東大阪市の一部を含み、中心地は寝屋川市太秦である。ここに茨田堤と茨田三宅を築いた(『古事記』)のが茨田氏と秦部である。今、「まった」という地名あり。それが播磨に移住。河勝の墓がここにもある。『播磨国風土記』揖保郡


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◆文献・伝承から
功満君
弓月(ゆんずの)君(融通王 ゆうづううおう)『新撰姓氏録』では功智王
これらはすべて祖人として自称した名で、秦氏そのものの祖人かどうかは不明。

浦東君

●秦酒公(はだのさけのきみ)
同じく意美
同じく宇志 

●深草秦氏
秦大津父(おおつち)
これ以降秦氏は、大蔵の財政官人に
忌寸豊道 深草郡司
忌寸永年 同じく

●深草で鴨氏に嫁をもらった者
秦伊侶具(いろぐ) 伊侶巨(いろこ)とも。秦中家忌寸(はたのなかついえいみき)の遠祖『延喜式神名帳頭注』
秦都理
丹照     

●秦大蔵官僚氏名 はたおおくら
http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/48619777.html
秦大蔵造万里(はた・の・おおくらのみやっこ・まり)『日本書紀』斉明四年六月条
秦大蔵連弥智(はた・の・おおくらのむらじ・みち)『大日本古文書』
秦大津父(はた・の・おおつち)「大蔵の官に任ぜらる」『日本書紀』欽明前紀
秦公酒(はた・の・きみ・さけ)「大蔵の長官に任ぜらる」新撰姓氏録』山城国諸蕃
秦伴造(はた・の・とものみやっこ)「大蔵椽に任ず」『日本書紀』欽明元年八月条
秦忌寸(はた・の・いみき)「融通王(弓月王)の四世孫大蔵秦公志勝の後也」『新撰姓氏録』左京諸蕃
秦永岑 大蔵史生(おおくらししょう) 『平安遺文』巻1
秦雪持 大蔵大主鎰(おおくらだいしゅいつ)『平安遺文』巻1
秦忠雄 大蔵大典鎰(おおくらだいてんいつ) 『平安遺文』巻2
秦奥世 大蔵省掌(おおくらしょうしょう)『平安遺文』巻1
秦前広橋 大蔵少録(おおくらしょうさかん)『平安遺文』巻2
太秦連雅 大蔵大録(おおくらだいさかん) 『平安遺文』巻2
秦貞世 内倉寮蔵人(うちつくらりょうくろうど)『平安遺文』巻1

◆葛野秦氏 
●秦造川勝(河勝)(推定565?-645?はたのつくり・かわかつ)
弁正
朝元(推定704?ー750?)

●平城京からの遷都に伴い藤原氏と同族化した者 
藤原種継(737-785) 父:藤原清成 母:秦朝元女 長岡京造営使
山人(母:山口中宗女)、
縵麻呂(母:雁高宿禰佐美麻呂女)
世嗣(母:不詳)
藤生(母:不詳)
湯守 井手宿禰賜姓
石勝
物主
牛麿
百足
秦忌寸足長 長岡京造営長官 主計頭=財務長官 正八位(最下位。身分低し)
忌寸宅守(やかもり)同じく長岡京太政官院の垣根造営
忌寸都岐麻呂(つきまろ)同じく造営少工(大工の次)
秦物集氏(もずめ) 桂川物集女車塚古墳の被葬者?
秦太秦公忌寸浜刀自女(はまとじめ) 桓武天皇皇子・賀美能(かみの)親王(嵯峨天皇)の乳母で賀美能宿禰を賜る。

●秦公直本(なおもと)以下19名 惟宗(これむね)姓のはじめ。883年。明法学者。『令集解』編者。

◆近江依知(えち)秦氏
朴市(えち)秦造田津(たくつ)白村江で戦死 依知とは近江の琵琶湖東岸にあった愛知(えち)郡のこと
依知秦公駿河
同じく秦公
同じく豊上
以上『平安遺文』 勝堂古墳群の被葬者か?
(「えち」地名や人名は全国に点在する)

◆楽師としての秦氏
太秦嶋麿  この後裔として、楽家として栄えた東儀、林、岡、薗家などが派生。
現在の宮内庁楽部にもその子孫がいる。国家「君が代」林広守 軍歌「海ゆかば」
東儀季芳 作曲。
 
◆その他秦氏
秦久麻:聖徳太子時代、天寿国繍帳製作者。
大蔵秦公魚主 
泰澄(682-767) 父:三神氏(秦氏流)母:伊野氏(渡来系)越前国麻生津産まれ。白山にやってきた修験道の僧である。白山神社中興の祖。
秦忌寸老(はたの・いみき・おゆ) 『続日本紀』天平20年(748)
秦忌寸箕造(みつくり)葛野郡 宝亀七年(776)
朝原忌寸 北嵯峨の人々
釈弁正法師 『懐風藻』(この子どもが朝慶・朝元)
秦忌寸豊穂 豊嶋郡正八位『正倉院文書』「造東大寺司移」
井手小足   摂津国豊嶋郡 正七位 『続日本紀』
秦大炬(おおい) 播磨国土豪 坂越郡墾生山(はぶやま)の塩山開発『平安遺文』「赤穂坂越・・」

◆豊前・若狭・越前の秦氏
このほか有名な『正倉院文書』豊前国(仲津郡・上三毛郡)戸籍に加自久也里、塔里、丁里、の秦部・人の氏名が横溢。人口の98%にも及んだ。

「正倉院文書」大宝2年(702)残簡戸籍(最古)
■仲津郡丁里(行橋の一部、豊津、犀川に当たる)
秦部  239戸、丁 勝(かつ) 51戸、狭度勝(さわたり・かつ) 45戸、川辺勝 33戸、古溝勝 15戸、大屋勝 10、高屋勝 3戸、阿射彌勝 1戸、黒田勝 1戸、門勝 1戸、田部勝 1戸、物部 4戸、車持部 3戸 、鴨部 3戸、大神部2戸、日奉部 2戸、宗形部 2戸、難波部 2戸、矢作部 1戸、中臣部 1戸 膳臣1戸、津守 1戸、呂部 1戸、建部 1戸、 錦織部 1戸、高桑部 1戸、生部 1戸、春日部 1戸、刑部 1戸、無姓 49戸、不詳 2戸。

■上三毛郡塔里(とうのさと)(唐村のある大平村=旧上毛町あたり)
秦部66戸、塔勝 49戸、強勝 1戸、調勝 1戸、梢勝 1戸、楢勝 1戸、難波部 2戸、海部 1戸、物部 1戸、膳大伴部 1部。

■上三毛郡加自久也里(かしきえのさと?)(築上町あたりか)
秦部 26戸、河部勝 16戸、上屋勝 13戸、膳大伴部 4戸、飛鳥部 4戸、刑部 1戸、膳部 1戸、浴部 1戸、無性 7戸。」
(すべての戸主名から一歳の緑児まですべての家族の全記録付記。完全なる戸籍記録として最古)


越前、若狭にも。若狭と志摩はかつての「御食国(みけつのくに)」で天皇の食料を出す指定国である。豊前国戸籍については当ブログの書庫「秦王国の考古学」参照。ほぼ場所の確定はできている。若狭の食料に関しては膳臣(かしわでの・おみ)を調査のこと。

●その他豊前国豊後国の秦氏から分かれたと伝承される氏族。
辛嶋勝
川辺家
赤染家
長光(ながみつ)家
八田家
砦見氏(あざみなど
敦賀氏
 
◆葛野郡班田図にある秦氏
全82人
秦継守
永長
諸之
高野
三方
宗成
富継
万呂


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その他、自称した者
◆室町時代に秦姓を自称した者
秦氏安(「風姿花伝」がそう書いた。村上天皇の10世紀に「河勝の芸=申楽を伝える遠縁のもの)
能楽師・世阿弥(秦元清) 氏安の子孫と自称
金春禅竹?氏安の29代目を自称

◆中世武士団で秦姓を名乗った者
島津忠久(1165以前ー1227)
対馬宗氏 惟宗氏分家
長曽我部元親(ー1599)

◆明治維新直後の官僚の半数以上が秦氏出身と自称
明治以後の藤原や秦や源氏・平氏などの名乗りはあくまでも自称で、要するに明治政府が名もなき下級武士によって成り立っていたために、そのよるべが明確でないものが非常に多かったのである。もちろんそれが平民となると、眉唾と判断せざるを得ない者が多くなってしまう。なんとなれば、後世に日本に侵入した亡命者らが、勝手に「はた」を名乗ることは可能だっただろう。

こういうことは戸籍がいい加減だった昔はいくらでもあるはず。また氏族といえども、姓名の売買など当たり前だった。戦国時代の武家・大名が源氏や藤原を名乗るのも、それこそ自分の出自がわからない人々だったことの証拠にすることも可能である。






松尾大社の大山咋神について
松尾の神はひと柱は宗像の市杵島姫であるが、いまひと柱があって大山咋神とされている。

宗像の女神は海上交通の守護神だから、秦氏が最初倭国へ来るときの水先案内、先導者が安曇・宗像・壱岐などの海人族だったことから祭っていると考えられる。すると大山咋とはどういう性格の神だろうか?

この神は近江の比叡山と山背葛野の松尾山の神とされて各地に分祀されており、「咋」とは、ほかの摂津三島の地主神である三島溝咋という、摂津開闢の土地神があることから、大山=松尾山を杭を打って開墾した祖神という意味であろう。つまり葛野秦氏、松尾秦氏の祖の名前である「酒公 さけのきみ」が葛野開闢の祖人であるなら、それを神格化したのが大山咋ということになる。

ただし、松尾を開いた秦氏と、最初に葛野の嵯峨野地域に入った河勝子孫とが、実際に血脈関係があったかどうかわからない。


ほかの古代豪族の例を持ってくるならば、熊本の火君には、火の中の君があったことがわかっており、豪族に上・中・下氏族があったとしてもおかしくない。なんとなれば江戸時代の伊賀服部衆にも上・中・下人があった。



大阪府寝屋川市秦町は記録にある茨田池および氾濫が多かった寝屋川の治水工事に、秦人・秦部と茨田氏を投入したとあるから、治水の名人として後世に投入されたためであろう。彼らは氏ではなく土木部民とその管理者である秦人であろう。

奈良時代から平安時代には「幡多」と表記した。まさしく「多くのハタ」という地名である。海を渡り渡来した帰化人の総称としての「ハタ」という理解は間違いではない。「幡多」は岡山県にもある。また幡多に美称の「八」をつければ「ヤハタ」になる。八幡神の始まりである宇佐神宮の伝承では、ヤハタの神は最初、豊前国香春岳に降臨して、適地を求めて順次新しい社を作りながら宇佐にたどり着いている。そのコースに正倉院文書に記録のある丁里、加自久也里、塔里が点在する。今の福岡県行橋市から豊前市へと続き、最後の塔里があるのが旧大平村に比定されるのは、ここに秦氏のものらしき古墳が二基あるからである。ここから先に山国川(三毛川)が県境を形成し、ここまでが福岡県上三毛郡、川わ渡ると下三毛郡となる(現在の上毛、下毛)。下毛は大分県中津市で大貞八幡薦神社があり、寄り添うようにして神職だった加来地名がある。「かく」は神が来るという地名である。この加来氏は中世に豊後一ノ宮で。大友氏が京都岩清水八幡宮から勘定した檮原八万社の神職となった。その加来地名が大分市では賀来と表記される。筆者の居住地はくしくもその賀来地区に隣接している。


宇佐の託宣集にも、八幡神は八流の幡多を大元山に降臨させてとあるように、秦氏の「はた」が「幡」だとしている。それはとりもなおさず、多くの民族だという意味にとることが可能である。九州にはすでに多氏、紀氏といったやはり多くの部民をかかえる殖産氏族があったと思われ、ここでもやはりかなりの同族化があったことだろう。

秦氏が同族となっていったと推定される氏族は、紀氏、葛城氏、鴨氏、多氏といった海人系出雲・筑紫の氏族。中臣氏、物部氏、忌部氏などの祭祀氏族、蘇我氏、藤原氏のような政治的宰相氏族、その他、秦人・秦部クラスになると土師氏、茨田氏、大生部、宗像氏、安曇部、久米部など数知れまい。それでなおさら巨大な一族となっていった。しかるに「はた」はそうした人々の総称となるのが当然である。


秦氏の特殊な祭祀形態として、「うしろ戸の神」を祭る風習があったように言われる。これは広隆寺牛祭りの存在があってのことだろうが、仏教導入以後、部民クラスが寺院境内に巣食うようになった中世に、仏教の後ろ側にいまだかつての古代の神信仰が残存し、混交を推し進めた事情と深い関わりがある。こうした仏教と古代民間信仰の交差は神仏混交、習合などとして今もまだ日本の信仰形態を見えにくくしている。




次回から人類のゲノム分析の最近を篠田謙一の著作から。




















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