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特集5 邪馬台国が生まれるまでに何種類もの渡来があった

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「西日本の縄文晩期後半の突帯文土器を出土する遺跡(縄文系)と、朝鮮系無紋土器や初期の遠賀川系土器を出土する遺跡(弥生系)をみると、
 
・まったく棲み分けている場合と、
・圧倒的に多量の縄文系に少数の弥生系がともなう遺跡、
・圧倒的に多量の弥生系に少量の縄文系がともなう遺跡、
が地域の中で共存している事が多い。
渡来人や渡来系の弥生人は実に巧妙に西日本の縄文人の社会に入り込んでいったのだ」
寺澤薫『日本の歴史 王権誕生』?

「3000年前に大陸での戦争圧力で来たのは江南人と古朝鮮人です。彼らが最初の稲作を伝えたのですが、頭骨とコメの種類から有明海と佐賀県の菜畑遺跡は江南人によってもたらされ、北九州の板付遺跡は古朝鮮人によって稲がもたらされたとされています。」
http://web.joumon.jp.net/blog/2012/12/001466.html
 
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「菜畑遺跡で出土した「水田稲作」に必要な道具のセットについて調べた。それらの先端的な道具は、確かに南部朝鮮からの到来品であった。
 ところが同時に発掘された“生活用具”の方は、
「日本人はるかな旅4」の記述によれば、--菜畑遺跡ではすべて縄文文化に由来するものだった。皿や浅鉢、甕、壺といった土器の類は、皆、典型的な「縄文土器」であった。--
 
また、「日韓交渉の考古学」(小田富士雄,韓炳三/編)の記述でも、--菜畑遺跡の晩期後半の石器には大陸系と縄文系の2系統があるが、量的には後者が圧倒的に多い。--としている。
 
 すなわち、菜畑ムラでは、従来どおりの西北九州縄文人が生活しており、そこに「水田稲作技術」だけが新たに導入された、という印象なのである。とても南部朝鮮人が集団で菜畑ムラにやって来て、水田稲作を営んだという痕跡はない。」
 
「菜畑遺跡と同時期の最初期の水田稲作遺跡に「曲り田遺跡」がある。この菜畑と曲り田を併せて、最初期の水田稲作レベルや遺跡群のことを「菜畑・曲り田段階」と称することがある。
 弥生時代の土器に詳しい立命館大学の家根祥多(やね よしまさ)は、曲り田遺跡について次のような指摘を行っている。

 --弥生土器は朝鮮半島の無文土器の系譜をひいており、こうした無文土器を作る人々が稲作を持って渡来したことは確実である。その場合、福岡県曲り田遺跡では、    
朝鮮系の無文土器の甕が30%、縄文土器の深鉢が60%存在する。--

 このデータから家根は、新たに渡来した人々は、縄文人と同じ集落に住み、村の住民の三人に一人は渡来人であったろうと推定している。曲り田遺跡では、夜臼式土器文化期の竪穴住居が30棟出土しており、菜畑遺跡の弥生初頭の竪穴住居8棟に比べると、かなり大きなムラであり、渡来人の集団もある程度の規模を有していたと考えられる。

 したがって、この曲り田ムラのケースは、まさに南部朝鮮人が、曲り田ムラの縄文人に協力を求めて、移住して来たと考えて間違いないだろう。」
http://www.geocities.jp/ikoh12/honnronn3/003_02inasakugijyutu_wo_dareka.html

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1 やはり北部九州の西部と東部では、やってきた人種が違っていた
2 西部の菜畑では江南人(甕棺埋葬族)も南朝鮮人もともに来たが、その構成人員は圧倒的に縄文系先住民の生活用具が使われていた。これは縄文系先住倭人が継続的につきあってきた大陸から水田技術を持ち帰り、自前で稲作を始めたためである。それは菜畑が畑作陸稲でも早くから栽培をやっていた流れと切れていない。
3 板付から東の曲り田では南朝鮮人(支石墓埋葬族)が来たが、ここは先住縄文人と共生した。
 
「このように争いをともなわず、新たに渡来して来た人々が、在地の縄文人と平和裏に融合して共に生活をした場合もあった。いな、むしろその方が多かったのかもしれない。在地の縄文人が積極的に渡来した人々を受け入れ、ともに仲良く暮していたと解釈できる事例が多い。古くから朝鮮半島との交流があった北九州では、言語の面においても十分に意志の疎通が可能であったかもしれない。」
安田喜憲『縄文文明の環境』吉川弘文館 
 
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つまり遠賀川に近い地域である北部九州東部は遠賀川式土器を生み出し、東へと移動していった人々だったと想像できる。

では、なぜ出て行ったかと言えば、おそらく西部でおこっている甕棺集団との抗争で非難したとなるかも知れない。ただし、東部の遺跡ではそうした怪我をした遺体があまりない。
いずれにしろ以上の検討を通じて、最初期の段階での水田農耕は、縄文系が主体的役割をつとめ、南朝鮮系は従的存在に止まったように思われる。しかも先の家根祥多の推計によれば、唐津湾周辺と糸島半島海岸部の狭い地域に来往した稲作農耕民の数は微々たるもので、最大限見積もっても数百人のオーダーを超えるものではなかったとしている。

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北部九州西部と東部ではやってきた渡来人が違っており、それが墓制の甕棺墓(西部)と支石墓(東部)によってもわかるのだ。

そのうち、倭人と魏志が書いた人種の中心はやはり縄文系先住民つまり海人族だったのであり、彼らの中で東側にいた遠賀川式土器の一族の米技術が東北へと最初に流れ出した。そのわけは西側地区の江南人をリーダーとした倭人との戦争を嫌い出て行ったのか?
 
いや、どうも両者は住み分けていてあまり出会ってもいなかったようである。交流の痕跡となる墓制や道具の混交が少ない。すると第三の侵入者があったと考えてみたほうが良いかもしれない。
 
 
「【農耕が一気に拡大するのは呉越渡来の私権意識が入り込んでから】
第2段階の渡来は紀元前5世紀後半から始まります。主役は中国大陸の呉と越です。
前473年に戦国時代の中、江南地方で呉が越に滅ぼされ、呉人が沿岸を逃げ延び朝鮮半島南岸に移動します。さらにその勢いで北九州、有明に紀元前5世紀から3世紀になだれ込んできます。この時の渡来した呉の難民は既に大陸で激しい戦争経験をしており、農業を中心として階層化された私権社会を作ってきた連中です。負けて逃げ延びたとはいえ、新天地の日本で自らの地盤を固め、勢力を拡大するのは必須でした。」
http://web.joumon.jp.net/blog/2012/12/001466.html
 
 
そうだ、呉越の戦いで長江を出て行った呉人である。
これで日本の古代に長江中流域、河口域、南朝鮮の各種文化が存在することに納得がいく。
彼らが入ったのは筑後川河口であった。つまり吉野ヶ里へ向かうのであろう。
さらに中国で勝利した越人もまた、のちに楚によって追い出され、これは九州を避けて日本海で出雲・新潟方面へ向かった。
◆第四の渡来者
 
それはおそらく空き地だったところに入る。大和である。
それが誰だったのかは今のところまだわからない。
 
 
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