◆方向がおかしいのか、距離がおかしいのか?
倭人伝の道程記事は大和説では宇美からの方向が書き間違い、九州説では距離が書き間違いだと、それぞれ水掛論している。これではいっこうに答えが出るはずはない。双方が納得しているのは伊都国・奴国までで、あとは投馬国も邪馬台国も狗奴国でさえ、いまだにどこにあったか決められないままである。
思うにやはり考古学のやり方ではもうだめなのであり、「なぜ魏志はそう書いたのか?」から始める必要があるだろう。「なぜ」というのは、どういう政治的意図があって?という意味である。要するに、当時の魏の使者がやってきた、前後の東アジアの政治的動向がここに関わっていたのは当たり前だろう。
魏はライバル呉・蜀と争っている。覇権を争ういくさである。つまり三国志の時代なのだ。
その影響で桓霊の期間、倭も大きく乱れたのである。どこについていいかは、朝貢国家にとってゆゆしき大問題である。どこが勝つかわからない状態では、どこにつけばいいかで当然、倭人の意見は分裂する。
ここで大事なのは二つある。
1 中国人には方角への記録意識が非常に高く、磁石すらすでに持っていた。その中国人が方位を間違えるなどありえない。
2 かりに中国の使者たちが方位に無頓着あるいは土地勘がなかったとしても、直接舟をこいで来るのは半島倭人海人族である。彼らが方位を知らないわけがない。
ということは魏志倭人伝の方位は正しいのである。あとは政治的・意図的に、記事にするときこれを曲げることしかありえない。
そして・・・
魏志が書かれたのは魏が滅びたあとだということ。
さらに倭人伝には「大乱」は一度だけでなかったと書かれていること。
◆倭国大乱は二度あった
倭国大乱は170年あたりで一度起こり、ここでまだ10代だった卑弥呼が担ぎ出される。そして卑弥呼が「以って死」んですぐに、また倭国は乱れたというのである。そこで卑弥呼の宗女壹與が担がれて落ち着くとある。
つまりこの二度の大乱が九州日本海側で起こったことになる。すると九州北西部の甕棺のいくさで死んだ遺体は、その二度の戦いの戦死者か?となるだろう。考古学はこうした細かい部分をちゃんと分析していない。
甕棺分布が九州の西側に集中し、その東端に伊都国がある。真ん中に那珂川をはさんでその東には甕棺墓がなく、そこは奴国の領域である。邪馬台国連合は何度も乱れた。ということは決して一枚岩の国家ではなく、いくつかの人種や墓制の種族による、大陸の乱れに対応するための「しぶしぶ連合体」なのである。すると伊都国と奴国の墓制の違いについてもっと大和説も九州説も言及していなければならないのに、それがないのだ。
つまり人間が歴史を通して、そういうときはどういう動きをするかという人間行動額への深い洞察が、学者にはない、科学にはないのである。推理力である。
舟を動かすのは海人族。海人族は縄文時代から半島と列島を行き来してきた。交易の民である。
だから海へ出れば彼らのいうがままである。おまかせである。
ところがその海人族は奴国の東の遠賀川河口部に住んでいる。そこは安曇が住まう古い縄文世界のままだった。
伊都国などの甕棺氏族には安曇のような水先案内がいなかった。すると別の海人族を探すことになる。それは南九州にいる。隼人・熊襲である。だから南下して懐柔する。阿多隼人が帰順する・・・。やっと海に出られる。大陸に面して危険だった九州から移動できる・・・。となる。
◆ニギハヤヒと物部氏
いいでしょうか?
倭国大乱は壹與が女王になる前の248年頃にもう一度起こったのである。二度の大乱・・・あとの乱はあきらかに卑弥呼が狗奴国と闘って死んだあとである。それは三世紀中盤のことだ。記紀を見直して欲しい。神武東征で「先に東へ行った天孫がいる」「天孫にもいろいろ種類があるのだ」と書いてある。神武より前に、大和に行った天孫がいる。それは誰か?海人族である物部氏の祖神・天照国照アメノホアカリ、くしたま、にぎはやひのみこと」という人である。つまり記紀はちゃんと二度の移住があったと書いているのである。その原因は倭国大乱による逃避行でしかありえないのだ。
ニギハヤヒのあとにくる「ほあかりみこと」とは尾張氏と海部氏の祖神の名前であり、同時に天孫と隼人の女神コノハナサクヤ姫から生まれる三人の火の神の名前でもある。とくに真ん中の「あめのほのあかり」のことである。つまりこれは海人族の神である。だから彼らは少なくとも縄文海人族を同族にしていた仲間である。それが大和に先に行っている。
◆ここで遠賀川式土器の移動ルートをもう一度
これは時代を追って移動した九州遠賀川式土器の分布図だ。ここに推定できる移動ルートを書き込んでみよう。
こうなる。
遠賀川式土器と水耕稲作と鉄器はまず日本海側に流出してゆくことは先に書いたとおりである。
次に太平洋で「熊野周りで」伊勢湾をめざす。
これがニギハヤヒと神武の「二度の大乱で北部九州遠賀川から」逃避して言った逃避行ではないのか?
海人族の海の道は海の上だけを通るのではない。
内陸部も河川に沿って縦断するのである。
そのとき、日本列島には縦断コースができあがっていたことをぼくたちは知ることになる。これは縄文後期の貝の道でもあるのだ。つまり日本という国は「海人なしでは動けない国家」なのである。いかに海人族を懐柔するかにその連合体の繁栄はかかっていた。
縦断コースはいくつかある。
出雲から吉備への道には今、JRが通っている。そこがなだらかだからである。なだらかなJRのある道は、古代でも越すことができた通路であることは間違いない。出雲の古墳から吉備の祭器が出るからだ。大和説の多くがこの出雲か吉備を投馬国に比定しようとする。
そうだろうか?「とうま」「とうま」・・・・・なぜ「とやま」ではいけないか?
◆投馬は富山?
遠賀川式土器は出雲を出ると一気に北上して富山湾北側の新潟に到達。ここから信濃川・千曲川を経て松本平、諏訪湖まで到達。この道はまさに安曇族=タケミナカタの逃避したルートである。古志。とうと古志の沼川姫=姫川から糸魚川静岡構造線=フォッサマグナによって一気に駿河湾、濃尾平野へ南下できるコースである。
天竜を下る。富山から南下する道は縄文高層建築者がすでに縄文後期には切り開いていた。いわゆる「匠の道」である。彼らがのちに飛鳥寺を建築する大工である=飛騨の匠。
いかがだろうか。つまり魏志はちゃんと南へゆくと書いていた。しかしただひとつ、宇美から日本海を東に行ってから富山から南下とは書かなかった。富山まで遠賀川から水行20日は妥当な数字である。そして姫川を下れば水行10日はかかる。そして伊吹山を越すのにもそれぐらいかかる。不破を降りて琵琶湖を渡り大津から宇治川を南下し木津川に出るのにも船がいる。そこから奈良街道をくだりようやく奈良盆地につく。だからその途中に山背の大住があるではないか。その道沿いはやがて天智天武を輩出した息長氏の領地になったではないか。
ちなみに富山の地名由来はいまだにはっきりとわかっていない。
古いのか新しい地名なのかもさだかでない。
「とおやま」かも知れない。はるか海上の遠くから見て山があった地名である。目印地名である。
つづく
こんな地図をわざわざ引っ張り出す必要などないんだよ。
(こんいつきょうりれきだいのちず・龍谷大学所蔵 12世紀)