以下の記事は昨年7月15日に書いたものである。
すでに熊本、相模湾・駿河湾地震は想定してできていた。
問題はいつ来るかがわからないことなのだ。
中央構造線と南海トラフと大地震
九州・四国を中心に
●中央構造線
赤線が中央構造線、青線にはさまれた地帯はフォッサマグナ地帯
中央構造線(ちゅうおうこうぞうせん)は、日本最大級の断層系。英語の Median Tectonic Line から、メディアンラインやメジアンラインとも言い、略して MTL とも言う。
関東から九州へ、西南日本を縦断する大断層系で、1885年(明治18年)にハインリッヒ・エドムント・ナウマンにより命名される。中央構造線を境に北側を西南日本内帯、南側を西南日本外帯と呼んで区別している。一部は活断層である。Wiki中央構造線
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Tectonic_map_of_southwest_Japan.png
●四国・九州地域(ほかの各地についてはWiki中央構造線を参照されたし)
徳島市から吉野川北岸を走って三好市に達し、川之江・新居浜のすぐ南側を通り、砥部町から伊予市双海町を通り、佐田岬半島北側の沖合を通り豊予海峡に入る。
四国でも中央構造線の基本的な姿は三波川変成岩と和泉層群の境界断層である。四国では三波川変成岩は広く露出し、徳島の城山、祖谷地方から大歩危、別子、佐田岬半島、(佐賀関半島も Kawakatu)などでよく見られる。ただし石鎚山は新第三紀の火山岩である。
地質境界としての中央構造線は吉野川の北岸を通っているが、その北に活断層が見られる。愛媛県でも地質境界としての中央構造線は砥部町の(衝上断層)を通っているが、活断層は松山を通っている。四国山地北縁ではナイフで切ったように直線状に山が並び(断層崖)、その空中写真が活断層の見本として各種書籍に取り上げられている。活動度は1,000年間で最大8mと推定されている。
近年の活動記録が無く、エネルギーが蓄積されていると考えられ、要注意断層である。ただし、一部は約400年前に動いた可能性がある。この区間が活動した場合は、マグニチュード7を超える地震になると考えられる。
九州では、大分県の佐賀関半島に三波川変成岩がよく露出し、そのすぐ北を中央構造線が通っている。しかし九州中部は火山岩や現在の活火山に厚く覆われ、中央構造線の位置ははっきりしない。臼杵から八代海に抜けているという考えが一般的だが、大分から熊本へ続いているという説もある。現在の九州中部は南北に伸びており、引っ張りによる断層が発達し(別府島原地溝帯、布田川断層帯、日奈久断層帯)、 阿蘇山や九重連山 のマグマの通り道をつくっていると考えられる。
その点、祖母傾が異例の急峻さを提示するのは、この山塊が瀬戸内火山系の隆起とともに持ち上がった、九州では比較的古い地層だからである。
年代が古いほど、当然、死火山周辺は鉱床の種類も多くなる。すでに何度も複雑な圧縮を繰り返してきたからだ。だからこの周辺には鉱山、鉱床が太古から多いのである。
年代が古いほど、当然、死火山周辺は鉱床の種類も多くなる。すでに何度も複雑な圧縮を繰り返してきたからだ。だからこの周辺には鉱山、鉱床が太古から多いのである。
中央構造線は
1大分市坂ノ市周辺~熊本市へ延びる「大分~熊本構造線」
2臼杵市諏訪地区~八代市へ抜ける「臼杵~八代構造線」(秩父累帯)
3津久見市~祖母山のある緒方町を抜けて鹿児島県大口市、水俣市へ抜ける「仏像構造線」(四万十累帯北帯)
1大分市坂ノ市周辺~熊本市へ延びる「大分~熊本構造線」
2臼杵市諏訪地区~八代市へ抜ける「臼杵~八代構造線」(秩父累帯)
3津久見市~祖母山のある緒方町を抜けて鹿児島県大口市、水俣市へ抜ける「仏像構造線」(四万十累帯北帯)
の三本が平行に走っており、これに宮崎県延岡~高千穂峡~小林・高原方面まで九州山地の複雑な地形に沿った複雑な「四万十累帯南帯」などの細かいラインが存在する。
1の線上にある阿蘇山は、約30万年前から四回に渡って大噴火して、大規模な火砕流を九州一円に及ばせている。この火砕流の溶岩が阿蘇凝灰岩という加工しやすい岩石を形成する大元であり、飛んでいった巨大な火山弾が冷えて巨石となって九州各地に露出している。
これに対し、祖母山系は最も古い古祖母山が2千4百万年前に、新しい祖母山でも5百万年前の生成である。
活火山と死火山ではそれだけの気の遠くなるほどの年代差があるのである。
先日起きた大分県佐伯市を震源地とする地震は、中央構造線の南外側で起きた。
九州島の外輪部は地層の歴史が非常に古く、本州島や四国島生成に近い年代の岩盤でできている。阿蘇から西の中心部はあとから阿蘇山が隆起させた岩盤である。
だから今回の地震は古い外輪部での出来事だったことになる。
●三波川変成岩
さんばがわへんせいがん
本州の中央構造線の南側に沿って帯状に分布する結晶片岩を主とする変成岩の総称。結晶片岩のほか,スレート,千枚岩や塩基性および超塩基性の火成岩またはそれが変成した岩石もかなりある。カリウム・アルゴン法で測定されたこの変成岩の年齢は約 1.0~0.8億年 (白亜紀) であるが,変成作用がジュラ紀後期から白亜紀前期の間に起ったことを示す地質学的証拠もある。 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
関東山地北部から南アルプス西縁~紀伊半島~四国を通り佐賀関まで,中央構造線の外側に接して連続分布する結晶片岩類。関東山地北部(東京都)の三波川流域が標式地。原岩は若いものは中生代ジュラ紀後期。 百科事典マイペディア
露頭として著名なのは徳島県の大歩危(おおぼけ)海岸など。
一見して黒緑色で、溶岩流の渦巻きが残存することが多い。緑泥片岩やスレート、あるいは青石とも。中央構造線上の各地で往古から珍重され、古くは縄文期~古墳期~江戸期まで墓石・石棺・石室・環状列石に用いられてきた。現在でも地域によっては高価取引される石材である。Kawakatu
●阿蘇溶結凝灰岩(阿蘇ピンク石)から見える溶岩大移動路としての中央構造線
阿蘇ピンク石露頭があるのは、大分県臼杵市と熊本県宇土市という、中央構造線別府~八代構造線の両端地域である。
阿蘇溶岩流が作った変成岩の分布とピンク石露頭の関係
このラインは阿蘇が噴火した溶岩流が流出した通路でもあることがわかる。
溶岩流が溶かしだした既成の土壌の質によって、緑色や赤色など、さまざまな色彩の変成岩、溶結凝灰岩、片岩などを形成する。
こうした露頭の存在はそのまま、火山流の過去のコース、さらに大地震が起きた場合の危険地帯だという目安になる。特に阿蘇ピンク石(馬門石)は古墳時代の石棺に使われ、4~6世紀の日本の歴史を、広く考古学的に知るためのヒントにもなっている。
Kawakatu
●南海トラフ
南海トラフ(なんかいトラフ)は、四国の南の海底にある水深4,000m級の深い溝(トラフ)のこと。非常に活発で大規模な地震発生帯である。南海トラフ北端部の駿河湾内に位置する部分は駿河トラフとも呼称される。Wiki南海トラフ
フィリピン海プレート上の「大沈み込み」地帯のこと。
●大地震発生推定値
2013年1月1日時点
規模 (M) 30年以内の発生確率
南海トラフ プレート間地震 M8 - 9クラス 60 - 70%[20]
発生する可能性のある地震として、従来よりも幅広くM8 - 9クラスの地震を対象としている。高知県室津港の歴代南海地震(宝永・安政・昭和)における隆起量と、発生間隔との関係に基づく時間予測モデル[21][22]をもとにすると、次回のM8クラスの地震は昭和南海地震から88.2年後と推定され、これをもとに上記の確率が計算された。次に最大クラス(M9超)の地震が発生する可能性もあるが、その発生頻度は(古いものも含めて)100 - 200年間隔で発生している地震に比べて「1桁以上低い」とされた[23]。Wiki南海トラフ巨大地震
http://p.twipple.jp/XHdeR
http://samurai-free.blog.so-net.ne.jp/2015-07-13-1
https://ja.wikipedia.org/wiki/南海トラフ巨大地震
●南海トラフの地震の発生領域[26]
https://ja.wikipedia.org/wiki/南海トラフ巨大地震#.E5.9C.B0.E9.9C.87.E3.81.AE.E7.99.BA.E7.94.9F.E7.A2.BA.E7.8E.87
●慶長大地震
慶長大地震(けいちょうおおじしん)は慶長年間(1596年-1615年)に日本列島で起こった地震。慶長の大地震(けいちょうのおおじしん)ともいう。ただし、正確には慶長伊予地震、慶長豊後地震、慶長伏見地震発生は文禄5年であり、その後、これらの天変地異を期に文禄から慶長に改元されている。
1596年の3つの地震は記録の日付が錯綜しており、豊後地震を9月1日とするものもある。1605年慶長地震は定説であった南海トラフが震源ではないという異論も出され[1][2]、従来三陸沖が震源とされた1611年の地震も北海道太平洋沖に震源を持つ超巨大地震との説が出される等[3]、震源域に諸説あって不明なものが多い。
その内訳
慶長伊予地震 - 1596年9月1日、伊予国をおそった地震。M 7.0、寺社倒壊等。中央構造線沿いと推定される地震。
慶長伊予地震 - 1596年9月1日、伊予国をおそった地震。M 7.0、寺社倒壊等。中央構造線沿いと推定される地震。
慶長豊後地震(大分地震)[4] - 1596年9月4日、豊後国をおそった地震。M 7.0~7.8、死者710人。中央構造線と連続している可能性がある別府湾-日出生断層帯で発生した(上記地震との)連動型地震とされる。
慶長伏見地震[5][6][7][8] - 1596年9月5日、近畿地方をおそった地震。M 7.0~7.1、京都や堺で死者合計1,000人以上。伏見城の天守や石垣が損壊、余震が翌年春まで続く。有馬-高槻断層帯、あるいは六甲-淡路島断層帯における地震とされる。上記二つの地震に誘発されて発生した可能性がある。
慶長地震[9] - 1605年2月3日、南海トラフ巨大地震の一つとされてきたが、伊豆小笠原海溝付近震源説や遠地津波説など異論もある。M 7.9~8.0。紀伊半島沖と房総沖が連動したとする説もあり、M 8.4~8.5ともされる。津波地震と考えられており、地震動による被害は少なかったが、現在の千葉県から九州に至る広範囲の太平洋岸に津波が襲来し、死者1~2万人を数えた。
会津地震(慶長会津地震) - 1611年9月27日、会津地方をおそった直下型地震。M 6.9。寺社損壊、死者3,700人。
慶長三陸地震(慶長三陸地震津波)[10][11] - 1611年12月2日に三陸沖を震源として発生した地震でM8.1。ただし、津波の痕跡の範囲などから、この従来の定説に疑義があるとされ、千島・色丹沖の震源と連動した大地震・津波だったとする説もある。この大津波による北海道・三陸の死者・被害甚大。
慶長十九年十月二十五日の地震 - 1614年11月26日に起こった地震。従来高田領大地震とされたが、会津から松山に至る日本各地に被害記録があり、震源は不明。
Wiki慶長大地震
*現在の日本列島の状況は、この慶長年間に非常に酷似する状況と言わざるを得ない。何ゆえに、今、伊方原発や川内原発の稼動が許容できようか?
●慶長伊予・豊後・伏見地震[編集]
「連動型地震」を参照
1596年9月1日、愛媛の中央構造線・川上断層セグメント内(震源については諸説ある)で慶長伊予地震(慶長伊予国地震)(M 7.0)が発生。3日後の9月4日には、豊予海峡を挟んで対岸の大分で慶長豊後地震(別府湾地震)(M 7.0 - 7.8)が発生。 豊後地震の震源とされる別府湾-日出生断層帯は、中央構造線と連続あるいは交差している可能性がある[2]。さらにその翌日の9月5日、これらの地震に誘発されたと考えられる慶長伏見地震(慶長伏見大地震)(M 7.0 - 7.1)が京都で発生[3]。有馬-高槻断層帯、或いは六甲-淡路断層帯における地震とみられる[4]。Wiki南海トラフ巨大地震
●中央構造線に隣接する原発
1 伊方原発(愛媛県西部)
2 川内原発(鹿児島県南部)
3 浜岡原発(静岡県 ここはフォッサマグナ糸魚川~静岡構造線と中央構造線の交差点に位置して最も危険な原発である)
2 川内原発(鹿児島県南部)
3 浜岡原発(静岡県 ここはフォッサマグナ糸魚川~静岡構造線と中央構造線の交差点に位置して最も危険な原発である)
●伊方原発大事故があった場合の推定放射線被爆地域同心円
福島第一原発と同規模流出した場合の強度汚染地域の同心円
原子力安全委員会・防災専門部会・被曝医療分科会は、(2011年)12月7日、放射性ヨウ素による甲状腺被曝を防ぐための安定ヨウ素剤の服用基準を、これまでの被曝線量100ミリシーベルトから50ミリシーベルトへと厳格化しました。これに対応して、それ以前に決定されたPPA(放射性ヨウ素防護地域)50kmという範囲指定も改定されるべきでしょう。それまでの基準に従って、50km地点での被曝量が100mSv(ミリシーベルト)であると仮定し、被曝量が50mSvまで低下するのは何kmとなるのかを当ブログで計算したところ、80kmという推定結果を得ました。
さてしかし、原子力安全委員会がPPA地域拡張をすることがあるのでしょうか。現状では、かなり怪しく見えます。
我々としては、とりあえず具体的に、どの地域が該当するのか、理解しておく必要があるでしょう。自ら安定ヨウ素剤を用意するか、行政に働きかけるか、はたまた引っ越して逃げ出すか、人により取る手段は様々でしょうが、とりあえずは現状を認識することが大事でしょう。
今回は、立地県以外への影響が深刻に出そうな伊方原発について地図を作成してみました。図では、福島原発事故の際の放射性ヨウ素による汚染域を重ねあわせています(近隣への影響をイメージしてみるために汚染地図は角度を変えてあります)が、この方向次第で(要するに風次第で)被害の出方も大きく変わります。
またなお、このマップは日本の原子力安全委員会の部会(分科会)の議論に合わせて作成したものです。
世界保健機構(WHO)の、小児や妊婦、授乳中女性を対象とした安定ヨウ素剤服用基準に対応するための地図
●津波は瀬戸内海でも起こるのか?
近畿・中四国の市町村別最大震度と主な想定津波高
●伊方避難民を大分県は受け入れる
しかし、伊方原発の作り出す電力は、九州電力にはまったく無関係であり、大分県も当然、その恩恵は受けてはいないのも事実。伊方地域以西の人々、あるいは一部高知県西端地域の人々のすべてが避難してきた場合、その対応は非常に難しい。そのとき、彼らはもう生まれ故郷へは戻れなくなった人々である可能性もある。県の人口が増えることになるのはよいとしても、それはむしろ当座の雇用問題を引き起こすだろう。彼らのほとんどは海岸部の漁民であろう。宇和島、佐田半島と言えば代々漁師である。佐賀関の漁師たちとは同じ豊後水道を共有する。われわれの感覚では同じ仲間のように感じてしまうが、さて漁師同士の縄張り争いなどないのであろうか?しかも伊方は地上感覚の外界とは隔絶された土地柄でもある。果たして異郷でなじめるのであろうか?部落問題ともかね合わせた深謀遠慮が大分県側に要求されることとなる。
避難して、やがて愛媛の安全な土地へすみやかに移住させることができるだろうか?そうなれば、では愛媛のその地域住民は彼らを受け入れることができるだろうか?などなどの非常に微妙な状況も考えておかねばなるまい。
このように、今、なにゆえに伊方原発を再稼動させねばならないかについて、すべての自然環境はNOの状況である。なぜ経済効果のために国民を危険に晒そうとするのか、政府の判断を急ぐ姿勢がまったく不明である。
なんとなれば、東京オリンピックの新スタジアム建設の異常な高価なことも決定の裏側に、早期ゼネコン安定化への焦燥感が垣間見え、これらも含めた、政治主導によるシビリアンコントロール的示威的恣意的強制誘導には、空恐ろしさを感じる。
つまり3.11大地震以来の、経済復興の流れの中で、これらの強硬で性急なやり方には、世界に向けた日本列島安全宣言という政府が早く取り戻したい日本国の安全と威信復権へのあせりしか感じだせず、その性急さは必ず後世にしっぺ返しを食らうこといなると言わざるを得まい。
また、原発を所有する各地域自治体は、万一、先の3・11のごとき大汚染が起きた場合に、国と電力会社に、まずは、災害時、被爆時の十二分な保障金額などを確約させておくべきであり、それが不明瞭である限り、絶対に原発再稼動に組してはならないであろう。それは県民全体の責任である。再び太平洋と大気を放射線で汚染させるような赤恥をかけば、世界は日本を、いや東アジアを、やはり遅れた精神性の、原始人の棲む古代地帯と、もう振り返らなくなることだろう。もちろん旅行者も来なくなり、日本全体の経済価値は地に落ちることだろう。
先に九州で大きな地震が起きている。そのすぐ翌日に伊方の稼動を許容する結果を出すという無神経さにこそ、政府の「国民に優しくない」「どうなってもよい」態度は見えてしまっているのではなかろうか?
連動型地震の歴史
貞観地震・・・越中・越後→三陸沖→別府鶴見岳噴火→肥後熊本大地震→相模湾
- 9月1日(文禄5年閏7月9日) 慶長伊予地震(慶長伊予国地震)- M 7.0、寺社倒壊等。同年同月に発生した一連の内陸地震のさきがけとなる。四国を走る中央構造線断層帯での地震と考えられている。
- 9月4日(文禄5年閏7月12日) 慶長豊後地震(大分地震) - M 7.0〜7.8、死者710人、地震によって瓜生島と久光島の2つの島が沈んだとされている。大分県を走る別府・万年山断層帯(べっぷ・はねやま だんそうたい)での正断層型地震と考えられている。
- 9月5日(文禄5年閏7月13日) 慶長伏見地震(慶長伏見大地震、文禄の大地震) - M 7 1⁄2±1⁄4、京都や堺で死者合計1,000人以上。伏見城の天守閣や石垣が損壊、余震が翌年春まで続く。淡路島〜神戸〜大阪北を走る六甲・淡路島断層帯での地震と考えられている。
- 1615年6月26日(慶長20年6月1日) 相模・江戸で地震 - M 6 1⁄4〜3⁄4、小田原、江戸で被害。
- 1616年9月9日(元和2年7月28日) 宮城県沖地震 - M 7.0、仙台城が破損。三陸地方大津波。
- 1619年5月1日(元和5年3月17日) 肥後(熊本)八代で地震 - M 6.0±1⁄4。
- 1625年7月21日(寛永2年6月17日) 熊本で地震 - M 5〜6、死者約50人。地震動により火薬庫爆発し、熊本城が破損。
- 1627年10月22日(寛永4年9月14日) 松代地震 ※ - M 6.0±1⁄2、死者多数。ただし、宝永地震を転記した際に生じた誤り[70]との説がある。
- 1628年8月10日(寛永5年7月11日) 江戸で大きな地震があり、江戸城の石垣が壊れた - M 6.0。
- 1633年3月1日(寛永10年1月21日) 寛永小田原地震(相模・駿河・伊豆地震) - M 7.1あるいはM 7.0±1⁄4、小田原で大きな被害を出し死者110〜150人。駿河・熱海に津波。
- 1635年3月12日(寛永12年1月23日) 江戸で地震 - M 6.0前後、大きな被害。
- 1640年11月23日(寛永17年10月10日) 加賀大聖寺地震(石川県加賀市) - M 6 1⁄4〜3⁄4、死者多数[注 17]。
- 1644年10月18日(寛永21年9月18日) 羽後本荘 - M 6.5±1/4、象潟で津波死者117名。本荘城廊大破。
- 1646年6月9日(正保3年4月26日)M7.6,仙台城の石壁100m以上崩れ、3階の陣櫓3基倒れ。白石城の石壁・櫓破損[72]
- 1647年6月16日(正保4年5月14日) 丹沢で地震 - M 6.5±1⁄4、江戸城の石垣や大名屋敷など破損。小田原城に大きな被害。
- 1648年6月13日(慶安元年4月22日)相模・江戸で地震 - M 7.0程度。小田原城破損、箱根で落石、死者1名。ただし、江戸での被害疑問とする見解もある[73]。
- 1649年
このように東南海トラフに関与する地震は過去、数回連動を引き起こしている。
その上で、次回、どこで起きる可能性が高いかを推理すると、浜岡原発のある駿河湾~相模湾ではなかろうかと思える。もちろんほかのどこで起きてもおかしくないわけだが、原発とのかねあいで、もっともおきてほしくないこの地域をあえてあげておきたい。
なお、地震学者の中に、戦後のマルクス主義科学のあやまったテーゼを信じ込まされて、いまだに「歴史は繰り返さない」を刷り込まれている若い学者もあって、テレビの解説に登場したりしているが、「歴史は繰り返す」という言葉は、中国の治乱興亡史観の繰り返しが作られた劇場型歴史であることへのアイロニーを込めた表現であり、『日本書紀』もその様式を模倣しているなどから、戦後マルクス主義史観では「歴史は絶対繰り返すものでなく、それは作られた史書のスタイルに過ぎない」という客観主義史観が生まれたことの曲解が、大学の徒弟制度が続いたために、いまだに続いていると考えられる。しかし、歴史は歴史でも人的歴史ではなく、地球の歴史の一部であるプレートテクトニクスや地震発生のメカニズムにこれをあてはめるのは大きな勘違いである。これは地球のサイクルであり、災害の歴史は繰り返すのだと考えるのが整合であろう。