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わたしの九州その2 狗古智卑狗(くこちひこ)と的臣

 
筆者がいつも阿蘇から九州を回るのは、阿蘇山外輪山が九州のへそともいうべき真ん中に位置して、そこから道を選べば南は鹿児島、北は小倉、西は熊本、東は宮崎まで、どこへでも伸びているからだ。何も目的も持たない旅でも、ここにくればどこへでも迎える。
 
阿蘇市から国道が環状線のように阿蘇山を周回し、途中から分かれる道次第で日向へも筑後へも、豊でも、どこへでもいける。
 
筆者のいる大分市から阿蘇へは、やまなみ道で九重連山を見上げながら向かう。そこから竹田市を抜けてゆくもよし、あるいは祖母山を越える8号線でもよし。地震が起こった益城町へもよく通った。そこから高速の松橋(まつばせ)ICに出られるから、そのまま人吉、鹿児島へゆけるからだ。
 
大和町から緑川に沿って馬見原から高千穂へもいける。
 
この沿線に猿丸太夫の墓があって、柿本人麻呂神社、そして宮崎の高千穂へ抜けることも多い。
 
しかしわれわれファンがとにかくよく通うのは、阿蘇から菊池へ出て山鹿、和水(なごみ)、玉名方面である。装飾古墳が山ほどあるからだ。それに江田船山古墳。まずは基本のコースである。
 
菊池から山鹿には装飾を持った横穴古墳群が山のようにある。詳しくはすでに何度も記事にしているから書かないが、とにかく、九州は中央構造線の南北で文化が区分けされているのだが、熊襲がいたとされる南部は、しかし森浩一も書いたように、決して文化の低い野蛮な土地ではないことは人吉~免田へいけばわかる。金でメッキされた鏡も出るし、優雅な形状の土器も出る。
 
 
 


 
 
 
畿内氏族として記紀に登場する武内宿禰とその裔・葛城襲津彦や紀氏の関係に、実は山城(やましろ=京都南部)や河内の宇智地名が非常に関係があることはすでに書いた。

 
武内・うましうちの「うち」とは武内宿禰が「内臣=うちつおみ」だったゆかりの地名であり、山城・河内のウチの神とは隼人の祭る神であることも書いた。

 
森浩一の記述から引用したのであるが、その森がこうも書いている。
簡単に言えば『新撰姓氏録』の宿禰の子孫には葛城系氏族だった弓矢氏族の的臣(いくはの・おみ)も含まれるということである。

 
的臣は文字が示すとおり弓矢をステータスにした中央の靫負氏族である。
彼らが入ったらしいと諸説が書くのが九州の浮羽郡だった。つまり円紋で著名な福岡県浮羽の日ノ岡古墳のとなりにある月の岡古墳などは十中八九、彼らの墳墓と見てよかろう。

福岡県日岡の月ノ岡古墳石棺。
 


 
ぼくは4~6世紀の九州南部の人吉地方から日田・玖珠そして豊前にかけて、大伴が率いた靫負軍団の、九州での中心人物のひとつが的臣だったと考えている。

 
西米良の次に我々が向ったのが熊本県南部の中核都市人吉市である。
ここにおびただしい横穴墓が二ヶ所に分かれて存在する。
大村横穴墓群と京ヶ峰横穴墓である。

 
京ヶ峰のほうは二つの河川が合流して球磨川となる、重要な交通上の分岐点にあるわりに、二基しかない。おそらく宮崎県側からの侵入者を監視していた氏族だろう。一方駅前の大村のほうは本拠地らしくたくさんの横穴墓が集中的に阿蘇凝灰岩とは少し違う石壁に掘られ、装飾の陽刻もおびただしいので、マニアはこちらをよくとりあげるのだが、ぼくは京ヶ峰の方が好みである。

 
これらのすべてに靭・盾・馬・車輪文・剣などの装飾がレリーフされていて、この氏族が的臣であると確信している。




 
人吉の東側は免田である。
つまり熊襲という人々がいたならばここが本拠地だっただろう。
熊襲征伐は記紀では河内王朝の直前に置かれるエピソードで、時代的には3世紀までの話だったことにされている。それが正しい通史観念だとするならばだが、つまり河内に最初の王権が誕生するためには熊襲征伐が必要だったという書き方なのである。

 
ということは河内王権の主導者と思える人々は最初、九州にいたことになるわけだ。
その場所は記紀に従えば高天原という場所なのだろうと思う。

 
つまり北部九州沿岸から玄海灘・日本海・東シナ海という海と大陸の世界から来たのが河内王朝始祖の応神だったという観念で記紀は描かれたとことになっている。それがまつろわぬ中部の狗古智卑狗たちを滅ぼすために南部の阿多隼人と手を結ぶというのが天孫降臨のおおまかなストーリー展開なのである。
これを中国では挟撃戦略と呼ぶ。

 
九州中部とは筑後川より南、球磨川より北部、そして離れて大住半島である。
つまり熊・襲族の居住地である。

 
阿多隼人はすぐに取り込まれて母方になったわけなので、天孫とは同族になったことになる。だから母がその後ずっと大王家・天皇家では重要な位置に置かれることの前例である。最初の帰順者であることはおおいなるステータスである。

 
ところが熊襲は反駁したゆえに追われて、居住地に的臣ら靫負軍団がおかれてしまうわけだろうと思う。
この時点まで、実は天孫族よりも熊襲族のほうが地位が上である。なぜならば攻めてきたヤマトタケルに対してクマソタケルは自分の名前をやるからだ。名前をやるのは地位が上の者がすることなのである。

 
熊襲はつまりヤマトや北部九州よりも中国南朝から見て上位の先進属国だったのだ。

 
3世紀のうちに熊襲は分断され、半分は靫負に入れ込まれただろう。半分は北上し、あるいは南下して離散するが、日向から豊後方面へ向かい豊前へと入ったはずである。その水先案内は阿曇族や久米族ではあるまいか。

 
こうして4世紀から「九州古墳時代」の5・6世紀にはアカホヤ地層の上に一直線の靫負軍団の障壁が築かれたのである。それが的臣である。靫負のユギを作る靭編部は日田に置かれた。そこが交通の要衝だったからだ。浮羽の月の岡古墳の的臣は、だから九州土着氏族だろう日ノ岡被葬者とは違い装飾を持たない。これは八代の葦北国造が直孤文を持つのと同じ意味である。中央から来た氏族なのだ。


 
免田にある才園古墳などの立派な石室の氏族もおそらく年代的に彼らのものと考えるのが整合かも知れない。金メッキの立派な鏡を持つのは熊襲の南朝とのつきあいを受け継いだのだろう。

 
菊池市から七城町はその通過点である。あるいは塚原古墳群などもそうである。
七城町丘陵部に再現された鞠智城(くくち・じょう)に立つと阿蘇が丸見えになるが、まえをみると往古は縄文海進の有明海が見通せたはずである。「阿蘇山あり」と中国の史書が書いたとおりの景観である。


 
鞠智城
 

 
鞠智城はそのように海と同時に熊襲のいた南部を見渡す場所に位置する。中部九州のへそである。
そこから南や背後の阿蘇にはまだまだまつろわぬ人々が、つまり熊襲の残党がいたのであろう。

 
かつては狗古智卑狗がおさめていたその場所のど真ん中に、あとの時代に国衙のやまじろが造られた訳である。
武内宿禰の子孫・葛城氏を仲介にして、秦氏もあとの時代ではあるがヤマト在地勢力だった波多臣と同族化しただろうと水谷千秋は書いている。

 
的臣もまた葛城氏と同族化することでヤマトの一角に居住した、かつては九州の海人族管理者だったということなのだろう。えにしあって靫負となり、弓矢と盾をアカホヤ地層に立てることとなった。因縁ではあるが、それが世界的に見ても「同族に同族を」を証明する事実なのだとわりきるしかない。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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