筆者、以前から書いているが、新幹線が四国と東九州佐賀関をなぜ結ばないか、あるいはなぜ橋がかからないかについて常々疑問を持ってきた。
日本全土を見渡せば、ここだけが交通アクセスがまったくつながっていない。つながるふうも今後なしである。
「一村一品運動」で著名な前県知事の平松氏は、ここに橋をかけようとして、お国のえらいさんたちを大分と愛媛の間にある豊後水道で船上レセプションを開き、大盤振る舞いしたことがある。ところがそのパーティの最中、どうしたことか船は座礁。計画はおじゃんになった。こんな危ないところに橋はかけられないと官僚たちは考えてしまったのだった。
その後、大分出身の自民党の議員・衛藤征四郎氏は、ならばトンネルをと持ち上げたが、これも資金的に無視されたまま。
?のまま、数年が過ぎた。
ある日、筆者は沖浦和光・川上隆志共著『渡来の民と日本文化』現代書館 2008 をなんとなく再読していた。するとそこにこういうことが書かれてあったので寝転がったふとんか飛び起きたのだった。
五藤孝人「伊予国の鉱業史」『温故』2001年三月所収に、『続日本紀』にある記事ととして、
「霊亀二年辛卯(716年5月16日) 大宰府言す。豊後・伊予、二国の堺、従来置戌、往還することを禁ず」(置戌=戌は官僚の犬=守りや見張りの奴っこのこと。多くは衛垣守(みかきもり)の衛仕のように蝦夷俘囚などがこれに従じたが派遣官僚配下。例えば的臣、田中臣など紀氏や蘇我氏の末端氏族である。守り・見張りを置いて往来を禁じた)
豊後水道を渡ってはならない。というのである。
この理由を川上は、大仏建立の銅を秘密裏に運ぶための{秦氏}のルートだったからだろうとしている(上記著書p136 「Ⅱいくつもの播磨へ」所収「第一章 秦氏・播磨への道」)。
この記事に符合するように『日本書紀』持統天皇紀五年に、
「伊予国田中朝臣法麻呂等、宇和郡の御馬山の白銀三斤八両、あらかねひと籠献る」とあり、これは愛媛県宇和郡の山から白銀が出て、飛鳥末期の持統へ献上されたということ。つまり飛鳥の往古から伊予銀山あるいは水銀が運ばれるルートがあり、その後聖武天皇時代になって、今度はそのルートが豊前香春岳や山口県美弥鉱山の銅を、大仏建立のために運ぶのに使われたために、山賊や海賊らの簒奪から守るため、豊予海峡・豊後水道を一般には渡れなくしたのだということになる。
あなたがこれをもって、どう考えるかは自由だ。
筆者には、この「ご禁制ルート」設定は、現代の伊予宇和島地方の漁師と、対面する佐賀関半島漁師の古くからの対立と怨念が生じるひとつの原因になったと感じられてしまう。
愛媛県側佐多岬にはあのいまわしき伊方原発が今存在している。この地域は全国原発存在地域の例に漏れず根強い被差別の部落が存在する。その構成は考えるまでもなく、飛鳥時代以前から豊前を根城にしてきた秦部民の子孫である。
するとあの現代の架橋計画の邪魔・・・・あ、あ、あ、
ウイルスが、ウイルスが~~~~~~~~~
%$#☆?????・・・・・・ツーツーツー・・・・・・・
PC壊された~~~~~~
うっそぴょん。
あとは想像されたい。