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やっと出てきた周溝墓 奈良・橿原の瀬田遺跡円形周溝墓

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奈良県橿原(かしはら)市の瀬田遺跡で弥生時代終末期(2世紀中ごろ~後半)とみられる円形の墓が見つかった。奈良文化財研究所(奈文研)が12日発表した。円形の一部に四角い突出部があることから、専門家は「前方後円墳のルーツではないか」と指摘する。

(中略) 円の直径は約19メートルで、周囲を幅約6メートル、深さ約50センチの溝が巡る「円形周溝墓(えんけいしゅうこうぼ)」。周溝を含めた直径は最大約31メートルに及ぶ。奈文研は、当時の奈良盆地で最大規模とみている。突出部は南側にあったとみられ、長さは約7メートル。墓への通路となる「陸橋」だったとみられる。」朝日新聞http://www.asahi.com/articles/ASJ5C7R9JJ5CPOMB00Z.html?iref=com_rnavi_arank_nr04

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前方後円墳の前身が周溝墓であるといい始めたのは明治大学や埼玉県埋蔵文化財調査団である。今からもう何十年も前からの仮説である。主導した人は後藤守一の影響を受けた埼玉県埋蔵文化財調査事業団調査員の福田聖が小島敦子・利根川章彦らである。むしろ大和の研究者たちはこの説をこれまで慎重に対応してきた側である。



このブログの過去記事を引用する。


誰でも納得!前方後円墳誕生試論1  2009/6/5(金) 午後 6:44
これは弥生墓である方形周溝墓を調査しておられる埼玉県埋蔵文化財調査事業団調査員の福田聖が小島敦子・利根川章彦らの試論をわかりやすく焼きなおした論考である。
福田は福岡県生まれ。早稲田大学東洋文化卒。

方形周溝墓は北部九州から近畿、東海東国にまで広く分布するが弥生時代の(3世紀古墳時代直前)の台状の土田んぼを盛り土した小規模な墓。その大きさは大小あるが、ほぼ人ひとりが埋葬されるには充分すぎる程度の大きさのものが多い。2~3m四方くらいで、周囲に溝が掘られるが、一箇所か二箇所の「橋」のような道がつけられている場合も多い。
中には円形のものもある場合がある。

利根川においては、時代が下がると、これが非常に前方後方墳(たまに前方後円墳)に近似した形をとることがある。その簡略図がこれである。
イメージ 1

小島敦子作成
そしてそれをタイプ化した画像がこれだ。
イメージ 2

利根川章彦作成

これらは上から見た墳形の模式図で、高さはせいぜい1m足らず、大きさも小さい。
さて、問題は「渡し橋」が溝の架け橋だったものが、次第に溝から切り取られていくのがわかるだろうか?そしてどうも前方後方墳のような形として独立してゆく。

これらの弥生墓の土盛りは、周溝を掘った土が使われる。もちろん不足したら、ほかの土を盛ったことだろう。
参考文献 福田聖『ものが語る歴史3 方形周溝墓の再発見』同成社 2005

次の図は纏向遺跡発掘で有名な石野博信(宮城県出身、関西大学大学院卒、徳島大学文学部教授、文学博士)が用いている古墳時代前期の全国の古墳の年代別編年および俯瞰図一覧である。
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最古のプレ前方後円墳・纏向石塚古墳が西暦199年前後に造営されたと石野は言っている。その同時代に全国で、さまざまな形のプレ古墳群(墳丘墓群)が試作されている。定型式纏向型前方後円墳はその中の特に吉備の盾築墳丘墓(中円双方墓)の双方部や、出雲の四隅突出型墳丘墓の突出部から創案、発展したものだと言われ始めていることはご存知だろうと思う。

しかしながら、福田の場合は九州の伝統的墳墓形態である方形周溝墓という伝統的な墳墓が、やがて前方後方型へと変遷するという試論を2005年に試みた。そして、この試論は世間一般のほとんど誰にも知られないままで今に至っている。
おそらくこの彼の本を読んだ人しか、この説は知らないだろうし、読んだとしてもそれほど注目もされず見過ごされてきた。

しかし、どうだろうか?
形はすでに弥生時代に生まれていると考えられまいか?
あとは巨大化するだけではないか?

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三世紀初頭、古墳が生まれる直前の大陸、国内の人の移動を、松木武彦が図にしているものがある。
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これで見ると、邪馬台国ができる直前?、列島で最大の大都市は、どう見てもまず大陸に向き合った福岡県にあったと見て取れる。
次にその福岡へ入る人は多く、中でも最も多いのが近畿地方からの流入だったこともわかる。
さらにその近畿が福岡に継ぐ大都市になっていくのもわかると思う。
その次が出雲であろうか。

これがプレ邪馬台国時代の人の動きである。そして大陸からは二つの道が見える。
最大の流通ルートである福岡への道。つまり当時、福岡は最大の貿易港、つまり最新の情報集中する港である。ゆえに近畿人がその情報と物品を「仕入れ」に来ているのである。
そして近畿はそれらを持ち帰り、まるで問屋のように、これらを地方へと拡散、流通させてゆく。つまり近畿が天下の台所なのである。

ここまでOKですか?

当然、古墳の知識もこのルートに乗って来た部分があったはずだろう。

当然、人も来ただろう。

そしてそこに二つのルートがあったわけである。実際にはもうひとつ九州へは中国南朝からのダイレクトコースが存在した。これは稲作・製鉄ルートであった。

このように半島と日本には、三世紀までに、お互いの二つの大都市を通じた交流があり、そこには文化の微妙な違いが生じたことは間違いない。そして面白いことは、この図には、北部九州人がどこへも移動していかないように描かれていることである。先進地・福岡は、来るものは拒まず、去るものはおらず?
いや、播磨、摂津、大阪湾岸には、確かに九州の土器、方形周溝墓が存在する。間違いなく「一部の九州人、あるいは半島から来て九州を経由した人々」言い換えれば「勢力」は近畿に入っている。

このあとはご想像にお任せする。

方形周溝墓から前方後方墳が派生したという説は、在野では渡瀬覺の『邪馬台国の前方後円墳』が採用している。




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前方後円墳の形は、弥生周溝墓の中心墓地であった円形あるいは方形の部分に、架け橋としての部分があって、最初は「陸地」=現世部分と、死の世界である墓地をつなぐものだったが、やがて橋もふくめてすべたが切り離されて、前方後円墳型へ変化するのであるという説。




考古学以外でも、この埼玉県からの仮説を指示するいくつかの民俗学的分析が発表されていた。つまり、能や歌舞伎の舞台にある「花道」と舞台の、シャーマニズム的存在意味である。

橋というものが、架け橋、霊魂や精霊のより来る設備であることは、いまさら申し立てる必要もあるまい。周溝墓や前方後円墳や前方後方墳に設置される後円部などが、墳墓=円・方部分への架け橋であることはあきらかで、それは墳丘や古墳がそもそも祖霊を祭るためのシャーマンの「ステージ」だったからである。


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修験道でも無明の橋というものが作られ、神社でも太鼓橋のような社殿と外界をつなぐ橋が必ず置かれる。そのように古代の死生観は間違いなく中世~現代へと伝わってきたと言える。



さて、纒向遺跡がある桜井市のとなり、橿原市(かしはらし)でどうも前方後円墳の前身であるらしき円形周溝墓がやっと、やっとである、見つかった。

これが箸墓古墳などの前身、試作品であるかどうかは、まだ奈良県で一点だけの遺跡ではなんともいいがたいことに代わりはない。しかし、もおし今後、同じようなものが関東地方のようにいくつも見つかるようなことになると、この仮説は仮説ではなくなることだろう。そしてそれは前方後円墳=卑弥呼の墓という大和垂涎の説を後押しするはずである。

瀬田の周溝墓と、纒向に箸墓以前に作られた石塚、矢塚などの「プレ前方後円墳後円墳」をつなぐもっと多くのものが出てこなければ、この発見はさて、関東からやってきた弥生氏族の大和移住という証拠にしかなれないこともありえる。




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いずれにせよ、古墳時代は弥生後期にはもう大和で始まっているのは間違いない。もちろん筑紫や吉備でもそれはいろいろな試作品を生み出していたのである。弥生~古墳への切り替わり時期は2世紀初頭までさかのぼる運命にある。










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