未明から多くのご来訪。おそらく今回の愛媛・高知での地震について何かコメントを求められてのことかと推量する。ならばKawakatu、ご期待に答えぬわけにはいかない。
実は渡来人と「簠簋内伝」陰陽道、清明、修験道についてここ数日、どうまとめて書こうかと試行錯誤していたところだったので、それも関連させてまずは今回の地震を書いてみよう。
プレートテクトニクスが構造線上の変成帯に与える影響
「日本列島を大規模な地質構造で区分すると、糸魚川-静岡構造線で東北日本と西南日本に分けられますが、西南日本を内帯(北側/日本海側)と外帯(南側/太平洋側)に分けるのが中央構造線です。中央構造線は長野県の赤石山脈北西側から紀伊半島・四国を経て九州に至る延長1,000kmの大断層です。多くの場合、花崗岩や低温型の変成岩からなる北側の領家変成帯と高温低圧型の変成岩や超塩基性岩からなる南側の三波川変成帯との境界となっています。
「日本列島を大規模な地質構造で区分すると、糸魚川-静岡構造線で東北日本と西南日本に分けられますが、西南日本を内帯(北側/日本海側)と外帯(南側/太平洋側)に分けるのが中央構造線です。中央構造線は長野県の赤石山脈北西側から紀伊半島・四国を経て九州に至る延長1,000kmの大断層です。多くの場合、花崗岩や低温型の変成岩からなる北側の領家変成帯と高温低圧型の変成岩や超塩基性岩からなる南側の三波川変成帯との境界となっています。
中央構造性の形成時期は中生代ジュラ紀末とされ、プレートテクトニクスによる仮説によれば、日本列島が形成される前に生じた大規模な横ずれ断層の跡ではないかと考えられています。
ジュラ紀末に、黒瀬川帯*1を構成する大陸地塊やそれに付随した堆積層(南部北上もおそらくその一部)が衝突してきた。この衝突は、付加体中に大衝上運動*2を引き起こし西南日本のナップ群*3が形成され、三波川帯の大構造(いわゆる大洲-長浜時階のナップ群の形成)もこのとき作られた。
衝突後、プレート運動は、横ずれに変化し、黒瀬川地塊を含むジュラ紀付加体(外帯)は、おそらく、側方の付加体(内帯)の前面へ移動していったと思われる。すなわち、中央構造線の形成である。(資料1 P.375より)
上記の説によれば、内帯と外帯は同じような位置で付加体として順次形成されたのではなく、中生代ジュラ紀の末から白亜紀にかけて、アジアの東縁で横ずれ運動がおこり、南方で形成された付加体(外帯)がプレートに乗って北上し、北方に位置していた付加体(外帯)と合体して日本列島の土台となったということであり、大断層である合体の境界が中央構造線に相当します。
中央構造線は古い横ずれ断層の跡であり、現在はプレート間の横ずれ断層としては活動していませんが、日本内陸の最長の活断層として活動しています。地震調査研究推進本部によると、中央構造線に沿った活断層を中央構造線断層帯*4として6つの区間に区分しています。これらの区間は1つの断層帯として同時に活動する可能性もあり、その場合はマグニチュード8.0程度もしくはそれ以上の地震が発生するとされています。
愛媛県西宇和郡伊方町に位置する伊方原発の沖合に中央構造線断層帯が通過しています。南海トラフで発生する海溝型の地震にまして中央構造線断層帯(活断層)で発生する地震の影響が懸念されています。」
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参考資料など
資料1 小澤智生・平朝彦・小林文夫 西南日本の帯状地質構造はどのようにしてできたか 日本列島の形成 平朝彦・中村一明編 岩波書店 1986
黒瀬川帯*1 九州の八代付近から九州・四国・紀伊半島を横断して三重県の鳥羽周辺に至る区間には小岩体として、周辺とは異質な地層が点々として連なっています。この地層の連なりを黒瀬川帯と呼んでいます。
大衝上運動*2 上盤側が下盤側の岩層のし上げた大規模な断層運動。
ナップ群*3 低角度の衝上断層や水平に近い褶曲軸を持つ横臥褶曲によって別の岩体にせりあがり重なった地質体群。
中央構造線断層帯*4 中央構造線断層帯(金剛山地東縁-伊予灘)の長期評価(一部改訂)について 地震調査研究推進本部 地震調査委員会 平成23年2月
http://www5d.biglobe.ne.jp/~kabataf/yougo/C_kouzou/kouzou_median_tectonic_line.htm
http://www5d.biglobe.ne.jp/~kabataf/yougo/C_kouzou/kouzou_median_tectonic_line.htm
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変成帯
「熱や圧力のため、一度できた岩石が融けないままに鉱物や組織が変化して別の岩石になることがある。この作用を変成作用といい、変成作用でできた岩石を変成岩という。ただし、続成作用との境界はあいまいである。たとえば泥→泥岩→頁岩(けつがん)→粘板岩→千枚岩→結晶片岩→片麻岩→花こう岩と岩石が変化していくときに、どこまでを続成作用といい、どこから変成作用というかの合意はない。すなわち、粘板岩や千枚岩を堆積岩に入れるか変成岩に入れるかの合意はない。また、岩石が融けてしまえばマグマになるので、それが固まったものは火成岩となる。」
http://www.s-yamaga.jp/nanimono/chikyu/henseigan.htm
「熱や圧力のため、一度できた岩石が融けないままに鉱物や組織が変化して別の岩石になることがある。この作用を変成作用といい、変成作用でできた岩石を変成岩という。ただし、続成作用との境界はあいまいである。たとえば泥→泥岩→頁岩(けつがん)→粘板岩→千枚岩→結晶片岩→片麻岩→花こう岩と岩石が変化していくときに、どこまでを続成作用といい、どこから変成作用というかの合意はない。すなわち、粘板岩や千枚岩を堆積岩に入れるか変成岩に入れるかの合意はない。また、岩石が融けてしまえばマグマになるので、それが固まったものは火成岩となる。」
http://www.s-yamaga.jp/nanimono/chikyu/henseigan.htm
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三波川変成帯を代表する変成岩が青石(緑泥片岩)である。古墳時代には石棺に使われた。この青石が存在する地域が三波川変成帯で、中央構造線南部を秩父変成帯とともに構成する(地図の空色)ライン。下図では青色。
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■その分布地は・・・・
1.青 石(下浦石)石井町浦庄の東山、及び龍王に産するもので、阿波郡林町に産する片解石(かたげいし)と共に特に青石と呼ばれて来たもので、その歴史は古いとされていて、良質の緑泥片岩である。又、内谷石と称す石は石井町石井内谷(尼寺の南、矢野の北附近)に産する石で、明治時代まで採掘していたもので、特に薄石(貼石)が採れていたので短册石と称して、板碑・箱(阿波式石棺の側枠)に使用されたものでその歴史は古い。
2.大谷石 徳島市佐古大谷に産する青石で、藩制時代から採掘され、大正年間まで続いていたが、この山が風致林に指定されたので中止となり現在では唯当時の丁場の跡が山崖となって居り遠からその山肌が望まれる。硬度・色・質とも良い石とされていた。
3.佐古石 徳島市南蔵本町医大裏山に産する青石で、大谷石と同様良質である。石口は淡島・西原両氏共同のものと、その西隣に山一つ越えてもう一箇所の石口があり、これは藤崎氏が所有して居り、両者共現在活溌に採掘中でハッパの音を轟かせている。特に西原氏は現在まで六代続いた石割(いしわり)である。
4.大野石 徳島市下八幡町大野に産する青石で、「きめ」があらく、又色彩も汚れて大分不純物を含んでおり良質でない。一般に眉山の北側には良質の青石を産するのに反して、南側は不良と言われている。この石は又八幡石とも言われている。
5.西山石 徳島市八幡町沖浜西山に産する青石で、大野石と同様で良質でない。
6.籠 石(かごいし) 徳島市大原町字籠に産する青石で、赤味が多く、良質でない。
7.大神子石 徳島市大原町大神子、小神子に産する石で籠石と同様余り良質でない。
8.森藤石 麻植郡鴨島町森藤に産するもので昔から森藤石と呼ばれ、大谷石・佐古石・下浦石と共に良質である。特に森藤石は他の産地のものよりも軟質で石細工が容易であるばかりでなく長石物が採れ、石にねばりがある。藍作地帯の農家に使用されているオトヰ(井戸側)は、オトヰとハシリが一つの石で造られる程細工が容易である。例としては鴨島町の協同病院のオトヰはそれであり、又浦庄の某家には便所腰廻り全部がこの青石で造られているのもある。
9.津田石 徳島市津田町乾開に産するもので、主として石垣、捨石に使用され良質でない。
10.片解石(かたかげいし)阿波郡林町西岡に産するものでやゝ良質である。
11.小島石(おしまいし)美馬郡三島村小島宮原に産する。
12.半田石(はんだいし)美馬郡半田町松生に産する。
http://www.library.tokushima-ec.ed.jp/digital/webkiyou/05/0504.htm
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和歌山県岩橋千塚(いわせせんづか)古墳に使われた青石。この墓は石棚があるので古代紀氏(きの・うじ)の墓であることは明確。
今回の中央構造線沿線を震源とする一連の大地震は、阪神・淡路以来の中央構造線でのひずみと、三陸沖で起きた東北大震災のプレートテクトニクス型大地震の引き起こしてきた「臥龍」とも言うべき地下のひずみの時間を越える伝播によって、周辺のもともとある活断層に集中してそのたまった力が暴発を引き起こしたものと思われる。中央構造線上は、これまでむしろ安定という説もあり、久しく鳴動することがなかった地帯である。記録ではだが、平安時代の貞観大地震大津波から江戸時代の慶長大地震までの間隔が約400年、今回の熊本・大分地震までが約200年という、長期の間隔をあけて構造線地震は引き起こされるということがわかる。しかし、近年のように短期間にこれほど大地震が集中した時代も珍しいのではないだろうか?
構造線の揺れをいう点では、中越地震もそうだったわけで、中央構造線だけでなくフォッサマグナでも大きな揺れは続いていることになる。
一連の地震が起きている構造線の変成帯にある土地で、今回は豊後水道を震源とする四国西部で震度3の地震が起きた。これで熊本、別府・湯布院、茨城西部、そして愛媛・高知と揺れは伝染した。しかし同じ変成帯にある紀伊半島と東海地域はまだ震源地になる地震が起きていないのは要注意だろう。
古代史の視線で申すなら、紀氏が青い石を追いかけて肥前基肄郡(きいぐん )から豊後水道を経て紀州まで移動するそのラインこそがまさにそのまま今の震源地になっているのであり、この道はまた、秦氏などの渡来氏族も「秦王国」豊前香春(かわら)岳からたどった鉱物発見のコースともなったのだった。この地震の行く末は常に白銀・銅・水銀・朱などの鉱物資源と青石・阿蘇ピンク石など古代人が欲してやまなかった希少な石材の宝庫であり、さらにその発見にともなうように地層に寄り添う温泉の湧く地域でもある。
石は宝物であり、しかし時に荒神でもある。
その象徴が中国神話の怪物「蚩尤 シユウ」だ。
蚩尤は渡来人の中で鉱物の神であり宿神とされてゆく。
そこから修験道、陰陽道が生まれた。
宿神は荒神であり、石神であり、日本神話ではスサノヲやアメノヒボコやアジスキタカヒコネ(高賀茂神)と言い表されてゆく。葛城の役行者(えんのぎょうじゃ)も、安部清明も、秦河勝も、白山開基の秦澄も、香春の天忍骨命もみな、彼ら渡来系工人たちが危険な大地、鉱山を荒神とし、あらぶる神、災害神として祭ることから生まれてきた象徴的想像上の人物だったと言える。今、その宿神がまさに鳴動している。阿蘇氏が祈らず、秦氏が牛祭りをやめ、物部氏や忌部が、大地・地球・宇宙に向かって祈らなくなったからだろうか?再びスサノヲが活動を始めた。まさにそのさまは臥龍である。
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