茨城沖で震度3
海中でつながっている変成帯が三陸沖のプレート断層に刺激を与えたと理解すべき。東北大震災の揺れが、五年間で西へ向かい、それが反作用として昨夜戻ってきた?
ま、そういう感じはある。
天照御魂神とは何か?
①鏡作坐天照御魂神社-鎮座地は奈良県磯城郡田原本町八尾字ドウズ814
祭神/天照国日子火明命、天児屋根命、イシコリドメ(石凝姥)
社伝では、中座は天照大神の御魂也とする。
崇神6年9月3日、この地で日御象の鏡を改鋳し天照大神の御魂となす、今の内侍所の神鏡是也。
祭神/天照国日子火明命、天児屋根命、イシコリドメ(石凝姥)
社伝では、中座は天照大神の御魂也とする。
崇神6年9月3日、この地で日御象の鏡を改鋳し天照大神の御魂となす、今の内侍所の神鏡是也。
②他田坐天照御魂神社--鎮座地・奈良県桜井市太田字堂久保
祭神・天照御魂神 (天照大神荒魂、天照国照火明命とか志貴連祖天照饒速日命とする説あり)
③木島坐天照御魂神社-鎮座地は京都市右京区太秦森ケ東町
祭神・天之御中主神外四柱
延喜の制(1000年前)名神大社諸祭の官幣に預かる。創建年月は不詳であるが天之中主神を主として奉り、上は天神に至り、下は地神に渉り、御魂の総徳を感じて、天照御魂神と称し奉り、広隆寺創建とともに勧請されたとも伝へらる。
④新屋坐天照御魂神社---この神社はおかしいことに、大阪府茨木市の三ヶ所に鎮座します。
(ア)福井にある新屋坐天照御魂神社--式内社(明神大社)
祭神 天照御魂皇大神、天照国照天彦火明大神、天津彦瓊瓊杵大神
社伝では、崇神天皇7年、神の降臨があったので伊香色雄命によって祀られ、景行天皇の皇女五百野媛をして天照御魂皇大神を祀り、また後に神功皇后出立にさいし、この社でみ禊の祓いを行い、後日帰国後、東西の川上に社を造り、天照御魂皇大神の幸御魂と荒御魂を祀ったとされている。
天照御魂神は三島県主の祖神の天神玉命か饒速日命だとされている。
明治になって福井、安威、石河、見山、清渓、豊川6ヶ村の郷社となる。
(イ)西河原にある新屋坐天照御魂神社 (式内社 明神大社)--大阪府茨木市西河原3丁目。
祭神 天照国照天彦火明命、天児屋根命、建御名方命
(ウ)上河原にある新屋坐天照御魂神社---式内社(明神大社)
大阪府茨木市宿久庄5丁目
寛文9年神域縮小されて現在地に移され、同12年社殿造営される。
祭神 天照皇御魂大御神、天照国照天彦火明大神、天津彦火瓊瓊杵大神
http://o-mino.la.coocan.jp/page763.html
大阪府茨木市宿久庄5丁目
寛文9年神域縮小されて現在地に移され、同12年社殿造営される。
祭神 天照皇御魂大御神、天照国照天彦火明大神、天津彦火瓊瓊杵大神
http://o-mino.la.coocan.jp/page763.html
その他この神を祭る社
籠(こ・の)神社 京都府宮津市 祭神・天火明命ほか 「こ」=籠る
粒坐天照神社 兵庫県竜野市
天照大神高座神社 大阪府八尾市教興寺境内
天照玉命神社 京都府福知山市
伊勢天照御祖神社 福岡県久留米市 祭神・天照御祖神
阿麻氏留神社 長崎県対馬美津島町 祭神・照日権現
籠(こ・の)神社 京都府宮津市 祭神・天火明命ほか 「こ」=籠る
粒坐天照神社 兵庫県竜野市
天照大神高座神社 大阪府八尾市教興寺境内
天照玉命神社 京都府福知山市
伊勢天照御祖神社 福岡県久留米市 祭神・天照御祖神
阿麻氏留神社 長崎県対馬美津島町 祭神・照日権現
天照御魂神(あまてるみたま・じん)とは何か?
皇室が天照大神(アマテラス)を皇室の祖神とする8世紀の持統朝以前から信仰されてきた海人系氏族の神である。これがアマテラスの「荒御霊 あらみたま」神とされ、『日本書紀』でいうところの「すぐに隠れた国を建てた神々=造化三神とイザナギ・イザナミ」の本性のひとつであったと考えられる。従って、この神はいくつかの朝廷成立以前からの畿内先住氏族が祖、荒御霊としてきた複数の神々を一括した名前を持つものであると言える。一説にはニギハヤヒであると決め付ける解説もあるが、ニギハヤヒだけではなく海人・海部の神・アメノホアカリなどでもある。
皇室が天照大神(アマテラス)を皇室の祖神とする8世紀の持統朝以前から信仰されてきた海人系氏族の神である。これがアマテラスの「荒御霊 あらみたま」神とされ、『日本書紀』でいうところの「すぐに隠れた国を建てた神々=造化三神とイザナギ・イザナミ」の本性のひとつであったと考えられる。従って、この神はいくつかの朝廷成立以前からの畿内先住氏族が祖、荒御霊としてきた複数の神々を一括した名前を持つものであると言える。一説にはニギハヤヒであると決め付ける解説もあるが、ニギハヤヒだけではなく海人・海部の神・アメノホアカリなどでもある。
そもそも氏族は、大和などをめざしてとき、一度、集散して同族関係を結ぶことで勢力を拡大するものであり、そのときに神の名前も合体・離散を繰り返してきた。それを天武のクーデター後の女帝即位によって国家神を一旦リセット、単純化して一本にする必要が生じる。そこで藤原不比等らが考案したのが『古事記』の中にすでにあったアマテラスという女神を、ちょうどはじめての女帝・持統に仮託して成立したのが天照大神である。
しかし天照大神の神霊は宮中には置かれず、なぜか遠隔の伊勢に置かれてしまう。この理由は、アマテラス=太陽神の構図が長く存続しなかったことを示している。つまり天武・持統の直系天皇の10代から以降、天智の子孫である桓武へと皇位が転換したときに、すでにアマテラスの皇祖としての意味は皇室内で軽んじられ始めているのであろう。ゆえに、代わってまたアマテル御魂を復帰させるわけにもいかず、表面的にはアマテラスを皇祖としたまま、実際の皇祖はあやふやにしたままに放置した。要するに政治上、皇祖も天皇も「象徴」であって、特になくてもよい存在になってしまうのである。担ぎ上げるための錦の御旗として皇室は存続を許容されたわけである。その後、このために南北朝の対立が引き起こされ、結局、室町以後は天皇の実権は完全に武家にとってかわられることとなった。そしてここにこそ民間での祇園、災害神、後ろ戸神、宿神、スサノヲ、大国主などの闇=アンダーグラウンドでの蔓延を助長してしまうのであり、平安時代にはあろうことかそうした陰陽、祟り神を貴種たちまでもが最重要なものとしてしまう基盤となる。ひいてはそれが唯一絶対の皇室・皇祖神観念の脆弱さを生む大元となったとさえ言えよう。
アマテラスを再び現世の皇祖として復活させたのは明治政府である。これも新生日本を皇国史観によってひとつにまとめあげるための錦の御旗としての復活で、やがてそれが傀儡であった証明として、アマテラスと天皇は、明治政府の意思を引き継ぐと嘯いた昭和の軍部によっていいように利用されてしまう。結果世界大戦に大敗北。しかもアメリカの人類初の核爆弾のモルモットという世界の大恥の対象とさせられたおまけまでついて。そもそも自らが国際連盟からはみだし、勝手に始めてしまった戦争で、敵国にそんなひどいことをやられたという考え方はそもそも実に奇妙で本末転倒である。どのような倫理観、宗教観、道徳観念からも、「アメリカはあやまれ」は出てこない考えであろう。あやまるのは日本軍部側なのである。しかしすでに日本軍部は罪を背負い、死刑その他の罪滅ぼし=みそぎを済ませた。従って、これ以上互いが何かを要求する必要はすでにないと言える。これは中国・韓国・北朝鮮などの戦争被害国もまた当然、いまごろ何も言うべきではない事柄であり、過去のことである。それをいまだに言い募るのは西欧的な「敵国作成政策」でないのならばただの「恨 ハン」根性でしかない。要するにあきらめの悪い民族性の表出。
天照御魂神はこのように、天皇家を迎える以前の日本の基礎を作り上げた祖神を意味した神である。
持統以来、『日本書紀』は中国の史書・伝承を大いに取り込み、この正史によって国家を統一に向かうための礎としたかった。そこで長江文明以来の先住盤古伝説をスサノヲという風の神に置き換えて国土神とし、その子孫オオクニヌシ及び大和の地主神・大物主などを祟りなす災害神として古い信仰だと決め付け、新たな国家神としてのアマテラス=太陽信仰がさもむかしからの日本人の信仰の基盤であったかのような書き方をした。これは持統のと言うよりも藤原家の策謀、いや海外へむけた政策である。大陸の歴史は治乱攻防によって何度も天子が切り替わるのが当然ゆえ、あたかもそのような政権攻防と転覆があったかのように天皇家も描こうとしたが、よくよく読めば、すべての血脈は数千年に及びつながっているという、なんとも奇妙な系図に仕上がってしまった。ゆえに神武・応神・継体・天武だけは東征・渡来・クーデターで天智から政権を奪うという表現を用いている。しかしこれもまた実に怪しいのであり、実際は継体以前の王家などは存在したかどうかも疑わしく、すべて地方政権であったとしてもあながち間違いとも言えぬ状態である。ただ、前方後円墳だけが、その形状の相似によってかろうじてひとつの王家が、かつがつ古墳時代以降変わらずに存続したということのできる証拠品として「主として畿内学説だけが」これを大きく取り上げ、魏志の卑弥呼につないでしまおうという恣意的史論を開陳してきた。これを安易に受け取るのは、あたかも先の大戦で皇国史観と大本営発表に疑問もなく従った日本人と同じ失敗を犯しかねない安易でおろかな迷信と考えるべきだ。
そこでこの天照御魂神というものが、戦後の一時期大いにもてはやされた時期も或る。やれニギハヤヒで物部氏がもとの大和の王家だったのだ、とか、いや海部の神で、皇室によって敗北した氏族が祭ってきた先住国家神だとかやかましいのであるが、そもそも太陽信仰などというものが、太古からわが国全体民族すべての信仰だったという発想は大きな誤りなのであり、それは民間の信仰の対象がみな災害神、宇宙摂理の神であることのほうが今にちゃんと伝承されているのであって、伊勢の天照信仰はもう江戸時代から観光旅行でしか行かないとされてしまっていたわけだ。つまり太陽信仰などは日本人の大半は知りもせず生きてきた。大事なのは、夏の台風、大地震、津波、大雪、日照りと疫病・・・といった実に実生活に寄り添った(実害をもたらす)災害神=宿神のほうだったのである。そもそも皇室がどのような神をおがみたてまつろうが、日本国民にとって何の意味があろうか?
ちょうどエジプトの太陽神一神教化を画策したアメンホテップ王権が、死後妻があとを継ぎ、ツタンカーメンに引き継がせようとしたが、結局二世代しか続かなかったのと同様、日本の太陽神皇祖というイデオロギー政権もカリスマ天武から妻持統をへて文武へと引き継がれたものの、わずか10代で終わるのである。このように太陽信仰がその国家の長きに渡る信仰だっためしはないのである。世界中の太古人・古代人の最も重要、最大の神はスサノヲのような自然災害を引き起こす神だった。そして中国でも西欧でも、その災害神こそが老子のような宇宙の摂理によって支配される人間を哲学し、それをくつがえそうとして科学を生み出したのである。