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Channel: 民族学伝承ひろいあげ辞典
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比売許曾=卑弥呼説は分析して引出しに入れておきましょう

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今回はこの記事がメインシリーズなので、あとの二つの記事は邪魔なのでさきほど削除しました。

まだ途中経過なのでありますが、一応忘れぬように貼り付けておきます。明日以降、書き込んで、分布地図も作るつもりなんでありますが、ま、いつになることか筆者にもよくわかりせん。これは久しぶりのシリーズでしょうね。明日以降、ここに追加して書き足すよていです。

6・18 一部書き足し

また後日書き足して次の記事へ向かいます。



●ひめこそ伝承とは?
昔、新羅のアグヌマ(阿具奴摩、阿具沼)という沼で女が昼寝をしていると、その陰部に日の光が虹のようになって当たった。すると女はたちまち娠んで、赤い玉を産んだ。その様子を見ていた男は乞い願ってその玉を貰い受け、肌身離さず持ち歩いていた。ある日、男が牛で食べ物を山に運んでいる途中、天之日矛と出会った。天之日矛は、男が牛を殺して食べるつもりだと勘違いして捕えて牢獄に入れようとした。男が釈明をしても天之日矛は許さなかったので、男はいつも持ち歩いていた赤い玉を差し出して、ようやく許してもらえた。天之日矛がその玉を持ち帰って床に置くと、玉は美しい娘になった。
天之日矛は娘を正妻とし、娘は毎日美味しい料理を出していた。しかし、ある日奢り高ぶった天之日矛が妻を罵ったので、親の国に帰ると言って小舟に乗って難波の津に逃げてきた。その娘は、難波の比売碁曾の社に鎮まる阿加流比売神であるという。

都怒我阿羅斯等は自分の牛に荷物を背負わせて田舎へ行ったが、牛が急にいなくなってしまった。足跡を追って村の中に入ると、その村の役人が、「この荷の内容からすると、この牛の持ち主はこの牛を食べようとしているのだろう」と言って食べてしまったという。都怒我阿羅斯等は牛の代償として、その村で神として祀られている白い石を譲り受けた。石を持ち帰って寝床に置くと、石は美しい娘になった。
都怒我阿羅斯等が喜んで娘と性交しようとしたが、目を離したすきに娘はいなくなってしまった。都怒我阿羅斯等の妻によれば、娘は東の方へ行ったという。娘は難波に至って比売語曾社の神となり、また、豊国国前郡へ至って比売語曾社の神となり、二箇所で祀られているという。

摂津国風土記』逸文
応神天皇の時代、新羅にいた女神が夫から逃れて筑紫国の「伊波比(いわい)の比売島」に住んでいた。しかし、ここにいてはすぐに夫に見つかるだろうとその島を離れ、難波の島に至り、前に住んでいた島の名前をとって「比売島」と名附けた。


日本の二つの正史にこれが記載されたわけはと考えれば、それほどどうしてもこれを書いて欲しい、朝鮮が日本の王家に影響力があったのだと言いたいものがいたということだろう。つまりそれは三韓が新羅によって統一されて逃げてきた伽耶・高句麗・百済の難民たちの願いでもあったろう。今でも韓国人も北鮮人も、そうしたあきらかな虚偽を作り出す名人であるからわかる。

この話には
1 日光感精説話
2 王統卵生説話
3 殺牛生贄祭祀
4 儒教・仏教的食牛禁忌観念
5 機織・製鉄の渡来と帰化
6 太陽=絹織物=太陽信仰
7 烏=太陽の使い
8 日月一体始祖神
など朝鮮が好む王統譜の類型がぎっしりと詰め込まれている 

記紀作者にとっても、自国の国家成立譚を造作するさいに、かなり影響を受けた記事と言えるだろう。アメノヒボコとツヌガアラシトは新羅ではなく大加羅国=伽耶から来たのであり、つまり新羅が伽耶を滅ぼしたという事実のあとに起きたのであるから、この男女はそれぞれ滅びた伽耶から逃げてきた=亡命した小国家のいち王(部族長)の渡来人伝説なのである。

そこから記紀の秦氏の来訪記事もつながっており、それは4世紀をさかのぼるものではないとされている。

この話は朝鮮でよほど好まれたらしく、同じ話を何冊もの史書が採用している。彼らは日本の女性が大好きだったのだ。しかも話は滅んだ伽耶の話でもある。哀憐懐古が彼らなりにあるのだろう。実は日本が大好きな朝鮮人だけが逃げてきたのだなあと。



●朝鮮にある類似伝説

『三国遺事』延烏郎と細烏女
第八阿達羅王即位四年丁酉。東海濱有延烏郎細烏女。夫婦同居。一日延烏歸海採藻。忽有一巖(一云一魚)、負歸日本。國人見之曰:此非常人也。乃立為王(按日本帝記。前後無新羅人為王者。此乃邊邑小王。而非真王也)

第八代阿達羅王の即位四年(157年)丁酉。東海の浜辺に延烏郎(ヨンオラン)と細烏女(セオニョ)がおり、夫婦で暮らしていた。ある日、延烏が海中で海藻を採っていると、突然、岩(魚ともいう)が出現し、(延烏郎)を乗せて日本に帰った。国人はこれを見て「これは並みの人ではない」と言い、王に擁立した。」

 
細烏怪夫不來歸尋之。見夫脱鞋、亦上其巖。巖亦負歸如前。其國人驚訝。奏獻於王。夫婦相會立為貴妃。是時新羅日月無光。

細烏は夫が帰って来ないのを不審に思い、夫を探し求めた。夫の脱いだ鞋を見つけると、彼女もまた岩に上った。岩はまた前回のように(細烏を)乗せて(日本に)帰った。そこの国人は驚き怪訝に思った。謹んで王(延烏)に(細烏を)献上した。夫婦が再会し、(細烏は)貴妃に立てられた。この時、新羅の日月は光を消してしまった。
 
日者奏云:日月之精、降在我國。今去日本。故致斯怪。王遣使求二人。延烏曰「我到此國、天使然也。今何歸乎。雖然朕之妃有所織細綃、以此祭天可矣」。仍賜其綃。使人來奏。依其言而祭之。然後日月如舊。藏其綃於御庫為國寶。名其庫為貴妃庫、祭天所名迎日縣、又都祈野。

日が奏して言うには「日月の精は、降臨して我が国に在った。今、日本に去ったので、この不思議な現象に到った」。王は使者を派遣して二人を求めた。延烏が「私はこの国に到ったのは、天が然るべくさせたものである。今どうして帰ることができようか。だが、朕の妃が織る薄絹が有るので、これを天に祭れば、可なり」と言った。言葉の通り、その薄絹を賜う。使者が戻って来て奏上した。その言葉に基づいて薄絹を祭った。然る後、日月は元通りに復旧した。その薄絹を国王の御庫に収納して国宝にした。その庫を貴妃庫と名付け、天を祭った場所を迎日県、または都祁野と名づけた。

※日本のアメノヒボコ・阿加流比売伝説では女性が逃げて男があとを追うが、朝鮮の『三国遺事』では逆に男が去って妻が追いかける。これは朝鮮が儒教の立場で、男が女を追いかけるなど絶対認めないお国柄から元の話を曲げたわけなので、日本の記紀などの記述が正しいものと言える。

※「細烏女」は、例えば宇佐神宮関係で「細男舞」(さいのお・まい)があり、同じ意味のある名前と考えられる。朝鮮語のセは細と鳥で音が共通する。つまり烏のオと同じくこれは巫覡だということである。そして彼女は日本人で、海岸で藻をとっていたのだからこれはまず藻塩を焼く海人族=魏志倭人風習なのである。宇佐の細男も人形で、くぐつであるのでこれも海人や海女の風習。つまり彼女が逃げた姫島というのは、全部海女の故地だったわけで、これは安曇・宗像・宇佐・吉備・難波住吉でまったくつながって当たり前なのだ。彼女は海人族。夫は伽耶海岸部の小国部族長つまり秦氏などであろう。

『新羅殊異伝』
では、名前が少し変わるがストーリーはほぼ同じ。「迎烏と細烏」となっている。夫の「迎」は朝鮮語発音でヨンで、「遺事」の夫延烏郎の「延」もヨン。同音であるから同一人物である。

 
『大朝鮮帝国史』
五年春三月、開竹嶺。倭人来聘。
五年(158年)春三月、開竹嶺。倭人来聘。
二十年夏五月、倭女王卑彌乎遣使来聘。
二十年夏五月(173年)、倭の女王の卑彌乎が遣使を以て来訪した。
※注釈は筆者

※新羅に倭の女王が朝貢したとあるのは魏志からの作文である。
当時の新羅地域はまだ斯蘆(サロ、しろ)という小国家で新羅となったのは6世紀。また卑弥呼の使者が向かった帯方郡のあったのは半島の西海岸で、新羅の東海岸へ行ったはずもない。
                                       ※この書物そのものがかなり後世に作られた極めて怪しげなもので、話は眉唾だが
セオニョ=卑弥呼はなかなか面白い。ただし、半島人はとにかく日本を貶めたいというどうしようもない性癖に支配された人が多いので、この記事もそういう意図で作られたものである。女王卑弥呼がもともと新羅の人だったのだと言いたいだけの造作作文に過ぎない。

もしセオニョが卑弥呼なら年代が少し前後するが、永年の謎は簡単に氷解するのだが(苦笑)。






●ひめこそ、あかるひめ、ひめがみ、とよひめを祭る神社一覧
(伝承・記録にある推定来訪順に)

1 佐賀県鳥栖市(旧基肄=きい郡=紀氏地名である。同上検索されたし)姫方町189
姫古曾(ひめこそ)神社

『肥前国風土記』逸文基肄郡 姫社の郷
「此の郷の中に川あり、名を山道川といふ。其の源は郡の北の山より出で、南に流れて御井の大川に會ふ。昔者、此の川の西に荒ぶる神ありて、※1路行く人、多に殺害され、半ば凌ぎ、半ば殺にき時に、祟る由を卜へ求ぐに、兆へけらく※2「筑前の國宗像の郡の人、珂是古(かぜこ)をして、吾が社を祭らしめよ。若し願に合はば、荒ぶる心を起さじ」といへば、珂是古を覔ぎて、神の社を祭らしめき。珂是古、即ち、幡を捧げて祈禱みて云ひしく、「誠に吾が祀を欲りするならば、※3此の幡、風の順に飛び往きて、吾を願りする神の邊に堕ちよ」といひて、便卽て幡を挙げて、風の順に放ち遺りき。時に、其の幡、飛び往きて、※4御原(みはら)の郡の姫社(ひめこそ)の杜に堕ち、更還り飛び来て、此の山道川の邊に落ちき。此に因りて、珂是古、自ら神の在す處を知りき。其の夜、夢に、臥機と絡垜と、儛ひ遊び出で來て、珂是古を厭し驚かすと見き。ここに、亦、女神なることを識りき。卽て社を立てて祭りき。爾より巳來、路行く人殺害されず。因りて姫社といひ、今は郷の名と為せり。」

※1『八幡愚童訓』などにある祟り神の定型的表現である。つまりここでは比売許曾は宇佐の八幡神同様、祟りなす鬼(=障碍(しょうがい)神・荒神)のように書かれた。つまり比売許曾=鉱物、鉱山、鍛冶神を暗示する)。

※2 宗像からわざわざ風の巫女を呼んでいる。宗像海人族の巫女であろうが、旗を飛ばして聖地を占うので「かぜこ=風子?」と言われているようだ。宗像の神はスサノヲの娘三女神だが、これは大阪市の姫島や住吉で住吉神と変形するので、比売許曾=宗像三女神=住吉三神という想定ができるだろう。八幡神がのちにここに祟り封じとして置かれたことからも、これらが宗像・安曇・秦氏・物部氏に関与した祖神と拡大解釈可能(あとに解説)。

※3 6世紀の装飾古墳で福岡県筑紫野市にある五郎山古墳壁画最上部に、緑色の大きな旗がはためきながら描かれているのはこのときの情景描写やも知れぬ。であるならば、比売許曾と宗像かぜこのこのエピソードは、九州では当時、かなり話題になった大事件だったのだろう。いずれにせよここの社は、かぜこが選んだ次の聖地・宗像にほど近い福岡県の糸島へ移されたらしい。そのように比売許曾関連神社は、各地で「今はないが、往古は社があって、なにがしの土地へ遷座した」とされることが多い。これは漂泊する半島渡来工人の特徴であるし、鉱山師たちも鉱脈を探して全国を放浪したのである。

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※4 御原とは1小郡市の大部分(赤川、上西鯵坂、八坂、光行、平方以南を除く)~2三井郡大刀洗町の大部分(中川、冨多、菅野以南を除く)で、宗像の内陸部にある。これは次にある小郡市大崎の媛社神社であろう。



2 福岡県小郡市大崎(=おおさけで秦氏地名である。大崎稲荷神社、大崎八幡社あり。以前検証済、サイト内検索されたしhttp://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/54813926.html)1番地 

媛社(ひめこそ)神社(通称七夕たなばた神社)

※「たなばた」は「棚機」と大和言葉で分解可能。紀氏の古墳には棚がある。機は織姫のハタオリ技能。また秦氏とも。紀氏=葛城族であるので、彼らが伽耶から120部の秦の民を運んだと解釈可能。葛城襲津彦はその管理者秦氏を大和に連れてきたと記紀。紀氏、葛城氏はともに武内宿祢の子孫。

中国の牽牛・織女伝説を持ち帰り祭ったのは、興味深いことだが大阪府枚方市~交野市を本拠とした肩野(かたの)物部氏の居住地星田周辺にも機織神社(乙姫神社)があって、磐船神社の祭神ニギハヤヒとの関連を匂わせる。実はここ小郡の媛社には「棚織神社」も「磐船神社」も過去社名として存在したらしい。やしろ裏にその記録があるそうだ。つまりここに渡来神比売許曾と物部氏の古い邂逅がすでにあったとも考えうるし、「棚機」という表記からも(今の七夕は後世の当て字変化である)、古墳に石棚を持つ葛城同族紀氏集団とも関係が感じられる。紀氏を佐賀県の基肄(きい)郡出身で、海人族で、伽耶と関係の深かった鉄の氏族葛城氏、あるいは秦氏との古いえにしがあったのか?


3 福岡県糸島市志摩(旧芥屋村)姫島105 
姫島(ひめしま)神社

【祭神】豊玉姫命、鸕鷀草葺不合尊、伊弉諾命、伊弉冊命、天一根命、市杵島姫命、素盞嗚命、稲田姫命

※祭神はすべて記紀天孫降臨氏族・隼人系・出雲系氏族ではあるが、アメノヒボコらの記事記録では「姫島」は比売許曾神最初の渡来地。糸島はかつて伊都と志摩に別れていた。この志摩地名表記は島でもあろうし、紀氏関連では三重県の伊勢志摩は海人族紀氏・紀部の行ったためについた地名とも思える。「あくた」地名は大阪府の摂津三島にも芥川が流れ、そこには筑紫津神社、磯良神社、三島神社があって、これも移住地名だろう。考古学的には継体大王今城塚古墳の阿蘇のピンク石石棺もここに荷揚げされたかと思える。大阪と筑紫、豊はこのように渡来を通じて往古から深く関わる。

豊玉姫は天孫氏族の妻になる霧島あたりの海岸部の姫だが、玉依姫を妹として、天祖系図の最初の母方=水・海の女神である。しかし香春ではこれは息長帯姫大目命=神功皇后?の娘?豊比売と見ることもある。豊比売の「とよ」は佐賀県佐賀市の「與止日女神社 よどひめ」と似た名前でもある。またの名を豊姫・淀姫とも言う。つまりこれは豊前豊後とも、大阪の淀川とも関与する地名の神で、しかもひょっとするとこれが魏志の「トヨ」?と川村湊は想像している。そうなると母である神功皇后は卑弥呼?いや=比売許曾と考えるならば、比売許曾阿加流比売こそが卑弥呼と?そうなると南にあって和合しなかった卑弥呼弓とは比売許曾に逃げられて追いかけてきた大加羅の王子アメノヒボコだったのか?!



4 高良大社

明日以降書きます


5 高祖神社

本来の祭神は高磯比売。今は玉依姫と彦ほほでみ、神功皇后
怡土県主・五十迹手(いとで)の祖はアメノヒボコとある。「高麗国意呂山(おろやま)天孫来し日鉾」たとある。玉依とは、玉、鈴などを振って憑依させる巫女神であるので、これは朝鮮の巫堂の女神クッを下ろしてくる巫女神と同源。大分県宇佐市安心院にある妻垣神社の祭神が玉依姫だが、その北東に三女神神社、その北東に比売神を祭る宇佐神宮がある。この比売神は秦氏が香春で祭った豊比売であると考えられる。また採銅所のある香春岳のすぐそばに鏡山があるが、同じく佐賀の海岸部にも鏡山がある。香春の鏡山の東部のダムそばに呉姫廟と呼ばれる祠があって、朝鮮から機織を伝え、大和に召されたと伝承されている。三人の姫が田川に来て、呉姫だけが大和へ行ったとある。


6高良下宮社
高良玉垂神の玉は、そもそも女神であろうが、今は


7高樹(たかぎ)神社
高木神は造化三神のひとつ「たかみむすひ」のことだが、そもそも中国神仙思想の神樹に始まる。http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/50720969.html



8 香春神社及び古宮八幡社
明日以降書きます

9 大分県東国東郡姫島村5118
比売語曾(ひめごそ)神社
※おはぐろ、赤水伝説あり。神功皇后を祭る大帯社も別にあるので、比売許曾=神功皇后(=香春神社の息長帯姫大目命)は×となる。となると香春の子神である豊比売が比売許曾かとなる。
おはぐろは鉄、赤水も鉄さびか銅かあるいは水銀か?黒曜石は有名。
明日追加書きます

10 岡山県総社市福谷1423
鉄作神・姫社(ひめこそ)神社
※近くに秦(幡多)原郷あり。往古鉄鉱石がとれたとか、今は備前焼が有名。

番外 広島県呉市清水亀山神社
日月神文を持つ。「亀山」は宇佐本殿がある山も亀山、岡山の吉備中山の盾築墳丘墓の上に二体の弧帯文石が出たがこれも亀の形だった。旧加羅の金海の亀旨峰の頂上にも亀石があり、その形状は盾築を彷彿とさせる小高い丘である。もしやなにがしかの古墳か?亀は飛鳥でも出たし、亀石もある。また天寿国繍帳では亀は聖徳太子御神文ともいう。亀は縄文の昔から弥生にも聖なる生命力の象徴。その形状は男根(亀頭)が女陰(甲羅)を貫く陰陽やまぐわいの形で永遠の生命を表していた。それがこの神社では日月の神文で表してある。日月=男女であり、比売許曾・ひぼこでもあるだろう。

11 大阪府大阪市東成区東小橋3-8-14(JR鶴橋駅~玉造駅の中間)
比売許曾神社
【祭神】下照比売命(したてるひめ=出雲大国主命と宗像多紀理姫命の子神・鴨大神味耜高彦根命妹神)
相殿祭神 速素戔嗚命、味耜高彦根命、仁徳天皇、用命天皇

※下照姫を赤留比売として祭っているのはここだけだろうが、下照姫を祭る神社そのものは出雲を中心にいくらもあると思う。

 名物「ひめこそ団子 ある年、疫病が流行し、当社(大阪市東成区東小橋3の比売許曾神社)に参拝する人が増えた。地元の団子屋が、神のお告げがあったとして彩色した串団子を、ひめこそ団子と名付けて売り出し、評判になった。後に祭礼に供えるようになり、訛って「ひみこ団子」と呼ばれた。当社の南東に茶屋町と旧称したのは、ここに団子屋があったから。」
http://kamnavi.jp/ym/hiboko/himekoso.htm


12 大阪市中央区高津1
高津神社摂社比売古曾神社
明日書き足します


13 大阪市西淀川区姫島
姫島神社

明日

14 大阪市平野区平野東2
赤留比賣(あかるひめ)神社
明日

15 大阪市住吉区住吉2-9-89
住吉大社
明日追加します。




アメノヒボコ・ツヌガアラシトの伝承のままに、これらの姫を祭る神社は筑紫~豊~吉備~摂津と並ぶ。それが本当に阿加流比売がわがままな夫から逃避移動した痕跡とは思えない。それらは要するに伽耶から新羅に追われてやってきた渡来工人たちの漂泊の痕跡であろうと感じる。

では比売許曾とは果たして卑弥呼だったのだろうか?実は時代的にそれは157年頃だったという記録が朝鮮にはあるのだ。157年といえばしかし新羅ばかりか百済も伽耶・安羅もまだ存在しない時代。だが、魏志など中国の史書は、その頃、倭国では「大いに乱れる」戦乱が起きたと書いている。その後戦うこと歴年、ついに倭人たちは女王卑弥呼を立てた。これがだいたい158年頃で合致してしまう。また倭国が新羅の阿多羅王に絹織物を持ってやってきた(158年と年の二度)との記録がある。もちろんこれはずっとあとに書かれた記録だろう。しかしその宗女がトヨだったことと、比売許曾であるらしい息長帯姫大目命=神功皇后の娘神・豊比売だった・・・しつらえたように合致してしまう。まるで邪馬台国東遷説を証明しているかのようであるが?だがそうなると卑弥呼とは紀氏や秦氏が伽耶から取れてきた朝鮮伽耶の巫女、あるいはその子供だったことになる。記録は時代的にすべて記紀前後の時代のものでしかない。さて?

どこまで信じるかは読者次第である。
筆者は秦氏好事家としてこのまま冷徹な精査を粛々と続けるだけである。

ほかにあればご連絡ください。
愛媛県・山口県・和歌山県などにあるはずですが。
次回は夫であるアメノヒボコ・ツヌガアラシトを祭る神社。これは新羅神と関与。
これらはすべて、筆者が2005年に著した『秦氏が祭る神の国 その謎』で、筆者が京都から九州へ追いかけた秦氏の道を川村湊が逆向きに九州から近畿へフィールドワークした2012年の著作『海峡を越えた神々 アメノヒボコとヒメコソの神を追って』を参考にして、各サイトを探し回って集めた情報資料である。

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