長野県諏訪の縄文遺跡は、諏訪湖周辺から発見されているが、最も集中するのは井戸尻・尖り石遺跡を中心とする諏訪湖東南部扇状地(九兵衛尾根)に集中し、南下して富士山麓を通り相模湾まで連綿と続いている。
この縄文遺跡群の多くは縄文末期のもので、ここから関東地方一円までは、縄文文化が日本列島で最後に入って(曽利I期)、終末期まで続き、また弥生文化も最後に入り込む地域になる。筆者が茅野市の井戸尻と諏訪上下四社を経巡ったのはもう7年ほども前のことである。
諏訪には「みしゃぐじ」という縄文的巨石祭祀と、風切り神事という奈良時代的祭祀と、そして上下春秋に分かれる稲作と蛇神祭祀の和合という複合的祭祀が同時存在する土地で、ある意味で縄文と弥生の列島における合体のパノラマのように奈良時代以後作られた巨大なテーマパークになっている。その多くは持統天皇時代の阿蘇氏風祝投入によって形成された記紀正当化のためのオブラートであろう。
問題は、それ以前の祭祀と、のちの四本の御柱の間にどのようなつながりがあるのか、ないのかである。筆者は御柱以外の諏訪祭祀はほぼ歴史的に把握してきたが、御柱の必然性だけはいまだに謎のままに放ってある。