ながらくお待たせしてしまい申し訳なく思う。
諏訪は遠い。しかも諏訪を知るには阿蘇と鹿島、さらに出雲、大和葛城、南九州、東北にもいかねばならないのだから。しかし面白い記事に仕上がったとは思う。存分にお楽しみいただきたい。面白かったら惜しみないナイス!を。
使う資料
植田文雄『古代の立柱祭祀』学生社 2008
須藤 護『木の文化の形成 日本の山野利用と木器の文化』未来社 2010
谷川健一『蛇 不死と再生の民俗』富山房 2012
民族学伝承ひろいあげ辞典 過去記事
など
諏訪大社御柱祭のキーポイント
1 3年かけて切り出したモミの大木を加工し、諏訪四社の四方にそれぞれ掘っ立てる立柱祭祀(りっちゅうさいし)儀式である(縄文の巨木はクリである。針葉樹はまだなかった可能性がある?)
1 3年かけて切り出したモミの大木を加工し、諏訪四社の四方にそれぞれ掘っ立てる立柱祭祀(りっちゅうさいし)儀式である(縄文の巨木はクリである。針葉樹はまだなかった可能性がある?)
2 これは道教における「四至(しいし)結界思想」であるが、巨大な柱を建てる儀式は古代から中世にかけて世界的に見られる。あのストーンヘンジでさえ、最近、もっと古い時代の木の柱の穴が発見され、そもそもはあれが巨木祭祀を起源とすることがわかっている。
また縄文の各地の巨木祭祀あとは、必ずと言ってもよいほど墓地の真横に作られ、それが墓地作成を責任者が眺める物見台(三内)であったり、死者を鎮撫するポール祭祀ではなかったかという意見が出始めている。
3 御柱は寅年、申年の七年おきの祭祀である。モミの苗は常に植えられ、選ばれた大木は三年かけて乾燥、皮剥ぎされる。皮をはいで作るのは世界的なもので、日本住居にもそれは伝わっている。
4 寅と申は五行で木と金を表しこれは金克木(きんこくもくの相乗)であり、双方は対峙する位置にあって、それぞれ方位で申は南西の鬼門、寅は北東の鬼門を意味する方位にある。
こうした中華の思想をもっとも古くに知っていたのは記録上天武天皇だけである。
もちろんこれは海人族も知っていただろう。
御柱はだから木に詳しい匠、建築の匠が道教伝来以後に開始する儀式と考えられる。だから御柱祭祀は縄文祭祀とは直接関係はないが、技術者であるそまはもともと縄文系の技術を会得したものであるはず。
5 諏訪大社は諏訪湖の四隅にあるわけではなく、下社春秋宮は諏訪湖北部に横並び、対して上社前・本宮は諏訪湖対岸ではなく少しはなれた八ヶ岳山ろくという縄文遺跡の他出する長大な扇状地の入り口付近に南北に横並んでいる。これはどうみても諏訪湖を取り囲むような位置関係にはない。上社は先住民への結界の位置にあって、下社は北側にあるので為政者側の神を祭ったか?
6主祭神は四社ともにタケミナカタ「トミ」の神と妃のヤサカ「トメ」の夫婦神となぜか出雲八重事代主である。夫婦神は双方ともに由来はほとんどわからない神で、記紀では母親不明だが、物部氏の史書であるという『先代旧事本紀』ではタケミナカタは出雲大国主と姫川のヒスイの化身とも言われる古志(高志)の沼河姫(ぬなかわひめ)とのあいだの子とされ、八重事代主とは兄弟神とされている。しかしこの神を祭る神社は諏訪大社以外にはわずかしかなく、その由来はおそらく宗像氏と関わるか、南方=南宮という別名もある諏訪大社から類推して物部氏の祖であったニギハヤヒ、あるいは海人族宗像氏や天武天皇と関わる海部、あるいは大海人氏の祭神ではないかとされている。
7下諏訪町には良質の赤鉄鉱鉱脈と同じく良質な黒曜石の露頭が存在する。
http://trekgeo.net/m/0ngn.htm
その名残は旅館にあって、筆者も宿泊した下諏訪町鉄鉱泉旅館の名に残される。
この赤鉄鉱は阿蘇の褐鉄鉱リモナイトと同様、簡易製鉄にも利用できる。阿蘇氏が何を求めて阿蘇・諏訪・鹿島に入ったかがこれであきらかになる。
8古代立柱祭祀には三つの時代がある
1 呪術としての縄文系立柱祭祀
2 制度としての弥生系立柱祭祀
3 宗教儀礼としての律令系立柱祭祀 (植田)
この中で諏訪の御柱を植田は明確に律令系としている。同意する。
長岡京遷都に際しての桓武の考えに「立、宝幢 ほうどう=旗もの」があり、遺跡で出ているが、延喜式などの絵図で見るとそれは四方、あるいは六方にバンを立てるものである。諏訪の御柱祭祀は桓武時代に今のような四方に結界を張る柱として登場した可能性が高い。また坂上田村麻呂の蝦夷征伐成功を諏訪に柱を立てて祈願した記事が『続日本紀』にある。つまり御柱には、縄文人蝦夷征伐したという勝利の意味もこめられているのである。
ただしこの祭祀のきっかけになった諏訪祭祀の四社鎮魂形態は、もっと前の天武・持統の諏訪遷都にあったと考える。
9タケミナカタは藤蔓を、洩矢は腕に鉄の金輪をはめて戦った
ではひとつひとつ解析していこう。
答えははっきり出てくる。
1・2四至結界思想は縄文の思想にない
縄文初期~後期にかけても巨木立柱祭祀のある遺跡一覧
植田文雄『古代の立柱祭祀』2008年より
ごらんのように縄文の巨木遺構のほとんどは円形に柱を立てている。例外は初期の三内丸山、群馬県月夜野の矢瀬遺跡の方形遺構のみである。
月夜野は縄文後期~晩期の遺跡で諏訪縄文遺跡群~富士山ろく~相模湾に並ぶ縄文中期~後期遺跡とは、木曽街道では往来可能な遺跡で関連が問われるが、三内丸山は遠隔の青森であり、時期的に1万年近くもかけ離れた時代のもので、関係があったとは思えない。また富山や石川のチカモリや桜町遺跡の半円形立柱との関係はむしろ飛騨方面に皇極天皇時代ごろに登場する飛騨匠との関与がより深く、諏訪周辺で縄文中期以後も以前も、諏訪御柱や縄文立柱遺跡はないことからも、御柱の祭祀と縄文巨木祭祀の間に、残念ながら関連性・継続性があったという証拠はまったく見つからなかった。
それよりも柱を建てる縄文遺跡は、陽物=男根と陰物の組み合わせを語る金正遺跡や、世界的にはインドの錆びない鉄柱・アイアン・ピラーや、タイ、バンコクのラク・ムアン鉄柱、ストーンヘンジ、アメリカインディアンのトーテムポールなどなどの古代祭祀の柱との関連、ひいてはその影響下に生まれたとも考えうる中国道教の神樹が、縄文後期までには実は東北縄文世界に届いていたからこその高木信仰という捉え方のほうが現実味がある。この可能性は、同時期に世界的に出土するケツジョウ耳飾や龍紋らしき縄文土器の絵柄から、谷川健一などは現実味があるとしている(『蛇 不死と再生の民俗』2012)。
デリー市のアイアンピラー
バンコクのラク・ムアン
また縄文の櫛は縦櫛で、今の横櫛とは違い髪をなでるよりも、髪に刺す髪飾りか、でなければノミ取りに便利なように長いが、ここに漆が使ってある。漆は中国の江南、長江河口部の河姆渡(かぼと)文化が最古で、双方の漆には共通性があるのだ。すでに縄文中期には、江南と日本海縄文人に交流があったことは間違いがない。ところが驚くことに島根県松江市の夫手(ふで)遺跡からは河姆渡出土の紀元前4300年からわずか500年後のものという漆塗りの櫛が出た。さらに驚くのは北海道函館市垣ノ島B遺跡のからは9000年前のものと炭素年代法がはじきだした漆製品が出ている!
さらに言うならば、稲作が来てからの九州菜畑から東北青森への伝播の早さの影に、実は九州南部の鹿児島にあった上野原縄文人との交通路がすでにあったことは、玄界灘~出雲を経由して古志、秋田、青森・南北海道の共通する土器様式が存在することと大いに関係があった可能性すら考古学では証明可能なのである。
さらにさらに、植田文雄は四方に柱を建てる墳墓祭祀は、むしろ弥生時代の北部九州に集中するのだとしている。その形態は日本海で出雲に影響与え、そこから四隅突出型墳丘墓が登場するのではないかとも思える。出雲には隼人がいたことも記録がある。
3申と寅年の祭祀
このあきらかに五行思想にのっとった式年祭祀は、結論をいってしまえば、『日本書紀』天武天皇壬申紀の記事にある「諏訪遷都」との関係を匂わせるものだと筆者は考える。
このあきらかに五行思想にのっとった式年祭祀は、結論をいってしまえば、『日本書紀』天武天皇壬申紀の記事にある「諏訪遷都」との関係を匂わせるものだと筆者は考える。
天武壬申の乱前後の申年、寅年関連記事は飛鳥寺造営時期にあたる孝徳~皇極の年代の百済からの建築博士贈呈記事、及び直後の飛鳥における飛騨の蝦夷饗応記事から推測できるペルシア人寺院建築技術と飛騨の匠となる以前の飛騨縄文人杣(そま)=きこりたちの情報の交換会である可能性を匂わせていて、飛鳥寺が百済様式で造営され、その木材に飛騨の材木と工人が使われた可能性が非常に高いことを示すのである。また甲賀の著名な杣としては飛騨の匠を使った 石山寺建立のさいの甲賀杣がある。 彼らの管理は佐伯氏が受け持っていた。このように古代の中央の寺社造営に飛騨や甲賀の縄文系匠が関与したことは明白である。
壬寅(642年2月19日 (皇極天皇元年1月15日)) - 宝皇后が即位し、第35代天皇・皇極天皇となる。蘇我入鹿、自ら国政を執る。
壬申(672年1月9日(天智天皇10年12月5日)) - 大友皇子が即位し、第39代天皇・弘文天皇となる
7月22日(天武天皇元年6月22日) - 大海人皇子、村国男依・君手らを美濃の多品治のもとへ遣わし武器の調達を命令
7月24日(天武天皇元年6月24日) - 大海人皇子、挙兵し吉野を出立。大分君恵尺らを留守司・高坂王のもとへ遣わし駅鈴を求める。また恵尺を近江の高市皇子・大津皇子のもとへ派遣、都を出て大海人皇子と合流させるよう命じる
7月26日(天武天皇元年6月26日) - 大海人皇子、朝明郡迹太川(とほがわ)の辺で天照大神を望拝
8月 - 壬申の乱
8月21日(天武天皇元年7月23日) - 大友皇子(弘文天皇)、長等山の山前にて縊死
10月8日(天武天皇元年9月12日) - 大海人皇子、飛鳥へ凱旋
7月22日(天武天皇元年6月22日) - 大海人皇子、村国男依・君手らを美濃の多品治のもとへ遣わし武器の調達を命令
7月24日(天武天皇元年6月24日) - 大海人皇子、挙兵し吉野を出立。大分君恵尺らを留守司・高坂王のもとへ遣わし駅鈴を求める。また恵尺を近江の高市皇子・大津皇子のもとへ派遣、都を出て大海人皇子と合流させるよう命じる
7月26日(天武天皇元年6月26日) - 大海人皇子、朝明郡迹太川(とほがわ)の辺で天照大神を望拝
8月 - 壬申の乱
8月21日(天武天皇元年7月23日) - 大友皇子(弘文天皇)、長等山の山前にて縊死
10月8日(天武天皇元年9月12日) - 大海人皇子、飛鳥へ凱旋
庚寅(690年2月14日(持統天皇4年1月1日)) - 天武天皇の崩御後、称制していた鸕野皇女が即位して、正式に第41代天皇・持統天皇となる
さあ、何か感じないか?
ちなみに壬申の「壬」はみずのえでみずち=蛇・竜である。
『日本書紀』は干支を重視する中国的史書であるので、これらの年が実際の年であるかどうかには疑問もあるが、いかに天武以前が作為に満ちているとは言えども、『日本書紀』成立のわずか百年前のことまでは造作するはずはないだろう(いや目に見えない部分での造作はあるのだが)。
天武と持統が諏訪遷都を計画したことをなぜ『日本書紀』が暴露してあるかについては、なんらかの為政者の意図があるはずである。それを裏付けるのが「タケミナカタが出雲からタケミカヅチに”両腕をもがれて”追われて」諏訪に入り、在地縄文神だろう洩矢神と対峙したという記事と、出雲にはもともと四至祭祀があっただろうことを連想させる四隅突出型墳丘墓があることが深く関係してくる気がする。両腕をもがれたタケミナカタは蛇になったということになる。いや持統女帝すら実はアマテラスよりも蛇神信仰を持っていたかも知れないのだ。
つまりタケミナカタを出雲の兄弟神であるとしながら、実はこの神は出雲在来の神ではなく南方から来た海人族の神=はっきりと言うならば宗像氏(スサノヲの三女神を祭神とする)の大和からの流懺(るざん)と考えてみる手法こそが諏訪祭祀を明快に理解するには最良の方法ではないかと筆者は考えるのである。宗像氏は天武天皇に妃を出すことで徳善が時の実力者となるが、その後宗像氏はめっきりと史書には登場せず、その頃から沖ノ島での太陽神アマテラス祭祀に専念するようになったわけである。そのとき、飛鳥宮中で台頭してきたのは藤原不比等その人だった。宗像氏は藤原氏摂関の時代の中で単なる祭祀者として生き残るしかなくなっていったのではないか?その背後の時代、宮中祭祀に登場したのは、伊勢神宮による太陽女神祭祀であり、女帝の時代だったのである。(ひょっとすると持統以下の女帝たち、もしやアマテラスのことすら知らなかった可能性もある。不比等が勝手に伊勢に祭らせたか?)
とするなら、天武死後、彼が欲した海人系支配による政治体系は、不比等と天智の娘持統以下の女帝によって寸断されたわけであり、女帝正当性のために作られた女神アマテラス信仰の犠牲となったのが諏訪の宗像氏そのものをさすタケミナカタではなかったか?
持統五年八月、『日本書紀』は女帝が阿蘇氏風祝を龍田に送り込んで大風鎮撫の祭祀をさせたことが書かれている。同時に諏訪と九州阿蘇にも阿蘇国造家氏が登場する。そして熊本の阿蘇氏と信州の諏訪氏は同じ神八井耳の子孫である多氏出身であろうとされる。しかし阿蘇神社の阿蘇氏系譜は、あきらかに多氏・神八井耳(カムヤイミミ)系譜とはやや離れたその子孫タケイワタツ命であるとしてあり、阿蘇神宮祭神も12~4もの熊本各地の氏族の産土神=祖神が配置しされ、それらが阿蘇国造家氏によって支配下に置かれていったことを思わせる系譜となっている。
さらに三輪信仰のうち「苧環型 おだまき・がた」と言われる大蛇による異種神婚譚(蛇の化身が女の家に通ってあとをつけると大蛇だった)と、その主人公である三輪氏系譜にはないはずの大神大太惟基(おおがのだいたこれもと、あかがりだいた)その子孫緒方三郎惟方の名前が付随してくる。ダイタとは大蛇のことで、大分県・宮崎県県境のある村に彼らを祭る神社が点在する。そしてこの「惟」の諡号を阿蘇大宮司家は代々引き継いでいるのである。阿蘇氏=多氏ではなくて実は豊後大野郡の大神氏なのだ。
また伝説を集めた柳田國男は、豊後大野郡と諏訪に共通して炭焼き伝説があることを書いている。これらはあきらかに鉱物採集氏族伝承であり、その大神氏がもとは宇佐神宮の鍛冶神祭祀=比売神を持ち込む大本であることも面白い。大分には蝦夷俘囚が持ち込んだ豊後鍛冶が国東に存在した。豊後行平鍛冶である。彼の本名は紀新大夫行平で、紀氏出身と自称した。しかしこれは国東の岐部であり、木部だから紀氏の部となった蝦夷鍛冶であろう。これに関連する祭が岐部地区に残る謎の火祭りである「けべす」であることはまず間違いない。
一方、諏訪には『諏方大明神画詞(すわだいみょうじんえことば)』があり、甲賀三郎諏方という、これまた大蛇に変身した異人や、苧環伝承を持つ泉小太郎という奇妙な竜神をあやつる異人が登場。三輪氏との関連を思わせながら、実は彼らのすべてにはかぎりなく縄文的な、大物主的な色合いを持たせてあるのである。
するとタケミナカタの後ろに「トミ」がつく理由が見えてくる。「トミ」は刀美とかくが、それはニギハヤヒの舅だった「とみのながすねひこ」と同様、蛇を意味する「とび」であろうことに気づかされる。だから彼は蛇身になるのだ。
蛇については諏訪湖周辺にある茅野市の尖り石遺跡などから頭に蛇を置く巫女の遺物がたくさん出る。縄文の巫女たちも蛇を頭に置いたのだろう。
縄文のビーナス
また仮面祭祀の土偶仮面のビーナスもここの遺物だが、中国江南にも毒蛇による選別祭祀があり、沖縄の巫女もハブを持たせて邪心なき新人巫女候補を選別する祭祀があるし、『隋書倭国伝』では推古女帝?がやはり毒蛇で占う記事が載っている。沖縄のハブは本土の美濃・尾張などでも「はふ」=毒蛇として書かれていて、かまれたら邪心があり、かまれねば清廉で潔白となった。これはエジプトのクレオパトラもそうして死んでいる。またギリシア神話やペルシアのシンドバッド神話でも、頭が蛇のゴーゴンなる魔女が出てきて、見たものは石になるとされるが、これは反面選別であるが、反面では石になる=永遠の命を手にする=死でもあるだろう。武内宿祢はくつを脱いで消えるが、靴を脱ぐ、脱皮は「尸解仙 しかいせん」で再生を意味する。韓国の延烏郎も靴を置いて磯の岩礁に乗って消える。だから毒蛇も再生の象徴でおめでたいものとされた。その形状は柱、男根である。
また谷川健一は尖り石その他の中期縄文土器に見られる不思議な浮遊動物が、中国のトウテツ紋に見られる原始の龍の記号化に類似するとしている。
さて、諏訪の神長官守矢氏は、現在女性である早苗氏が神長を勤めておられるが、その素性は本当に系図のとおりの諏訪茅野市一帯に蕃居していた縄文の神・洩矢の直系なのか?という疑問に突き当たる。神長がもし阿蘇氏後裔の神(じん)氏や、あるいは諏訪氏や金刺氏の血脈であるなら、熊本の阿蘇神宮同様に、在地の信仰を取り込み、その系譜に自らを溶け込ませることで、在地勢力の祖神たちを配下にしていったはずなのである。すると神長官は?となる。神長が管理する諏訪の祭祀は御柱とは無関連で、主体は薙鎌神事と言う風を寸断する金克木の神事と、御頭祭という千鹿(ちかが)犠牲祭祀なのである。それが金克木による結界神事と、かなり古いだろう動物犠牲つまりニエの祭祀、犠牲の祭祀であるということは、あきらかに災害神封じが阿蘇氏の最重要な役目だったことになる。同じように阿蘇国造神社では阿蘇氏は地震の神である鯰を祭り、阿蘇山噴火と火山性地震を鎮撫している。
この祭祀はそのまま関東の茨城にある鹿島神宮でのタケミカヅチによる鯰退治として江戸時代に登場。それ以前は実は茨城の地震封じの神は建貸間(鹿島)命という阿蘇・佐賀の杵島岳の神だったのである。つまり阿蘇・諏訪・鹿島のいずれにも阿蘇氏は関わったが、その指示は持統・・・いやその背後にいたであろう藤原不比等による天武血脈封じ込め、縄文蝦夷の南下食い止め、遷都計画打倒、代わりに諏訪には四つの宮を建てることで『日本書紀』天武の記事を事実化しつつもうそであることが丸見えになってくるのだ。
そもそも持統女帝正統化にはアマテラスさえあればよかったはずだ。しかし藤原不比等は天武と持統夫婦が当時乱れ始めていた大陸事情と天智白村江敗北と新羅統一によって列島に危機感が漂い、諏訪遷都を計画したとして、形だけは諏訪に大社を置くことで、そのにおいをつけておき、祭祀としては夫婦道祖神などに代表される陰陽の思想によって、縄文先住民への結界を張る。寅と申の組み合わせはよい面で夫婦・兄弟を示すものである。しかしその本位は金克木=朝廷の鉄の簒奪(洩矢は腕に鉄の金輪をはめていた)を画策し、神社造営のためには飛騨の匠を管理していただろう岐阜の海人族・三野(美濃)氏を派遣。木曽一帯を管理搾取するために木曽街道の前身を尾張から造営し、奥地だった諏訪・信州を高句麗系や新羅系の勝手な渡来進入、安曇族や出雲族、あるいは蝦夷たちを食い止めるための仮宮ともしたのではなかったか?
つまり諏訪は四方から侵入してくる日本海、東国の侵入者・闖入者のための結界=監視所とする要衝だったのであろう。タケミナカタは藤の枝を持って洩矢を屈服させる。藤の枝とはなにか?藤原氏の鉄剣か?または藤・蔓のつるが、往古から魔よけ、蛇よけの巫術道具だったためか?縄文である洩矢はなぜ金輪をしていたか?鉄がそこにあるからであろう。事実、信州には赤鉄鉱の鉱脈があったとする仮説が存在する。
また八重事代主=海蛇の神だろう・・・はなぜ諏訪に祭られたのか?大和では事代主を祭るのは葛城の高鴨大神であるアジスキタカヒコネの役目である。事代主の子孫にはなぜ鹿児島霧島の神である吾田片隅命後という子孫があるのか?
事代主命
【古事記】 郷めぐり『宗像、筑豊、豊前』
・ 大国主命が胸形の奥津宮の多紀理毘売命を娶して生める子、阿遅鉏高日子根神(迦毛大御神)と妹高比賣命(下光比賣命)
・ 大国主命、神屋楯比賣命を娶して生める子、事代主神
【旧事本記】
・ 大己貴(おおむなち)命が胸形の奥津宮の多紀理毘売命を娶して生める子、阿遅鉏高日子根神(迦毛大御神)と妹高比賣命(下光比賣命)、大己貴(おおむなち)命が胸形の辺津宮の高(津)降姫神を娶して生める子、都味歯八重事代主神と妹高照光姫大神命。 孫都味歯八重事代主神、八尋熊鰐になりて、三島溝杭女活玉依姫のもとに通って・・云々。
・ 三世孫天日方奇日方命、四世孫健飯勝命、五代孫健甕尻命、六世孫豊御毛主命、七世孫大御気主命、八世孫阿田賀田須命 和邇君等祖 云々。十一世孫大鴨積命、磯城瑞籬宮(祟神朝)御世賜加茂君姓。次、大友主命同朝御世賜大神姓。
【姓氏録】
・ 右京神別宗形朝臣大神朝臣同祖吾田片隅命後也
・ 河内国神別宗形君大国主命六世孫吾田片隅命後也
http://www.sysken.or.jp/Ushijima/Den-kamigami.html#大国主
http://www.sysken.or.jp/Ushijima/Den-kamigami.html#大国主
宗像朝臣は吾田片隅命後であるとある。
アタは阿多である。阿多隼人である。
つまり宗像、タケミナカタとは南方の霧島から北部九州・出雲に来た海人族隼人であることになるではないか?
アタは阿多である。阿多隼人である。
つまり宗像、タケミナカタとは南方の霧島から北部九州・出雲に来た海人族隼人であることになるではないか?
このことは南九州が古くから半島や江南とつながり、最古の縄文遺跡である鹿児島の上野原遺跡の縄文人の子孫だったことすら思わせてしまうのである。彼らは姶良カルデラの大噴火で絶滅したのではなかったのである。いち早く北部九州玄界灘へと移動して在地安住族や南島の久米族や琉球民族らを手下にして出雲に拡大し、アジスキタカヒコネという鴨氏と変身したのであろうか?実は諏訪にはアジスキタカヒコネを祭る神社が存在する。『谷川健一著作集Ⅰ』「不死と再生の象徴(蛇)」に、「洩矢神の三代目の神を祀る千鹿頭神社が信州、関東、福島などにひろく分布している。この千鹿頭神社をたんねんに調べた今井野菊氏によると、千鹿頭が訛って都々古別(つつこわけ)となっている神社がかなりまじっており、その祭神はアジスキタカヒコネとなっている場合が少なくない。アジスキタカヒコネが蛇体の神であり、「ツツ」(筒)ということばが、古語で蛇を意味する以上、守矢という諏訪の専従勢力の奉斎する神はおそらく蛇神であったろうと私は想像する。縄文中期の蛇の装飾土器を思い出すものにとっては、こうした類推はきわめて自然な道すじと考えられる。」とある。
千鹿頭神社
http://kamnavi.jp/en/sinano/tikato.htm
ここでアジスキタカヒコネは蛇身とされており、大三輪やタケミナカタも蛇である。
すると諏訪湖の縄文遺跡からも、蛇を頭に乗せた巫女の土偶や、骸骨のような形の高炉土器があったことに気付くのである。
http://kamnavi.jp/en/sinano/tikato.htm
ここでアジスキタカヒコネは蛇身とされており、大三輪やタケミナカタも蛇である。
すると諏訪湖の縄文遺跡からも、蛇を頭に乗せた巫女の土偶や、骸骨のような形の高炉土器があったことに気付くのである。
また武田信玄が寄進した記録には諏訪の南宮にタケミナカタうんぬん」とあり、南宮が諏訪大社の別称だったことがわかるのだが、一般に「南宮」といえば岐阜県美濃一宮の南宮大社であり、ここの神は金山彦で鉱物神であるが、実際には海人族の神である天照国照彦 火明櫛玉饒速日命だとも言う。九州福岡の修験の山・英彦(ひこ)山山中に南宮社があるが、ここはニギハヤヒを祭ってある。渡来人と海人に関係する神である。京都府宮津の海部氏が祭る籠神社がこれでホアカリ=帆明だろうである。岐阜といえば天武の騎馬隊長の多品治が思い出されるが、彼らは多氏である。
守矢と守屋
さて、洩矢神の子孫であるはずの神長家の苗字はなぜ守矢(もりや)なのだろうか?なぜ字のとおりに「もれや」ではないのか?なぜ限りなく物部氏の頭領に似た文字を用いたのか?鹿島のそばには物部氏を藤原氏が鎮撫したという香取神宮があり、鉄剣をかたしろとして祭ってある。物部氏と神長守矢氏にはなにかの関係があるのか?それはニギハヤヒとアメノホアカリが深く諏訪で関わることから、阿蘇氏、多氏、物部氏、尾張氏、阿多隼人氏、宗像氏、鴨氏、葛城氏、和邇氏と小野氏らの古い連合体が実は滅びた伽耶から存在した天皇以前の王国の存在すら考えさせてしまうことだろう。
想像をたくましゅうするならば、彼らは1世紀までに縄文蝦夷や鹿児島縄文人、はては奄美大島、琉球とも船で取引をしておったかも知れないのである。つまり諏訪御柱祭祀は、様式は確かに律令祭祀立柱であっても、そこにいた縄文人たちをすでに知っており、交流し、彼らが巨木を立てる風習を持つことを知っていて、御柱による結界を持ち込んだ・・・と考えられる節があるだろう。
次回に続く。