その1では諏訪大社御柱祭の四本柱祭祀形態は中国の四至結界思想であるので、その始まりは縄文というよりも弥生~古墳時代にあるのではないか?との推定をしておいた。
なぜなら縄文の巨木柱構造物のほとんどは「野生の思想」の表示である円形立柱なのであり、方形立柱が登場するのは九州と出雲の遺跡に最も多いのだとしておいた。
また諏訪大社祭神のタケミナカタトミの神は、南方=九州由来の宗像氏のことではないかともしておいた。
ではその御柱の四本柱による結界思想が見られる弥生~古墳時代の墳墓における立柱祭祀遺構のある遺跡を一覧にしてみよう。
弥生墳丘墓の立柱遺跡
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そのほとんどが福岡県の玄界灘沿岸に集中し、さらに出雲最大の四隅突出型墳丘墓である西谷3号墳があり、あとは京都日本海側にのみ見られる。とすると墳墓の前や上部に柱を立てた人々は海の氏族であることは間違いないだろうことが見えてくる。
中でも、四本の柱を墓の四方に立てたのは出雲の西谷3号墳と京都府峰山町の赤坂今井墳丘墓だけである。福岡の柱は単基つまり一本が多い。有明海側ではあの吉野ヶ里遺跡の復元遺構にも現在一本柱が現在立てられている。これはかつて吉野ヶ里を訪問した人ではおそらく知らない遺構になるだろう。最近立てられた。その理由はほかの福岡の遺跡でたくさんの柱穴が発見されたからである。遺跡公園も、日進月歩で変化する。つい見落としがちになる。
西谷の四隅突出型墳丘墓そのものが最初から四至結界思想か、四隅での祖霊祭祀をしていたことはよく言われることである。そしてその四隅突出型墳丘墓のルーツは福岡の平原遺跡の方形周溝墓だったのではないか?平原にも実は四隅突出あるいは四隅に柱を建てたのではないかと、以前筆者は書いたことがある。だが平原の柱は確かにあったが、すべて一本であった。
いずれにせよ、弥生時代末期までに、墳墓に柱を建てていたのは九州と出雲と丹後地域だけなのである。
古墳時代
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古墳時代になると四本柱は熊本と奈良に登場する。
熊本市の水源地2号はまだしかし周溝墓で、福岡の弥生立柱の延長線上で、飛び地的なもの。しかし奈良県天理市の小墓はれっきとした古墳で、墳丘の袖部に並んでいた。古墳時代後期の墓でまず物部氏の墓だろうと考えられている。
すると物部氏と九州の宗像氏にはなんらかの同族関係があったのかと考えたくなる。
それはまたいずれ書くこともあろうが、まず宗像氏の『筑前国風土記』における、風の巫女だった「かぜこ」のことが思い出され、また往古、巫女、霊能者の蔑称として江戸時代に「イチ」という言葉があったことが気になった。
「イチ」はいわゆる中世~近世の「歩き巫女」など被差別民の蔑称だったらしいが、語源が明確でない。ただ、筒井功は卑弥呼もおそらくイチだったのではないか?と書いている。そして被差別の言葉が両面性を常に持ち、蔑称と尊称が裏表であることを植田は論破している。江戸期に卑しい巫女や阿弥などをさしていた言葉も、往古は実は聖なるモノの尊称であって、それは彼らがもともとは力ある氏族のものだったのが、権力者に敗北したことで言葉もまた卑下したものへと反転してしまうということである。
そのイチのつく女神といえば宗像氏が祭る「イチキ島比売」が思い出される。
この「イチキ」は一般的に「島々にイツク神」=巌く島姫だと考えられているが、もしや巫女神としてのイチであったかも知れない。
次は古墳時代の4~5世紀に特に九州で隆盛した横穴古墳群での立柱遺構
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横穴墓は墳丘ではなく、段丘などの絶壁に穴をうがち、ずらりと時代を追って横並びに作られた、おそらく古墳被葬者よりもやや身分が低い、「人」「部」クラスの墓か、あるいは工人・職能の部たちの実力者の墓だろうとされるが、これまでそこに柱を建てる祭祀場がそえられていたことは筆者も知らなかった。
特に熊本のつつじヶ丘のものは横穴墓としても非常に特殊で、ひとつの入り口奥は複数に分かれた羨道を持ち、内部に複数の玄室を持っている。枝分かれ型横穴墓である。
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前庭部にいくつもの小柱を建てられていたようだ。
さて、柱を墓に造るのは、当然祭祀のためだろう。
あるいはここから石人のような石造物を立てる僻邪、魔よけの風習が始まったかも知れない。往古は木造そして石造へと変化し、両腕を広げて立ちふさがった石人へ進化したり、あるいは靫 =弓矢や盾へと進化したか?
このように墓に柱を建てる祭祀様式は、あきらかに北部九州の弥生時代に始まり、出雲、丹後へ日本海で広がる。その拡大の主はおそらく玄界灘の海人族だろう。そして前回書いたように、その大元が半島の伽耶か、あるいはもっと古くは南九州の隼人にあったものである可能性はある。
魏志は伽耶のことをおそらく「韓は帯方郡の南にあって、南は倭と接する」「倭の北岸」と記録したのであり、伽耶を倭国である、ないしは伽耶の中に倭国(例えば『日本書紀』の言う日本府)があるのだと考えたに相違ない。
『山海経』でも「蓋国在鉅燕南倭北倭」とあって、南は倭と接していると考えている。
つまり当時の中国から見て、伽耶領域はほぼ倭国であると考えていたのではないか?
それが同じ東夷伝中にあるということは、「倭人伝」とは半島南部が倭国で、日本列島はその倭国の「別種」(『旧唐書』)という認識だったのでないか?それで魏志は倭人伝には半島の倭国のことは書かず、あくまで倭人=日本人伝として、韓伝の倭国と分けたのだろう。しかし、それはおそらく葛城氏系が支配した独立国としての倭国のことである。
さて、北部九州のおそらく宗像海人族らの祭祀形態だった立柱祭祀は、古墳時代になっておそらく物部氏たちによって奈良に持ち込まれるわけである。とすれば、そもそも伽耶においては、物部氏や海部氏も葛城氏、紀氏らとの海のつながりを持った「倭国氏族」なのだろうし、やがて雄略や蘇我氏によって彼らが敗北旧王家となってしまう流れは、非常にわかりやすくなる。
伽耶の鉄を思うさまに利用してきた伽耶の葛城系王家は、やがて列島の新勢力によって力を落とし=両腕をもがれてゆく。その中に宗像氏の前身もいたということかも知れない。天武は彼らを国政に復活させようとした。その海人系勢力にはほかにのちの凡海部氏もあっただろう。おそらく「おほしあま」とは九州の多氏だろうと思う。
そうした悲劇の氏族の荒ぶる御魂が諏訪湖で祭られたのかもしれない。
次回は、地形で見た縄文の龍は富士山麓から諏訪湖までつづく。
お楽しみに。
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縄文人は心の中で自分たちが住まう範囲を龍として描いたか?!
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