倭人伝研究の大前提2
1、まずは漢文が読み下せるだけの基礎知識を学んでいる必要がある。でないと「汝好物」などをそのまま「汝の好きな物」と読んでみたり、「卑弥呼以死」を「そのとき卑弥呼が死んだ」と考えてしまう。前者は「汝によきものを」であり後者は「この狗奴国との戦いを以って卑弥呼は死んだ」である。
1、まずは漢文が読み下せるだけの基礎知識を学んでいる必要がある。でないと「汝好物」などをそのまま「汝の好きな物」と読んでみたり、「卑弥呼以死」を「そのとき卑弥呼が死んだ」と考えてしまう。前者は「汝によきものを」であり後者は「この狗奴国との戦いを以って卑弥呼は死んだ」である。
2、倭人、倭、倭国についてそれぞれその意味を理解しておく。
中国史書ではある時期、倭人とは日本人に限らず江南海人族や雲南あたりの長江人だと思われるケースもあり、倭人・倭とは、広くは東アジアの倭種民族総称であるとまずは考えておきたい。倭国は日本であるが、範囲は錯綜している。魏志倭人伝では狗邪韓国を倭の北岸であったとしてあり、この場合の倭はそこから対岸の北部九州までと、その遠い東にあるという倭種の国々まで含んでいる。倭の東のはじっこはおそらく近畿までで、それより東は東海地方であろう。これも倭種だとしている。日本の古墳、墳丘墓の様式で考えると、「土を盛って大いに作ったツカ」とは北部九州の博多より東に多い土壇墓か方形周溝墓、日本海なら四隅突出型墳丘墓であり、吉備ならば盾築型、あるいは近畿ならば前方後円型(纒向型)墳墓であろう。遠隔だとされた東の東海地方ならば前方後方墳であるか?
ただし何人もの殉教者が本当にいたのなら、上記墳丘の周囲には彼らの墓も存在すべきで、これは九州と近畿がそれに相当する陪塚や小周溝墓を持っている。
3 倭に関する中国の記録は、これをすべて目を通しておくべきであろう。
便利なことに、鳥越憲三郎が中央公論社から『中国正史 倭人・倭国伝全釈』を2004年に著している。ここには「漢書」地理誌、「後漢書」、「三国志」、「晋書」「宋書」「南斉書」「梁書」「北史」「南史」「旧唐書」のすべての倭伝についての紹介と解説が掲載され、順を追っている。ただし鳥越は邪馬台国・女王国を大和であると考えているのであしからず。
便利なことに、鳥越憲三郎が中央公論社から『中国正史 倭人・倭国伝全釈』を2004年に著している。ここには「漢書」地理誌、「後漢書」、「三国志」、「晋書」「宋書」「南斉書」「梁書」「北史」「南史」「旧唐書」のすべての倭伝についての紹介と解説が掲載され、順を追っている。ただし鳥越は邪馬台国・女王国を大和であると考えているのであしからず。
これ以外では考古学資料の倭人字磚
がある。曹操の先祖の墓に使われたレンガに刻まれた「倭人有り。時を以って盟することあるや否や」という刻文である。つまり曹操は倭人の助けを待って赤壁の戦いに臨んだかも知れないのだ。
呉は倭・公孫氏北魏・高句麗・あるいは百済とも手を結ぼうとしており、曹操にとって筑紫ではない「もうひとつの倭」との挟撃同盟を欲していたのである。その証拠は山梨県や兵庫県で出た呉紀年の「赤烏」紀年入りの鏡である。また京都などで出た魏の景初四年紀年入り斜縁鏡というヒントもある。画紋帯神獣鏡や黒塚古墳のU字型鉄製品などの巨大なヒント遺物もある。
また北部九州も一元的邪馬台国同盟ではなかった。だから大乱は起きたのだ。博多の東西で、すでに縄文後期~弥生中期の渡来時期から墓が違う。そして東側の人々と西側の人々は遺伝子も稲作様式も土器も違い、東側の人々は早々に北日本へ移動しているのである。
そして大乱が大和と筑紫の対立で起きたのなら、弥生の戦争遺跡は玄界灘西部~日本海沿岸にしか出ない。大和には古い漢鏡同様、戦争遺跡がないのだ。そして2世紀後半には筑紫は衰退し、大和に大前方後円墳と大きな神獣鏡が山のようにあふれるようになる。これは3世紀前半の大変換が列島に起きたということなのである。それは古墳と言う一大ヒエラルキーの産物が象徴する。
つまり邪馬台国は西から東へあるとき大移動したか、あるいはまったく別の文化が半島から出雲そして吉備へと入って大和へ向かったかの両方がありえる。さらに纒向ではなぜか異文化世界のはずの東海地方から多くの土器が搬入されている。新しい邪馬台国がここで始まったのか?
4 日本の大王の誕生の経緯を縄文時代からすべて把握し、時代による違いを自分なりに考えておく。これも便利な本として中田興吉の『大王の誕生』学生社2008年がある。これも畿内説だが、九州の重要な女王の墓についてもちゃんと言及がある。
5 過去の邪馬台国論は邪馬台国論史としてちゃんと理解し、どの説にも敬意を表する気持ちで30冊ばかりは読んでおいていただきたい。新井白石・本居宣長はもとより現代の考古学から、民族学から、環境学・天文学・遺伝子学などなどからのアプローチがあり、それぞれが大切なヒントを孕んでいる。もちろん間違いもあったり、賛否両論の説、両刃の剣となってしまう落とし穴論もあるだろう。それらを通読して、どれのどこがおかしく、どこがなるほど!だったかを頭の中で整理していくことが必要。読書はいいといわれるものだけ読んでは駄目で、とんでもないとっぴだとか、駄目だといわれるものまで読んでみることだ。ただし感化されてはいけない。ミイラ取りはミイラになってはなるまい。
6 日本人の死生観、祟り信仰、後戸観念、呪などアンチ蘇生、アンチ輪廻思想も知っておくほうが便利。
7 考古学では石野博信『纏向遺跡』『邪馬台国とは何か』、九州全体の考古学が必要です。
8 これらを全部あわせて「古代学」だ。
では、まずは百衲本『三国志』魏志倭人伝を原文・訳文すべてここに掲載しておく。
『三国志』「魏書」第三十巻 烏丸鮮卑東夷伝 倭人条(通称「魏志・倭人伝」)
百衲本三国志記載人名・地名の表記にそのまま従った。原本では壹は臺、一大は壱支だったかと思われる。
百衲本三国志記載人名・地名の表記にそのまま従った。原本では壹は臺、一大は壱支だったかと思われる。
倭人在帶方東南大海之中、依山島爲國邑。
倭人は、帯方郡の東南大海の中に居り、山や島々を国やムラにしている。
舊百餘國、漢時、有朝見者。今使譯所通三十國
むかしは百を超える国があった。漢の時代に朝見してきた国があり、いま中国の言葉が通じて交流があるところは三十ヶ国である。
むかしは百を超える国があった。漢の時代に朝見してきた国があり、いま中国の言葉が通じて交流があるところは三十ヶ国である。
從郡至倭、循海岸、水行歴韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國。七千餘里。
帯方郡から倭に行くには、海岸に沿って航行し、韓国を経由して、あるときは南に、あるときは東にすすんで、その北岸の「狗邪韓国」に到着する。その行程距離は約七千里である。
帯方郡から倭に行くには、海岸に沿って航行し、韓国を経由して、あるときは南に、あるときは東にすすんで、その北岸の「狗邪韓国」に到着する。その行程距離は約七千里である。
始度一海、千餘里至對海國。其大官曰卑狗、副曰卑奴毋離。所居絶島、方可四百餘里。土地山險多深林道路、如禽鹿徑。有千餘戸。無良田、食海物自活、乗船南北市糴。
そこからはじめて海を渡ること千余里で「対馬国」に至る。その大官は「卑狗」といい、副は「卑奴母離」という。住んでいるところは四方四百里あまりの広さの孤島である。その土地は山が険しく、深い林が多く、道路はけもの道のごとくである。千余戸がある。良い田が無く、海産物を食べて自活し、船に乗って南北と交易している。
又南渡一海千餘里、名曰瀚海至、一大國。官亦曰卑狗、副曰卑奴毋離。方可三百里。多竹木叢林。有三千許家、差有田地耕田、猶不足食亦南北市糴。
つぎに南に千里あまり、「瀚海」という名の海を渡り、「壱岐国」に到着する。ここの官もまた「卑狗」といい、副は「卑奴母離」という。四方三百里ほどである。竹や木の叢林が多い。三千ばかりの家がある。田地は少々あるが、田を耕すだけでは食料が不足するので、南北と交易している。
つぎに南に千里あまり、「瀚海」という名の海を渡り、「壱岐国」に到着する。ここの官もまた「卑狗」といい、副は「卑奴母離」という。四方三百里ほどである。竹や木の叢林が多い。三千ばかりの家がある。田地は少々あるが、田を耕すだけでは食料が不足するので、南北と交易している。
又渡一海千餘里、至末盧國。有四千餘戸、濱山海居。草木茂盛、行不見前人。好捕魚鰒、水無深淺、皆沈没取之。
また海を千余里渡って、「末盧国」に到着する。四千戸あまりある。人々は浜と山海に暮らしている。草木が繁っていて、道を歩くと前が見えないほどだ。人々は魚やあわびを捕えることを好み、水の深い浅いに関係なく潜ってそれらを取っている。
また海を千余里渡って、「末盧国」に到着する。四千戸あまりある。人々は浜と山海に暮らしている。草木が繁っていて、道を歩くと前が見えないほどだ。人々は魚やあわびを捕えることを好み、水の深い浅いに関係なく潜ってそれらを取っている。
東南陸行五百里、到伊都國。官曰爾支、副曰泄謨觚、柄渠觚。有千餘戸。世有王、皆統屬女王國。郡使往來常所駐。
東南に陸を五百里いくと、「伊都国」に到着する。官は「爾支」といい、副を「泄謨觚」「柄渠觚」という。千戸あまりである。代々国王がいて、みな女王国に統属している。ここは帯方郡の使者が往来する時には、常に駐まるところである。
東南に陸を五百里いくと、「伊都国」に到着する。官は「爾支」といい、副を「泄謨觚」「柄渠觚」という。千戸あまりである。代々国王がいて、みな女王国に統属している。ここは帯方郡の使者が往来する時には、常に駐まるところである。
東南至奴國、百里。官曰兕馬觚、副曰卑奴毋離。有二萬餘戸。
東南にいくと「奴国」まで百里である。官は「兕馬觚」といい、副は「卑奴毋離」という。二万余戸である。
東南にいくと「奴国」まで百里である。官は「兕馬觚」といい、副は「卑奴毋離」という。二万余戸である。
東行至不彌國百里。官曰多模、副曰卑奴毋離。有千餘家。
東にいくと「不彌國」まで百里である。官を「多模」といい、副は「卑奴毋離」という。千余戸である。
東にいくと「不彌國」まで百里である。官を「多模」といい、副は「卑奴毋離」という。千余戸である。
南至投馬國。水行二十日。官曰彌彌、副曰彌彌那利。可五萬餘戸。
南へ水行二十日で「投馬国」に至る。官は「彌彌」、副は「彌彌那利」という。五万余戸。
南へ水行二十日で「投馬国」に至る。官は「彌彌」、副は「彌彌那利」という。五万余戸。
南至邪馬壹國。女王之所都。水行十日陸行一月。官有伊支馬、次曰彌馬升、次曰彌馬獲支、次曰奴佳鞮。可七萬餘戸。
南にいくと「邪馬台国」に至る。女王の都するところである。水行十日と陸行一月である。官に「伊支馬」、次は「弥馬升」、次は「弥馬獲支」、次は「奴佳鞮」という。七万余戸。
自女王國以北、其戸數道里可得略載、其餘旁國遠絶不可得詳。
女王国より北にある国々は、その戸数や道順、距離をおおよそ記載できるが、その他の周辺国は遠く離れていて、戸数や道順、距離ははっきりとはわからない。
次有斯馬國。次有巳百支國。次有伊邪國。次有都支國。次有彌奴國。次有好古都國。次有不呼國。次有姐奴國。次有對蘇國。次有蘇奴國。次有呼邑國。次有華奴蘇奴國。次有鬼國。次有爲吾國。次有鬼奴國。次有邪馬國。次有躬臣國。次有巴利國。次有支惟國。次有烏奴國。次有奴國。此女王境界所盡。
つぎは「斯馬国」、そのつぎ「己百支国」、つぎに「伊邪国」、つぎに「都支国」、つぎに「弥奴国」、つぎに「好古都国」、つぎに「不呼国」、つぎに「姐奴国」、つぎに「対蘇国」、つぎに「蘇奴国」、つぎに「呼邑国」、つぎに「華奴蘇奴国」、つぎに「鬼国」、つぎに「為吾国」、つぎに「鬼奴国」、つぎに「邪馬国」、つぎに「躬臣国」、つぎに「巴利国」、つぎに「支惟国」、つぎに「烏奴国」、つぎに「奴国」がある。ここが女王の境界が尽きるところである。
其南有狗奴國。男子爲王。其官有狗古智卑狗。不屬女王。
その南には「狗奴国」がある。男子を王としており、官には「狗古智卑狗」がある。この国は女王に従属していない。
自郡至女王國萬二千餘里。
帯方郡から女王国までの全行程距離は一万二千余里である。
帯方郡から女王国までの全行程距離は一万二千余里である。
男子無大小、皆黥面文身。
男子は大人、子供の別なく、みな顔面と身体に(鯨面=江南倭種のごとき)いれずみをしている。
自古以來其使詣中國皆自稱大夫。
古くから、中国を訪問する使節は、皆自分から大夫と称している。
夏后少康之子封於會稽、斷髮、文身以避蛟龍之害。
(そう言えば江南では)夏王朝の少康の子が会稽に封ぜられた時、断髪し、身体にいれずみをして蛟龍の害をさけたと言う。
(そう言えば江南では)夏王朝の少康の子が会稽に封ぜられた時、断髪し、身体にいれずみをして蛟龍の害をさけたと言う。
今倭水人好沈没捕魚蛤。
いま倭の水人は、好んで水中にもぐって魚や蛤を捕る。
文身亦以厭大魚水禽。
彼らがいれずみをしているのは、大魚や水鳥を避けるためである。
彼らがいれずみをしているのは、大魚や水鳥を避けるためである。
後稍以爲飾、諸國文身各異或左、或右、或大、或小、尊卑有差。
時がたつにつれて次第に飾りとなって、諸国のいれずみは(地域ごとに)左右や大小にいろいろ絵柄に決まりがあり、尊卑によっても違いがある。
時がたつにつれて次第に飾りとなって、諸国のいれずみは(地域ごとに)左右や大小にいろいろ絵柄に決まりがあり、尊卑によっても違いがある。
計其道里、當在會稽東治之東。
その道順と距離を計算してみると、ちょうど会稽の東冶の東にある。
その道順と距離を計算してみると、ちょうど会稽の東冶の東にある。
其風俗不淫、男子皆露紒以木緜招頭。其衣、横幅但結束、相連略無縫。婦人被髮屈紒作、衣如單被穿其中央貫頭衣之。
その風俗は淫らでなく、男子はみな髪を露出し(大陸では髪は覆うものだった)、木綿を頭に巻いている。衣服は横広の布を、ほとんど縫わないままつなげて、ひもで結び束ねている(ポンチョや戦後の簡単服状)。婦人は束ねた髪をまとめて、単衣の中央から頭を出して着ている。
種禾稻紵麻蠶桑緝績出細紵縑緜。
稲や貯麻を植え、桑で蚕を飼って紡績をおこない、麻糸・きぬ・綿を産出する。
稲や貯麻を植え、桑で蚕を飼って紡績をおこない、麻糸・きぬ・綿を産出する。
其地無牛馬虎豹羊鵲。
その土地には牛・馬・虎・豹・羊・鵠はいない。
その土地には牛・馬・虎・豹・羊・鵠はいない。
兵用矛楯木弓。木弓短下、長上。竹箭或鐡鏃或骨鏃。
兵器は矛・楯・木弓を使用する。木弓は下部が短く、上部が長い。竹のやじりには鉄鏃あるいは骨鏃を用いる。
兵器は矛・楯・木弓を使用する。木弓は下部が短く、上部が長い。竹のやじりには鉄鏃あるいは骨鏃を用いる。
所有無與擔耳朱崖同。
産物の有無は、擔耳や朱崖と同じである。
産物の有無は、擔耳や朱崖と同じである。
倭地温暖。
倭の土地は温暖である。
倭の土地は温暖である。
冬夏食生菜。
冬でも夏でも生野菜を食べる。
冬でも夏でも生野菜を食べる。
皆徒跣。
皆はだしである。
皆はだしである。
有屋室。
家屋には部屋がある。
家屋には部屋がある。
父母兄弟臥息異處。
父・母・兄・弟らは、別の場所で就寝休息する。
父・母・兄・弟らは、別の場所で就寝休息する。
以朱丹塗其身體、如中國用粉也。
中国で白粉を用いるように、朱や丹を身体に塗る。
中国で白粉を用いるように、朱や丹を身体に塗る。
食飲用邊豆手食。
飲食は高杯をつかって手づかみで食べる。
飲食は高杯をつかって手づかみで食べる。
其死有棺無槨封土作冢。
その葬儀には、「棺」はあるが、「槨」はない。盛り土をして「冢」をつくる。
その葬儀には、「棺」はあるが、「槨」はない。盛り土をして「冢」をつくる。
始死、停喪十餘日。當時不食肉。喪主哭泣、他人就歌舞飲酒。巳葬擧家、詣水中澡浴以如練沐。
人が死ぬと、はじめ十余日間ほど喪に服する。この期間は肉食をしない。喪主は哭泣し、他の人々は歌舞飲食する。葬儀がおわると、一家は中国の「練沐」のように、水浴する。
人が死ぬと、はじめ十余日間ほど喪に服する。この期間は肉食をしない。喪主は哭泣し、他の人々は歌舞飲食する。葬儀がおわると、一家は中国の「練沐」のように、水浴する。
其行來渡海詣中國、恒使一人不梳頭、不去蟣蝨、衣服垢汚、不食肉、不近婦人、如喪人。名之爲持衰。
中国往還の渡海の際には、つねに一人の人物を頭髪を梳かせないで、しらみをとらず、衣服を垢で汚れたままにし、肉を食べず、婦人を近づけないで、喪に服している人のようにする。これを「持衰」という。
若、行者吉善共顧其生口財物。
もし、航海が無事なら、人々は彼に「生口」や財物を与える。
もし、航海が無事なら、人々は彼に「生口」や財物を与える。
若、有疾病遭暴害便欲殺之。
しかし万一病人が出たり、暴風雨の被害に遭った時には、これを殺そうとする。
しかし万一病人が出たり、暴風雨の被害に遭った時には、これを殺そうとする。
謂其持衰不謹。
持衰が禁忌を守らなかったせいだという。
持衰が禁忌を守らなかったせいだという。
出真珠、青玉。其山有丹。其木有{木冉}杼・豫・樟・楺・櫪・投・橿・烏・號・楓・香。其竹、篠幹桃・支有。薑橘椒襄荷。不知以爲滋味。有爾猴、黒雉。
真珠、青玉を産出する。山には「丹」を産出する。樹木には、くす、とち、くすのき、ぼけ、くぬぎ、すぎ、かし、やまぐわ、楓などがあり、竹類には、ささ、やたけ、かづらだけなどがある。生姜、橘、山椒、茗荷もあるが、滋味ある食物として利用することを知らない。猿や黒雉もいる。
其俗、擧事行來、有所云、爲輒灼骨而卜以占吉凶。先告所。卜其辭如令、龜法視火坼占兆。
習俗では、行事とか、旅行とか、事があるごとに、骨を灼いて吉凶を占う。まず占うことを告げる。そのト兆の解釈は中国の亀トの法に似ている。焼けてできた裂け目を見て、その予兆を占う。
習俗では、行事とか、旅行とか、事があるごとに、骨を灼いて吉凶を占う。まず占うことを告げる。そのト兆の解釈は中国の亀トの法に似ている。焼けてできた裂け目を見て、その予兆を占う。
其會同坐起父子男女無別。
集会や振る舞いにおいては父子、男女の区別はない。
集会や振る舞いにおいては父子、男女の区別はない。
人性嗜酒。
人々は生来酒を好む。
人々は生来酒を好む。
〔魏略曰、其俗不知正歳四節、但計春耕秋收爲年紀〕
〔裴松之注:「魏略」によれば、一般の習俗では「正歳四節」を知らず、ただ、春秋の農作業をもって年をかぞえる。〕
〔裴松之注:「魏略」によれば、一般の習俗では「正歳四節」を知らず、ただ、春秋の農作業をもって年をかぞえる。〕
見大人所敬、但搏手以當跪拜。
身分の高い人を見ると、拍手をするだけで、中国の「跪拝」の代わりとする。
身分の高い人を見ると、拍手をするだけで、中国の「跪拝」の代わりとする。
其人壽考或百年、或八、九十年。 その寿命はある人は百年、ある人は八、九十年の長寿であると考えられる。
其俗、國大人皆四五婦、下戸或二三婦。
その習俗では、身分の高い人は皆四、五人の妻を持ち、身分の低い者でも、ある者は二、三人の妻を持っている。
婦人不淫不妬忌。
婦人は淫らでなく、嫉妬をしない。
婦人は淫らでなく、嫉妬をしない。
不盜竊、少諍訟。 泥棒はおらず、訴訟は少ない。
其犯法、輕者没其妻子、重者滅其門戸及宗族。
法を犯した者は、罪の軽い場合はその妻子を取り上げ、重い場合は家族と一族を殺す。
尊卑各有差、序足相臣。
尊卑には身分の差があって、上下の秩序が守られている。
服收租賦、有邸閣。
人々に租税賦役を納めさせており、それを管理する建物がある。
國國有市、交易有無使。大倭監之。
国々には市場があって、人々は物資を交換している。大倭にこれを監督する。
国々には市場があって、人々は物資を交換している。大倭にこれを監督する。
自女王國以北、特置一大率、檢察諸國、畏憚之常治。伊都國於國中、有如刺史。
女王国の北には、特に「一大率」を設置し、諸国を検察させ、国々は畏れ憚っている。常に伊都国に置かれており、中国の「刺史」のようである。
王遣使詣京都帶方郡諸韓國、及郡使倭國、皆臨津搜露傳送文書賜遺之物詣、女王不得差錯。
王が使節を洛陽や帯方郡または諸韓国に派遣する場合や、帯方郡の使節が来た場合は、それらの使節は港で文書や賜物をあらため、女王への錯綜が起らないようにする。
王が使節を洛陽や帯方郡または諸韓国に派遣する場合や、帯方郡の使節が来た場合は、それらの使節は港で文書や賜物をあらため、女王への錯綜が起らないようにする。
下戸與大人相逢道路、逡巡入草。傳辭説事、或蹲、或跪、兩手據地爲之恭敬。
身分の低い者が高い者と道で遭遇した場合は、あとずさりして草むらに入る。言葉を伝えたり、物事を説明する際には、うずくまったり、ひざまずいて、両手を地につける。これは恭敬作法である。
身分の低い者が高い者と道で遭遇した場合は、あとずさりして草むらに入る。言葉を伝えたり、物事を説明する際には、うずくまったり、ひざまずいて、両手を地につける。これは恭敬作法である。
對應聲曰、噫、比如然諾。
応答の声を「噫」という。承諾の意味のようだ。
応答の声を「噫」という。承諾の意味のようだ。
其國、本亦以男子爲王。住七八十年、倭國亂、相攻伐歴年。
その国は、もとは男子が王だった。代々治世すること七、八十年で(大陸の乱れや気候の変動によってか)倭国は乱れて、国々は何年間も互いに攻撃し合った。
その国は、もとは男子が王だった。代々治世すること七、八十年で(大陸の乱れや気候の変動によってか)倭国は乱れて、国々は何年間も互いに攻撃し合った。
乃、共立一女子爲王。
そこで、協同して一人の女子を王とした。
そこで、協同して一人の女子を王とした。
名曰卑彌呼。事鬼道能惑衆。
名を「卑弥呼」といい、「鬼道」を事とし、民心を(よきにつけ悪しきにつけ)コントロールしている。
名を「卑弥呼」といい、「鬼道」を事とし、民心を(よきにつけ悪しきにつけ)コントロールしている。
年巳長大、無夫婿。有男弟佐治國。
壮年だが夫を持たず、男弟が補佐して政治をおこなっている。
自爲王以來少有見者。
王となってからは、姿を見た者は少ない。
王となってからは、姿を見た者は少ない。
以婢千人自侍。
侍女千人を侍らせている。
侍女千人を侍らせている。
唯有男子一人給飲食、傳辭出入居處。
ただ一人の男子だけが飲食を給仕し、指示をうけるために出入りをしている。
ただ一人の男子だけが飲食を給仕し、指示をうけるために出入りをしている。
宮室樓觀城柵嚴設、常有人持兵守衞。
宮室と楼観や城柵を厳しく設け、常に兵器を持った人々が守衛している。
宮室と楼観や城柵を厳しく設け、常に兵器を持った人々が守衛している。
女王國東、渡海千餘里、復有國、皆倭種 女王国の東、海を渡って千余里のところに、また国があり、みな倭種である。
又有侏儒國在、其南人長三四尺。去女王四千餘里。
また、その南に侏儒国があるり、身長三・四尺あるという。女王の居場所から四千余里離れている。
又有裸國、黒齒國、復在其東南船行一年可至參。
またその東南に裸国、黒歯国があり、船で一年かかって至ることができる。
またその東南に裸国、黒歯国があり、船で一年かかって至ることができる。
問倭地、絶在海中洲島之上、或絶、或連、周旋可五千餘里。
倭の地を訪問すると、離れた海中の洲島の上を、あるいは隔絶し、あるいは陸続きに、ひとまわりすると、五千里あまりになる。
倭の地を訪問すると、離れた海中の洲島の上を、あるいは隔絶し、あるいは陸続きに、ひとまわりすると、五千里あまりになる。
景初二(三)年六月、倭女王遣大夫難升米等詣郡、求詣天子朝獻。太守劉夏遣吏將、送詣京都。
景初二(三)年(238)六月、倭の女王は大夫難升米らを帯方郡に遣わし、天子に拝謁し朝献したいと求めた。郡太守の劉夏は役人を派遣し、魏の都に送らせた。
景初二(三)年(238)六月、倭の女王は大夫難升米らを帯方郡に遣わし、天子に拝謁し朝献したいと求めた。郡太守の劉夏は役人を派遣し、魏の都に送らせた。
其年十二月、詔書報倭女王曰。
その年の十二月の詔書が倭の女王に命ずるには以下のようである。。
その年の十二月の詔書が倭の女王に命ずるには以下のようである。。
制詔親魏倭王卑彌呼。
親魏倭王卑弥呼に制詔する。
親魏倭王卑弥呼に制詔する。
帶方太守劉夏遣使送、汝大夫難升米次使都市牛利、奉汝所獻男生口四人女生口六人班布二匹二丈以到。帯方郡太守劉夏が使者をつかわして、汝の大夫難外米と次使都市牛利を送り、汝の献上した男の奴隷四人、女の奴隷六人と班布二匹二丈を持って到着した。
汝所在踰遠、乃遣使貢獻是汝之忠孝。
汝の国は、はるか遠くにあるのに、使者を遣わし貢献してきたのは、汝の忠孝である。
我甚哀汝、今以汝爲親魏倭王、假金印紫綬裝封付帶方太守假授。
私は汝を大変慈しみ、いま汝を親魏倭王とし金印と紫綬を装封して帯方郡太守に託し授ける。
私は汝を大変慈しみ、いま汝を親魏倭王とし金印と紫綬を装封して帯方郡太守に託し授ける。
汝其綏撫種人勉爲孝順。
汝は倭人を綏撫し、我に孝順をつくせ。
汝は倭人を綏撫し、我に孝順をつくせ。
汝來使難升米・牛利、渉遠道路勤勞。
汝の使者難升米、年利は遠路を苦労してやって来た。
汝の使者難升米、年利は遠路を苦労してやって来た。
今以難升米爲率善中郎將、牛利爲率善校尉、假銀印青綬、引見勞賜遣還。 いま難升米を率書中郎将、年利を率善校尉とし、銀印青綬を与え、彼らに会って、ねぎらって送りかえす。
今以絳地交龍錦五匹〔臣松之以爲地應爲綈。漢文帝著皀 衣謂之弋綈是也。此字不體非魏朝之失則傳寫者誤也〕絳地縐粟ケイ 十張茜絳五十匹紺青五十匹答汝所獻貢。
今、赤地交龍錦五匹、〔裴松之が考えるに「地」は「綈」でなくてはならない。漢の文帝が「皁衣を著く」「弋綿」のことである。魏の原文が間違っているのではなく伝写の誤りである。〕絳地縐粟ケイ 十張、茜絳五十匹、紺青五十匹を与え、汝が献上した贈物に答える。
直又特賜汝紺地句文錦三匹細班華ケイ五張白絹五十匹金八兩五尺刀二口銅鏡百枚真珠鉛 丹各五十斤。
また特に汝には紺地句文錦三匹、細班華ケイ五張、白絹五十匹、金八両、五尺刀二口、銅鏡百枚、真珠鉛丹各五十斤を与える。
皆裝封付難升米・牛利。
すべて装封して難升米と年利に託した。
すべて装封して難升米と年利に託した。
還到、録受、悉可以示汝國中人、使知國家哀汝。
彼らが帰国したら、記録して受け取り、すべてを汝の国の人々に示し、魏の国が汝を愛することを知らせよ。
彼らが帰国したら、記録して受け取り、すべてを汝の国の人々に示し、魏の国が汝を愛することを知らせよ。
故鄭重賜汝好物也。
故に鄭重に良き品物を与える。
故に鄭重に良き品物を与える。
正始元年、太守弓遵遣建中校尉梯儁等、奉詔書・印綬、詣倭國。拜假倭王并齎詔、賜金・帛・
錦ケイ・刀・鏡・采物。倭王因使上表答謝詔恩。
正始元年(240)、太守弓遵は建中校尉梯儁らに、詔書・印綬をもたせて倭国に送った。使節は倭国に至り、倭王に謁して斉王の詔書、黄金、絹類、刀、鏡、采物を与えた。倭王は使者に上表文を託して詔と恩恵に答謝した。
其四年、倭王復遣使大夫伊聲耆・掖邪拘等八人、上獻生口・倭錦・絳青縑・緜衣・帛布・丹・木付・短弓矢。掖邪狗等壹拜率善中郎將印綬。
その四年、倭王は再び太夫伊声書・掖邪狗ら八人の使節を送り、生口、倭錦、紺青の綴、綿衣、帛布、丹、木附、短弓矢を献上した。掖邪狗らはみな率善中郎将の位と印綬を与えられた。
其六年、詔賜、倭難升米黄幢付郡假授。
その六年、王は詔して、倭の難升米に黄幢を帯方郡に託して授けた。
その六年、王は詔して、倭の難升米に黄幢を帯方郡に託して授けた。
其八年、太守王頎到官。
その八年、帯方郡の太守王頎が任官した。
その八年、帯方郡の太守王頎が任官した。
倭女王卑彌呼、與狗奴國男王卑彌弓呼素不和、遣倭載斯烏越等詣郡説、相攻撃状、遣塞曹掾史張政等、因齎詔書黄幢拜假難升米、爲檄告喩之。
倭の女王卑弥呼は、もとから狗奴国の男王卑弥弓呼と不和であり、倭の載斯烏越らを帯方郡に送って、狗奴国と攻撃しあっている様子を報告し、郡太守は塞曹掾史張政等を遣わし、詔書と黄幢を難升米に授け、激文をもって卑弥呼に告諭した。
倭の女王卑弥呼は、もとから狗奴国の男王卑弥弓呼と不和であり、倭の載斯烏越らを帯方郡に送って、狗奴国と攻撃しあっている様子を報告し、郡太守は塞曹掾史張政等を遣わし、詔書と黄幢を難升米に授け、激文をもって卑弥呼に告諭した。
卑彌呼以死。大作冢。徑百餘歩。徇葬者奴婢百餘人。
卑弥呼はこのいくさの中で死んだ。倭人は直径百余歩の塚を盛大に作った。奴稗百余人が殉葬された。
更立男王、國中不服、更相誅殺。當時殺千餘人。復立卑彌呼宗女壹與、年十三。爲王國中遂定。
あらためて、男王を立てたが、国中が服さず、お互いに殺し合った。この時千余人が殺された。再び卑弥呼の鬼道を引き継ぐに足る宗女・壱与、年齢は十三歳を立てて王とし、それで国中はやっと治まった。
政等以檄告喩壹與。壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人送、政等還。
張政らは激文を発し、壱与に告諭した。壱与は、倭の大夫率善中郎将掖邪狗ら二十人を派遣し、張政等が帰国するのを送らせた。
張政らは激文を発し、壱与に告諭した。壱与は、倭の大夫率善中郎将掖邪狗ら二十人を派遣し、張政等が帰国するのを送らせた。
因詣臺、獻上男女生口三十人貢白珠五千孔、青大句珠二枚、異文雜錦二十匹。
この折掖邪狗らは臺=洛陽に行き、男女の奴隷三十人を献上し、白珠五千孔、ヒスイの大句珠二枚、異文雜錦二十匹を献上した。
この折掖邪狗らは臺=洛陽に行き、男女の奴隷三十人を献上し、白珠五千孔、ヒスイの大句珠二枚、異文雜錦二十匹を献上した。
大前提の最後に、研究はあらゆるジャンルで知識を得てゆくことが大事です。考古学は嫌いだ、信じられない、記紀はうそだらけだから読まない、科学は苦手だ、気温や天文や地質・変成帯などなどの門外の知識、製鉄・稲作・植物植生・農具・鉱山・・・なんでも博物として貴重だと思って欲しいのです。筆者は10年以上、そういうほかの歴史愛好家が絶対近づかないだろう図書館のカテゴリー棚を経巡ってきました。人によってはあんたは知りすぎたとさえ言われることがあります。でも全部が大事なのです。もちろん人生経験や恋愛経験や親族の葬儀をやった経験なんかまですべてがヒントになります。そして現場を歩いて、資料館に立ち寄って、地元のタクシーさんや商店街の愛好家と話を聞き、酒を飲みしましょう。だからあなたが邪馬台国に到達するには生まれてから50年以上かかるでしょう。でははるかなる女王を探すヒントの旅に次回からぼくと一緒に仮想体験しましょう。
前回の旅は考古学が中心でしたが、今回はいよいよ魏志倭人伝を中心に出発することになります。こんな試みは実は筆者も初体験です。倭人伝なんか見てみぬ振りでやってきましたからね。ぼくも史書には素人です。記紀との比較はあまりしたくないのですが、いくつか森さんも扱ったような気になる箇所があります。筑紫磐井と継体大王出現の契機となる神功皇后伝説だけは避けては通れますまい。ただそれ以上深入りしすぎるとかえって危険です。記紀は政治性と神話に満ちた謎解き反呪文になっています。深みにはまるともう信者になりかねない。偽書といわれる書物はさらに真偽を見分ける目が必要です。まずは無駄な遠回りは今はさけておくことです。いずれ何かの書物でそういう部分もいるなという箇所に出会えます。
無駄と必要を見分ける目が一番大事です。
本編がいよいよはじまります。次回をお楽しみに!!