「人骨の研究に関しては、一九二四年に京都大学教授の清野謙次が、サハリンにある鈴谷貝塚を調査し、出土した人骨について『日本原人の研究」に記しているのが最初である(清野、一九二五)。
第二次世界大戦後、網走のモヨロ貝塚から出土した多数の人骨を北海道大学の児玉作左衛門らが本格的に研究を行なった。児玉(一九四八)はこれらの人骨を「モヨロ貝塚人」と命名し、高く丸い脳頭蓋の形態、顔面が高くかつ広いこと、とくに上顎骨が大きく犬歯窩がきわめて浅いこと、下顎骨が強大で下顎枝の幅が広いこと、歯牙の咬耗が強いことなどの形態学的特徴を表現したのである。そして、近隣集団の中ではアリュートに類似すると考えた。
これに対して、鈴木(一九五八)はモヨロ貝塚の頭蓋は、アリュートよりもエスキモーに似ると発表している。このような初期の研究では、オホーツク文化人の頭蓋の特徴を大きな上顎骨・下顎骨と扁平な顔ととらえ、極北の人類集団と結び付けていたようである。
一九六〇年代になり、札幌医科大学の山口敏が稚内市大岬遺跡から発掘された人骨の一連の研究を開始し、オホーツク文化人の全身の骨格にいわゆる北方モンゴロイドの特徴を見出した(三橋・山口、一九六一、一九六二)。これらの研究は、オホーツク文化人骨格の特徴をとらえ、北海道のアイヌとの間の形態的な違いを明らかにしたことに意味がある。
さらに山口(一九七四、一九八一)はIto(1965)の報告したモヨロ貝塚人の計測値とソ連の人類学者デベッツが一九五一年に報告したシベリア集団の頭蓋計測値を多変量解析により比較し、オホーツク文化の担い手は北東シベリアの人々、とくにアムール川下流域のウリチなどの民族集団に近いという結果を出した。筆者のひとり石田も大岬頭蓋の計測値の分析を行ない、オホーツク文化人はナナイ、ウリチなどのアムール川下流域の人々に近いことを報告している(Ishida, 1988)。」
http://www.um.u-tokyo.ac.jp/publish_db/2002Okhotsk/03/3200.html
http://www.um.u-tokyo.ac.jp/publish_db/2002Okhotsk/03/3200.html
およそ歴史をやろうとするのなら、まずは最古から検証してこそであろうと思う。
だがその最古を果たしてわれわれはどこに置くのか?
少なくとも、最古の「日本人」とは北の果てである北海道、いやそれよりも果てのあるサハリンか、あるいは南の果ての台湾へと目を向けるのが当然である。
歴史はつながっている。
人類の、人間の歴史は必ずつながっている。
するとまずは北の果てから、南の果てから、われわれはこの「リングオブファイア」の上にある島々を選んで住み着いた最初の「日本人」の子孫なのだ。あとからやってきて、稲作によってこの列島を席巻した「渡来」は、いわゆる現代遺伝子科学が言っているようなDNAの北方性に従って生きてきたわけではない。ここが科学ではダメな分じゃないか。
ではなぜ数値は、科学の証拠は、われわれの生きてきた人間としての「人生」を反映してはいないのだろうか?ここからが本当の「科学」ではあるまいか?
数値と統計だけでは割り出せない、人間としての日本人の過去。それを解明せねばならない。
地震学のように、今、どうしようもない「無」の存在では、遺伝子学はないのだということを、遺伝子学者こそが証明しなければ、
「それは科学ではないのだ」ろう。