ふたつの邪馬台国関連記事はやがて全部ファン公開~友だちのみ公開へと切り替わっていきます。すでにいくつかはそうなっています。あしからず。
あとは有料になる予定です。
文献では、邪馬台国を決定するヒントを、筆者は4箇所あると考える。
1 魏志倭人伝の「郡から女王国まで全行程1万2千余里」
2「女王国の北は特に一大率を置き監視。常は伊都国に在中する」
3 後漢書東夷伝の「女王国の東、海を渡る千里、拘奴国あり。皆倭種なり。」
4 どの記録も書く「会稽 東冶の東」
この四つの記事だけでまず100%の確率で邪馬台国は九州~琉球諸島のどこかになければならないことを、魏志も後漢書もはっきりさせている。
そして女王国の東千余里にある「こうぬ」国を、九州の不弥国から伊予灘を隔てた東瀬戸内だとするなら愛媛の河野水軍のいた範囲~近畿までが推定できる。「こうのこく」は最初遠賀川あたりから豊前-豊後-伊予-備後-吉備-讃岐-徳島-淡路-播磨-大阪湾と移動して大和にたどり着く。これが魏志では狗奴国とされた国の移動である。途中もちろん吉備が中継地になった。
ようは国が大陸事情によって、年を経て移動したので、中国はつかみきれない。魏志の言う狗奴国は実は東瀬戸内~近畿にあったのだ。
ということは邪馬台国はその西側に接するところにあったことになる。トヨである。
豊前・豊後の宇佐~日田~夜須~吉野ヶ里一帯のどこかに卑弥呼の臺(台)国はあったはずだ。そこにはその余の21国の邪馬国もあることになるだろう。
一大率=帥は伊都国に常駐させたわけだが、そこが「女王国の北」なのだから、邪馬台国は伊都国よりも南にあるわけだ。するとこれは最初から、絶対近畿地方であるはずはないのだ。
投馬国・・・あったかどうか知れない国。邪馬台国が会稽の東にあり、呉をにらむ場所にあったと思わせたいのが『三国志』魏志の立場である。
それが呉志倭人伝だったなら邪馬台国は魏の目の前に置かれただろう。
つまり邪馬台国など実は幻の存在でもよかったのだ。それは現代の抑止力である核と同じ役割の架空の場所だったのである。
そうヤマタイ国もトウマ国も。
倭人伝全部が途中から中国人のファンタジーとなっている。
だから里数から日数に変化し、南なのか東なのか不明な仮想国へ変化していく。それ以前の末盧国から伊都国から奴国もすでに方角が本来東北のはずが東南へ書き換えられていた。夢物語だったのだ。そして魏、晋は呉残存勢力たちをけん制できればよかった。だからどんどん南へ南へ向かわせる。
しかし現実の倭国では、公孫を捨てて魏に属した女王国は呉・公孫氏に属した狗奴国=拘奴国によって大きく発展するというねじれ現象を引き起こした。
その墳墓である前方後円墳(当初は方墳~前方後方墳だったのが大和をのっとって乗り換えた)は飛鳥時代末期~奈良時代に消えてしまう。なぜ?
狗奴国に代わる勢力が政権交代したからだ。それがヤマタイコクの復活だったかどうかは知らぬ。勝手に想像してください。
納得できる詳細解説は別記する。無料公開はここまで。