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Channel: 民族学伝承ひろいあげ辞典
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同笵鏡 神獣鏡 景初四年  同笵なら神獣鏡100枚一気に作れます

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たまには邪馬台国近畿説の人にもいいヒントを。

銅鏡の作り方
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早い話が金属製品(鋳物)は粘土に絵を掘り込んで銅を溶かして型をとる。ただそれだけだ。

同笵鏡というのは、コピー鏡である。一般に考古学では「踏み返し」などとも言う。
オリジナルの鏡を粘土にあてて押し付けて鋳型とする。すると当然絵柄は反転する。これを踏み返しという。つまり大量生産鏡である。

しかしコピーである限り、絵柄はどんどんピンボケしてゆく運命にある。すると日本でよく出てくる同笵三角縁神獣鏡になるわけである。

この鏡なら極めて短期間に大量に作成できるから、短期間逗留した外交集団に分け与えるには手っ取り早い。もしそうなら同笵するオリジナル鏡は誰がどこから持ってこようがすぐコピーが作れる。

例えば日本国内で、例えば呉越の渡来工人にオリジナルの一枚を作らせ、それを中国へ持って行き、うやうやしく「日本人はこういう鏡が「好物」なので、お近づきのよしみに是非、これと同じものを作ってちょうだいませ」なんて頼めば、皇帝は「よっしゃ。んなのお安い御用じゃ。ほんまにそれだけでよいのか」てな具合でちゃっちゃとコピー百枚作らせる・・・なんてお茶の子さいさいである。

百枚もオリジナルを作っていたら、鋳型から起こして、絵柄を刻ませているだけですごい歳月がかかってしまう。

そこで卑弥呼の使者たちが果たしてどれくらい帯方郡官吏にいたかである。
今となっては当時の船旅の日程を再現するには難しい。なぜなら手漕ぎの舟で大陸と日本を往来していられたのはせいぜい昭和初期までで、もう実際にそうした船頭とか漁師がいなくなってしまったからだ。

話はちょっと横にそれるが・・・
だから、昨今、古代の舟を再現して手漕ぎで海を渡るのを再現しようというプロジェクトにはかなり無理がある。遣唐船とか古墳の船埴輪などから類推すれば、当時の大型船にはオール穴と帆柱の両方がついているから、工程のすべてを手漕ぎでいったはずはない。帆で風を受けて出て行き、潮目に乗り、風がやんだら手で漕いだのであろう。ところが「大王のひつぎ」プロジェクトでは全工程、えっちらおっちらとボート部員が入れ替わり立ち代りしてやっと石棺を運んでいた。帆を張った船が古墳時代にあるはずないという前提でやるから大変な時間と労働になった。しかしもし前に帆船があったらもっと楽に運べたはずだ。瀬戸内海は内海だから帆船は通れないということだったかどうかもう忘れたが。

外海を航行するのに、なんぼ弥生時代でも簡単な帆を張る船はあっただろう。4世紀にはもう大量の秦氏を運んだ記録があるのだから。宝塚古墳の船の埴輪には柱がちゃんと立っている。

往古の五島隼人たちは数日で小舟を漕いで大陸を往復したと聞く。船を出すには季節風が必要なので、一旦行ってしまうとなかなか戻ってはこれない。これは遣唐使がそうだった。季節風と潮目が整わないとなかなか帰れないのである。

すると卑弥呼の使者たちはどうだったか?
彼らはまずもって筑紫の海人族によって伊都国あたりから壱岐対馬経由で半島南岸まで行っただろうから、船頭はかなりの手練(てだれ)であろう。玄界灘は波が荒く遭難の危険性がある。対馬海流は西から東へ相当なスピードで日本海へ向かって流れる。対馬海峡は狭いからボトルネック海流は当然勢いが強い。そこを流されぬようにいくのはベテランでないと無理だ。少なくとも彼らも貢物を持って行ったし、奴隷もつれていったのだからけっこうな大きさの船を持っていたはずだ。まさか全部小舟で手漕ぎで行ったとも思えない。しかし毎日のように海人族は半島と筑紫を往復している。けっこうさっと行って、さっと帰れたかも知れない。

まあ、短期滞在だっとすれば、鏡を一から作ったはずはないのである。コピーで充分。しかもその鏡は神獣鏡のような南朝の神秘的絵柄のものなら、魏のような華北系国家では「なんじゃ?こんなものでいいのかい?」的なものであろう。やる気もなかろう。

「じゃあ、コピーでいいかい?」だっただろう。

邪馬台国時代、少なくともそうした鏡の往来は複数回起きていた。卑弥呼のあとには晋にトヨも数回使者を送っている。4世紀は中国が混乱するから無理である。つまり3世紀の墓から神獣鏡がもし出たならそこが邪馬台国。と言ってもいい条件になる。黒塚とか大塚山はそういう墓である。

ただし、邪馬台国そのものはあっちこち移動したと筆者は考えている。時代の流れによって日本の首都はあっちへふらふらこっちへしている。最初は筑後になったのが筑前から出雲、吉備を経て大阪湾でもいいし、日本海なら丹後・若狭・福井から琵琶湖でもいい。そういう遺跡がだから京都の広峰だったり琵琶湖の今回出た彦根だったり、丹後だったりするなら移動説はつながってくる。

景初四年銘文入り鏡というのがいくつか出ているが、だいたいそういうところで出たのである。

景初四年銘文入り斜縁盤竜鏡(福知山市広峰1号墳)
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西都原の持田という地域から出ているということは、西都原では船の埴輪も出ているので彼らが使者を送った可能性がある。持田古墳群は行った人ならわかるが、立派な古墳群で前方後円墳がたくさん集まった墓地である。海岸に近くおそらく海人族。神武神話を大和に持ち込む人々かも知れない。


斜縁とは三角縁より古い形式の漢鏡といわれるが、国産だと思える。景初四年なんていうありもしない紀年を刻んだのは、中国の動きにあまり詳しくない人たちだったからだろう。あるいは、こういうものはかなり前から作るから、中国で前年に、来年用に製作したか?カレンダーみたいに。しかし同じものが中国にはないから。銘文がない盤竜鏡は徳島から出ていて、全部でたったの三枚しかない。極めて珍しい遺物。海人族たちも自分だけで朝貢しようなんてちゃっかり考えたのかも知れない。


三角縁神獣鏡はサイズが大きい鏡で、そんなサイズの鏡は中国には一切存在しない。だから銅鐸や古墳を大きくしたがる弥生~古墳のジャパンヘテラルキーの産物だから日本人好みなのである。好物。きっと魏皇帝たちは使者が持ってきた一枚のオリジナルを見たとき目をむいただろう。「でけえな」

それよりでかい鏡は福岡の平原に6枚と、伊勢神宮にしかない。つまりこれはヤタの鏡である。絵柄は特大内向花紋鏡。これはもうそうだとしてしまっていいだろう。ヤタ鏡は平原の女帝から2世紀の大和の族長に配布してあげた鏡である。そしてこんな特大な鏡は筑紫でしか作るまいから国産鏡であろう。あるいは大和朝廷ができる頃に王家の分祠と言う形でプレゼントしたものかも知れない。それが伊勢の神器である。

だから大和王朝では、天武直系消滅後にそういう三種の神器・・・つまり当時の最大勢力の象徴神器をみんなあっちこちへ追いやってしまうのだ。鏡は伊勢に、剣は熱田に。そして今、皇室に伝世されている本物は玉(八坂瓊の勾玉)だけである。ほかは全部レプリカだ。
ということは玉だけが天皇家には重要だったんだから?天皇家はそもそも玉を造る?人々の?・・・・・・・・・・おうさまだったんじゃ~~~~玉造氏族。とか?



ま、面白く読んでくれたらそれでいい。



ただし、
鏡が出たらいいってもんじゃない。
一番大事なのは鏡の鋳型とオリジナル鏡なんだ。生産した証拠品だからだ。
それが出なけりゃそこは邪馬台国じゃない。



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