ティトゥス・ルクレティウス・カルス(ラテン語: Titus Lucretius Carus, 紀元前99年頃 - 紀元前55年)は、共和政ローマ期の詩人・哲学者。エピクロスの思想を詩『事物の本性 について』に著した。
エピクロスの思想をコモンセンスは簡単に「快楽主義」だと決め付けているが、そうではない。宗教の規律を排除する=つまり論理的、合理的だったから、当時それが快楽的に見えてしまっただけである。
「以上のことを理解してくれるならば、ただちに自然は自由であり、倣漫なる主人公に左右されることなく、自然自身すべて自由勝手な独立行動をとっているものであって、神々とは関係ないということが判ってくるだろう。」『物の本質について』第二巻
紀元前4世紀、ルクレティウスはすでに、信仰や宗教や迷信や民間信仰の混沌を切り取り、分解し、いっさいの情感なく、それらを全部、人間がそういう神とか、その摂理とかに縛られたい生物であることを見抜いていた。そしてそれらにこだわっていたら宇宙に発した進化の、気ままで自由な発想がわれわれを生かしているだけであることを論じた。これはつまり科学者の態度であった。
私たちが、それは神の仕業だと思っていたことのすべてを、エピクロスは、ルクレティウスは、ともに(紀元前に!)、すでに自然の勝手な仕業でしかないと喝破していた。
それはあとの時代のガリレオやコペルニクス、そのまたあとのダーウィンやニュートンやの生み出す科学の源となった。
宇宙がどうやってはじまるか、われわれはほとんど無知である。いまだに。
あるとき、宇宙の生まれる前の時間を、われわれは「あるとき」と言うしかないわけだが、少なくとも138億年前、原子のように小さな点が、宇宙の前の空間に突然生まれた。それが瞬時にインフレーションを起こし膨張する。するともう膨張はゆるやかになって、今のわれわれがいる宇宙空間の広さへとゆっくり進化し始めた。膨張は瞬時で太陽系や銀河系の数万倍に達したというから、理解を超えている。
そこから130億年かけて、「この宇宙」はゆっくりと現在の体系を作っていったという。
言わなければならぬのは、そういう説はあるけれど、あくまでも仮説、推量でしかないということだ。推量は科学ではない。しかし今はそういう理解をしておかねばわれわれの脳みそでは爆発しかねない。まるでビット・コインを発明したサトシ・ナカモトのように、それがいずれどうなって、どう政府通貨を席巻していけるのかわからないように。
過去、古代~こないだまで、いや今でも一部は、神がいて、すべてのことを計画的に人間にやらせることが進歩だと思われていた。あるいは、今の人類の都市生活や政治は、ある、神のような誰かが計画し、われわれはただそれに乗って生きていけば、世界はいずれ平和で素晴らしい楽園になると思われていた。
しかし、マット・リドレーは、それは勘違いであるとする。
すべての事象は、神の摂理などではなく、またある特定の天才的個人の発明などによるものではなく、自然淘汰的に、勝手に生まれて、かってに付加価値をくっけられて発展してきた。インターネットもまさにそうだったと言うのである。
まさに、宇宙も、銀河も、地球などの惑星・恒星の発生も、その後の地球の46億年の歴史も、種の歴史も、人類の派生も、全部、自然が勝手にやってきたことなのだ。それを人類が勝手に神のシワザだとしてきたに過ぎないと言うのである。
きっと、人間には、そうは思えない人種と、そうだようなと思う人種の二種類がある。そのどちらが、いやそのどちらの子孫が、幸福を手にしているかは、わかるはずもない。
そんなこととは無関係に、種が宇宙・自然の摂理に従って七回目の絶滅を起こせば、そこにはもうわれわれの子孫も、先土器時代からの永遠の円環思想も、灰燼にきすだけである。
私たちが、これは神の思惑でとか、祖先のなした前世のわざごと、因果だとか、ある種の天才や王や天皇によって、それが必然的になしとげられたなどということは、いっさいない、と思うことを科学と言うのである。