昨夜のNHK古代史番組、ザ・プレミアム 英雄たちの選択新春SP▽“ニッポン”古代人のこころと文明に迫る もそうだったことだが、これまでの日本の古代史研究は、ずっと文科系史学者や考古学者たちによっての、「推定が先行した」中での「一見理科学的に見えちゃう分析」しかなされてこなかったと考えられ、しかも多くの文科系史学者・考古学者たちは、その検証についての専門知識がないがために、驚くことだが、結果をそのまま受け入れ、疑わず、結果的にその杜撰なところもあった分析結果が、その後正論、当然の定説を言うために延々と!!当たり前のように! 決まりきったこととして! 引用されてきた・・・ということを金属専門家の新井宏は口すっぱく語っている。残念なことだが、鉛同位体や古代尺、金属考古学に関した既存の分析はその多くが、金属の専門家である化学者から見ると、口ぱっくりになるようなものばかりだったことを知らねばならない。
文科系研究者にとって、理科系考古学や遺伝子学や化学・物理学からの詳細な分析が、本当にまっとうな方法でそれが行われたのかや、その結果そのものがどれほど信頼にたる・・・つまり理科系専門家が見てもその結果がまっとうであるとされるかどうかに、残念ながらあまり気がいってなかったようだ。つまり、筆者が遺伝子研究や同位体研究や進化やについて記事にするさいに、いちいち「あくまでも仮説であり、常に再検証されねばならない」と付け足しているような「すべての事象、研究への疑い」という態度が「なかった」とまでは言わないまでも、科学的に専門的なために検証のやり方もわからないから、「専門家で名前もある科学者なのでまずはありがたく論をいただき、自らの推論に都合がよければ借り受けてきた。それも文科系権威がそうだったから、そのままほぼ戦後60数年間、それが定説にされてきたというのである。
例えば先に論じた三角縁神獣鏡の過去の分析が理科系学者によって覆されたり、古代日本古代の寺院や古墳に使われていた尺度が、かつてから史学では「高麗尺」という実はありもしない最初の推論をそのままずっと転用してきた。そこにある微細な矛盾する数値の出る遺物、遺跡の資料には目をつぶっていたこと。それを新井が朝鮮に他出する古韓尺であることをつきとめ、その数値が一歩を三十三尺としており、しかし中国漢時代の尺はその三倍である九十九尺が一歩であることなどには気がつかなかったようだ。つまりということは魏志倭人伝にある「大いに冢をつくる、径百歩」の百歩は高麗尺か漢尺かで喧々囂々戦後ずっと、はずかしながらも、誌面や壇上でやりあってはばからなかったということになる。そして、その権威と呼ばれた人々が喧伝してきた定説に振り回されたのは、当然われわれ古代史愛好家なのだった。※
これは無知ゆえの「たくまざる詐称」によって、日本古代史研究が戦後70年ばかりを、無為徒食に過ごさされてきたという無残な結論だけを導いてしまう。まことにおさむい風が胸を吹きぬけていくような気分にさせられた。
昨夜の番組の中でも、松木武彦ら文科系考古学の使徒たちが推定する、吉備から大和への考古学遺物の移動や、直弧文やの模様の移動についても、実は彼らが最初から疑いもせずに纒向=邪馬台国から推論してこその話だとすぐに気付くべきだ。
纒向や唐子鍵など複数の「女王の都」があるはずだというのも、のちの飛鳥・大和の王都が、天皇交代のたびに造営されたという記紀に書かれた記述を基盤に、考古学での実証を手がかりに導き出された「邪馬台国畿内説」からの推論でしかないことは忘れてはならない。
文献で言うのなら、箸墓に葬られたというヤマトトトビモモソヒメは吉備の「吉備津彦」の妹だといった、後世の藤原氏主導の皇統譜を疑わない態度でできているのではないか?それを言うのなら、風土記や在地神社伝聞では宇佐は吉備津彦の兄弟だという伝承も正しいと言ったのと同じことになってしまわないか?
文献の強い影響を受け続けてきた畿内論者の邪馬台国論は、だから常に都合の悪い答えを出した理科系分析は無視し、ありえないと排除し、都合がよければ大いに利用しを繰り返しているのだろう。
吉備や讃岐の東瀬戸内の古代遺跡をつぶさに見て行けば、それらのいくつかは北部九州のまっとうな渡来とは異なる、日本海出雲近辺への「漂流」によって、北部九州とは違う流れで入り、出雲から吉備を経由することで形を整えたうえで、播磨や摂津や讃岐や阿波や紀州を経て分散して畿内へ入り、大和へ入ったものであることは筆者でも何度か書いている。同じ弥生時代の弥生文化でも、九州と東瀬戸内に微妙な違いが混じっていることは明白である。大和の文化が、最初は九州からだったものが、やがて出雲~吉備ルートからのものへと、その中心を変えていったことは疑う余地はないのである。
その吉備経由の弥生遺物の中で、直弧文、プレ前方後円墳である楯築墳丘墓、そこから出る弧帯文石の意匠と、吉備型土器群(特殊器台と特殊壷)、そしてそれより更に前に大阪に入っている吉備式土器が、畿内で新たな洗練を受けて、その後全国に広まりながら同時に前方後円墳体制も広まった・・・それこそが大和朝廷の成立期に当たる遺物なのだから、当然、記紀にある天皇中心の国家体系も、その前の邪馬台国時代の「ひめみこ=卑弥呼」体制を受けたものなのは当然だ・・・。
なんというご都合主義で、子供のように単純で純真な国家成立論なのだろう。
そしてその前方後円墳体制が、蘇我氏の時代に方墳・八角墳へと変わったのだから、当然、蘇我氏は卑弥呼からの正統性を打ち破った政権であり、革命児だ、と大声で叫んでみせるのである。
蘇我氏が変えた王権こそは、しかしながら、それまでの大王政権から天皇政権への布石として、天武クーデター記事のクッションとして挿入されいるのであり、機内論者が蘇我氏を革命児と認めるということは、それこそが天皇制がそれより前にはなかった・・・つまりは、卑弥呼女王~大王の流れを飛鳥時代が断ち切って、天皇制へと大転換した=前の大王との無関係を認めてしまいかねない危険性を持っていることは決して言わないのである。これが彼らのロジックなのだ。
なぜそんなに疑わないのか不思議でならない。あれほど各論では理性的な古代論を述べている松木や辰巳が、日本の国家成立という大きな流れでは、どうしても大和になってしまう。この「三つ子の魂百まで」の滑稽さはどうだろう。
青谷で九州と在地出雲勢力が戦ったといい始める。ではなぜ彼らのDNAや骨相に中国南部人の形質や南朝鮮人の形質や縄文の形質までもが存在するのかについては言及しない。あくまで北部九州Vs出雲・瀬戸内を脳内に植えつけて、北部九州悪者、当然のその後の衰亡を暗に示そうとする。この流れが考古学にも文献にも見事に合致するのだぞと思わせたい。もしや大和こそが狗奴国かも知れないのに、あくまでも北部九州狗奴国、そして狗奴国は邪馬台国に負けて滅んだとしたい。
ではなにゆに、大和盆地のと大阪湾の間に、出雲からやってきただろう葛城氏の居住地があるのか説明しない。伽耶の鉄を自在に扱った葛城氏の出身を明らかにすることこそが卑弥呼系譜のどこから来たかを言ってくれるはずだが、そこは文献は持ち出さない。
おそらくこれらの推論も、やがて理化学系の分析が破却してゆくだろうと申しておく。
ただ、科学は常に間違う。ひとつの答えを出すのが宿命の理科系学問は、文献や古代の人間の生き様までは問わない。ひたすらドキュメントで答えを導く。そこだけはやはり眉につばをつけて今後聞いていく必要もあるとも付け足しておこう。
まあ、平等だったとは言えない、いつものNHKらしい大雑把な番組だった。あまり信じなくてよかろう。この問題はきっとだが、まだ理科系検証で数百年はかかる話。真に受ける時期にはまだ来ていないのだ。
釘をさしておく。
というわけで、筆者の最近の興味は、古代史から少し距離を置いているのである。私の生きている時間帯では答えは出ないことが明白にわかってきたからである。小説しか書けないほどの資料しかないのでは、論にもならない。
※古墳や寺院の古い尺については、そもそも日本最古の飛鳥寺の創建が、半島三国時代の争乱期に、百済王が新羅や高句麗侵攻に対する援助を倭国に求めるための交換条件だったことから考えれば、そこに高麗尺や漢尺などが使われたはずはないことにすぐ気付いていなければなるまい。また、たとえ4世紀古墳、のちの寺院のほとんどに新井の示す古韓尺の合致を見た(事実合致する)としても、それがその前の3世紀にも使われていたかどうかは、また別に検証されねばなるまい。3世紀に倭が百済とどこまで深く関わったかである。むしろ卑弥呼らはその時代、公孫氏を通じて呉と深く付き合っていたのだからだ。
また神獣鏡の鉛同位体分析の結果が漢の銅ではないことを導いたにしても、では呉や公孫氏がどの銅を使っていたかも別に検証していただきたいのである。公孫氏ならば最寄の銅は当然半島や中国東北部、あるいは足りなければ呉から輸入しただろう。
それらの合金によって神獣鏡と同じ成分ができるかどうか。
銅と鉄についての詳しい生成の歴史や、その分類は新井の本でも、また地球史関連地質著作からも知ることが出来る。ただし・・・非常に難解である。理系分析が大好きな文系であるKawakatuでも、読むとしばらく頭がしびれるほどだ。