あくまでもメモである。また説は仮説である。
このブログの過去記事のすべても仮説のメモである。
それらの走り書きや天啓やメモや仮説が、もし後世当たっていたことがひとつでもあったら、筆者は墓石の中でにやりと笑うだろう。古代史なんぞはそういう類の楽しい空想でできている。小林行雄などはきっとそのとき、墓の中で泣くことだろう。
帥(漢・スイ 和・そつ)
升(漢・ショウ 和・ます)
尺貫法の容量の単位。1升は1斗の10分の1。1合の10倍。約1.8リットル。「一升瓶」
類語 升平・昇平=世の中を平和に治めるヒト
世の中が平和でよく治まっていること。「昇平の世」
米 (漢・まい 和・こめ・よね・め)
1穀物の実。
2こまかいもの。ちいさい。転じて人名では大に対応して小だから、大王に対し王にもなる。引き継いだもの。
日+升でのぼる。日が昇る=今日も平穏無事=平和な治世
升は度量衡を成し遂げた王の意味を持つ。
中国史書に登場する倭人の人名は、卑弥呼が「ひめみこ」、卑弥弓呼が卑弓弥呼で「ひこみこ」の誤記、壹與が「台を与えられたもの」など、それぞれ人名ではなく職名であることから、そのほかの人名もこれに相当する役職や階級を書き残したのではないかと推察可能である。
倭国王帥升=倭国王スイショウ。
難升米=難は「奴国の」=「な」は難の津の地名。升は王。米は王の嫡子。
博多湾周辺は旧くは「な」乃至は「なか」であった。那珂と表記する。難は「海辺」地名で大阪湾もかつては難である。やがて難波と変化。神戸の灘も同じ意味。奴国の「な」はこれである。
都市牛利=都は「伊都国の」、市は「知事」、牛利は漢音でギュウ、呉音でゴ。語義は雨などを牛耳る占者=シャーマン。市民を牛耳り利益を与える乃至は利益を管理する者という意味になる。
つまり古代中国では、外国人の貴種の名は明示しなかった。
多くは役職だけ記録した可能性がある。その際、上記のように、その人の出身地から始めるが、漢風で苗字を一文字にするため、なこくは「難」だけ、いとこくは「都」だけに略したのではないか?
卑弥呼がひみこではなく「ひめみこ」なのは脱字か?ヒコヒメ制度ならば、最初は倭国では男シャーマンと女シャーマンがともに民を管理していたか。
纒向遺跡と箸墓古墳は四世紀の遺跡である(関川尚功説)http://www.bell.jp/pancho/k_diary-15/2015_01_18.htm
纒向遺跡からは
1 大陸の影響を受けた遺物がほとんど出ていない
2 漢鏡も出ない
3 庄内式、布留式土器は四世紀の土器様式である。
4 環濠がない
5 城柵もない
6 桃の種の炭素14年代が3世紀後半を示さない
7 「神殿」があった場所が水路の分岐帯の突端部で、これは水祭祀場である。
8 その神殿様式は東西に並ぶのちの伊勢神宮などの神明造りに似るが、垣根の角がえぐれる鬼門禁忌様式になっており、松阪市宝塚古墳や大阪曽根遺跡などの家型埴輪(水祭祀家屋)の様式に同じである。
清水風邪馬台国説(筆者仮説)
むしろ唐子・鍵遺跡の清水風遺跡から漢鏡は1枚だけだが出ている。
清水風遺跡出土のシャーマンは、可能性として卑弥呼かも知れない。
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唐子鍵遺跡出土シャーマンは女陰まで描かれていた
4が唐子鍵のシャーマン下腹部。
3の清水風のシャーマンは頭がT 字型である。これは鳥のトサカのように髷を結ったのだろう。総じて世界的にも、シャーマンは鳥に変身していた。羽のような衣装で、袖を振り、魂を招魂したか。これを羽振り(はふり)と言う。のちの神職を「ほうり」とも言う。
この卑弥呼乃至は壹與の神事を、わざわざ九州の筑紫野の氏族が墓に絵にしているのが五郎山古墳装飾ではあるまいか?
左側にひざまづく赤い女シャーマン、右端靫の影に黒い男王。霊魂招来を意味する緑色の旗を振る神馬に乗る男が弓を射ている。下にもがり船と太陽。すべてが祖霊招魂の水祭祀を示す。
神獣鏡の絵柄は華北の鏡模様ではない。
それはむしろ華南、つまり長江流域の絵柄であり、中国北部では呉と結託していた公孫氏も好むだろう絵柄だ。
それを、魏に朝貢して鏡を得た卑弥呼の子孫らが後生大事にコピーしているのは矛盾する。それではまるで体は魏に朝貢しつつ、心はいまだ呉にあると言っているようなもの。畿内の4世紀以後の、つまり壹與の時代の豪族たちが、墓にコピー神獣鏡を大量に副葬するというのは、どう考えても奇妙な風習である。
つまり、彼らはすでに魏や晋に心服した邪馬台国の住民ではなくなっていた可能性がある。それはむしろ狗奴国の風習だったのではないか?だから大和は狗奴国によって邪馬台国が服属する国家になった?それが最初の協和的共存だったのではないか?
日本の装飾古墳の幾何学模様は、アフリカなどでは数千年も前の原始人が描いていた次元の絵文字
アフリカや中国江南の紀元前の幾何学模様が存在する。いやアフリカではサン(ブッシュマン)などはすでに一万年前には壁画を描いていた。そういう絵柄に酷似するような幾何学模様を日本の5世紀の古代人が墓に描いている。ラスコーやアルタミラの壁画などはネアンデルタール人もが描いたのである。
これはいかに日本列島が孤立して、陸封されてきた時間が長かったかということになる。それ以前の縄文時代や先土器時代にはこうした壁画は存在しない。土器そのものの形象の突飛性はあるが、ふたつの間には脈絡はまったくない。弥生の渡来がなければ、日本人はいつまでも縄文生活をしていたことになる。やっと古墳時代になって、絵を描く葬礼が始まっているのである。
ペッツィンガー『最古の文字なのか? 氷河期の洞窟に残された32の記号謎を解く』より
それにしても弥生以降の日本人の高い芸術性は、反面で、われわれが一旦取り込んだものをいかに発展、洗練するにたけているかも証明する。日本の文化文明は、ほかの世界とは違い、実に短期間で世界レベルに到達し、凌駕し、ぬきさるところに真骨頂がある。世界が30万年かけて到達した洗練に、わずか2000年で追いつき、抜き去り、しかもさらにそれをディフォルメしてしまった。
古代史研究者は、かなり目からうろこを落とさなければならない。
頭が古臭いのは畿内論者ばかりではない。われわれもまだ旧いのだ。
脳内はつねにリフレッシュしていかなくちゃ。