森下章司が近年、論考の中で中国で見つかった三角縁神獣鏡が斜縁鏡だったと書いている。
斜縁鏡はサイズも14センチ代と、三角縁の平均22センチ強よりもずっとちいさい。
中国河南省で露店で売られていたという二級資料でしかない神獣鏡。
斜縁神獣鏡と三角縁神獣鏡を、初めて異なる鏡式として分離したのは梅原末治である。
その後の分析で斜縁と三角縁では、鉛同位体分析で
「三角縁神獣鏡は、斜縁二神二獣鏡よりも庄内・古墳早期(四世紀古墳早期)の製鏡に近い数値となった。」
参考→二つの鏡の鉛同位体分析数値に大きな違いhttp://yamatai.cside.com/katudou/kiroku268.htm
「墓から出てくる三角縁神獣鏡について土器で年代がわかる例を見ると、四世紀の「布留式土器」と近畿で呼んでいる土器と出てくる例はありますが、その前の、三世紀の土器といっしょに出てくる例は一つもない。それは埋葬年代を示すのであって、製作年代は示さないということはあるんでしょうが、それにしても、ひとつもないのはおかしい。新しいんだろう。」 石野博信
考古学の土器編年でも、四世紀の布留式土器と一緒に出てくる三角縁神獣鏡が卑弥呼の時代の鏡とは「どうしても大和が最初といいたくて仕方がない、畿内学者の間でさえ」すでに考えられてはいないのである。
金属学の専門家の新井宏の詳細な鉛同位体分析では、三角縁の鉛は国産あるいは帯方郡周辺のものと判明。中国の鉛ではないことが明確になった。著作の中で理化学的分析の結論として1に「三角縁神獣鏡は魏鏡ではない」と明記した。それは同笵、舶載、踏み返しのすべてを事細かに分類し、分析した上での結論である。
故人の悪口をいいたいわけではないが、残念ながらスプリング8を使った泉屋博古館の鉛同位体分析は三角縁の同笵鏡や舶載鏡といった違いにとんちゃくしない分析で、それが国産だとしてしまったところには、どうもやはり古くからの小林学派の恣意的捏造を感じざるを得ない。『邪馬台国が見えた』と嘯いた彼らの思い(「邪馬台国が見える」とかつて言った吉野ヶ里発掘高島忠平と九州考古学への大和からの仕返し、怨念^^;である)は、「邪馬台国をみせてやろか?それは絶対大和なのや!!」という戦後からの至上主義によって、多くの捏造を重ねてきた結果、近畿の学者研究者全体に「小林イズム」がいまだに影響をあたえているのだとしか思えない。今後、歴博をはじめとするすべての近畿考古学・文献史学の学派・学閥出身者は信用しないのがよかろう。
森下が三角縁の絵柄の源泉かと考える四川の三段式神仙鏡
今考古学では卑弥呼の鏡最有力候補は画文帯神獣鏡だと言われ始めている。それでいいかという試行錯誤は、しかしまだ終わったわけではない。江南に多いこの鏡の絵柄は、三角縁などの神獣鏡が持っている神仙画像の原像とも言える母が乳児を抱きかかえる姿など、少し卑近なものになっている。道教のはじまりは蜀からだとされている。神仙・神獣などの神仙思想はそもそも長江文明人が持ってきた太古からの神秘的不老不死へのあこがれが影響して生まれる。それが呉、そして公孫氏へ。そして倭では特に「大和の人々が」これを主に取り込んだわけである。
しかしそのデザインを、魏に朝貢した卑弥呼らが魏王に要求するというのは極めて不合理ではあるまいか?なぜそんな単純明快な部分に、過去の京大史学が気がつかなかったのだろう?というよりも、彼らはわかっていてそれを無視せねばならなかったのではないのか?
理性的で科学を愛した魏の曹操は厳格な宰相。その流れの中で、どうして対立した呉や蜀や公孫氏燕に基のある信仰の絵柄の鏡を、作ったり、渡したりするだろうか?ありえまい。
つまり三角縁と卑弥呼の鏡とし、それを3世紀の、生まれたばかりの大和国家が、全国に分配した・・・といい続けた小林やらの、おぞましきおおうそつき学派の流れが、日本史を捏造してきたということである。
鏡の様式別分布図(森下)
三段式神仙鏡の分布
画文帯神獣鏡の分布
徐州系鏡の分布
魏・晋鏡の分布
呉・西晋鏡の分布
じいっと見つめていたら、卑弥呼の鏡がなんだったか見えてくる。
見えない?そりゃだめだわ。古代史やめなせえ。