前方後円墳というのはですね、纒向に大きな祭祀都市ができ始めて、わずか2~30年の短い期間に突如登場したんです。それはあとの時代の方墳・上円下方墳への切り替わりよりも劇的な変化でした。いったい近畿で、そのとき何が起きていたのかですね。
九州が3世紀前半まで、圧倒的に権威的遺物を持ち、鉄器も、漢鏡も圧倒的な数量を持ちえていた。それが徐々に衰亡していくと、まず吉備・讃岐・阿波を経て大阪湾に池上曽根が登場し、大和に唐子鍵。どちらも吉野ヶ里のような環濠大集落です。これが3世紀中旬までの大和。そこから後期に入ると急に纒向にプレ前方後円墳が登場します。その直前に同様の纒向型と言われる、しかし大和とは少し違う、前方部の長い実験墳墓がいくつか四国の讃岐や阿波に登場します。いくらかのたくさんの鉄器も備えた軍事小国家です。これはたぶん、纒向型試作品よりも早い。だから纒向の前に東瀬戸内だったんだろう。その前が吉備、その前は出雲です。その又前が筑紫ということになります。
ただし、筑紫以外のどの地域も、大陸や他の地域を意識したヒエラルキー的なそれこそが「超大量の」鉄器や銅鏡は持っておらず、あってもその量は全部が筑紫の出土品の百分の一程度。しかも筑紫の墓にはその巨大化したものが出てきます。鉄のはさみも銅鏡もひとまわり大きいのです。これはわざわざ作った。実用品とは別にですから、総合力に格段の違いがありました。ほかとは比較にならないのです。その理由の第一は、大和や瀬戸内と違い、筑紫は目の前が大陸だったからです。実戦が念頭にある世界です。しかし東瀬戸内から関東に至るまで、すべてに実戦意識はないのです。ここがただ金属器が山ほど出るだけではない、意識ですね、その違いがある。だから筑紫はその当時まで明確に国家でした。しかしほかは全部違います。
現代のアメリカの軍事力がこれに似ています。
アメリカの軍事力はだんとつのNo,1で、2位から10位までのロシア、中国、フランス、英国それに日本や韓国まで含めて全部足しても、まだアメリカの半分にも満たないわけです。3世紀前半までの倭が、まさにそういう状況です。筑紫の軍事遺物の数量は桁が違います。鏡も巨大だし、小さいのはほとんどが漢鏡です。これほどの差があるのに、いきなり3世紀後半に纒向が出現する。そしてその後の祭祀上の政治性は大和が牛耳っていく。
これはいったい?
という悩みのうちに年末になり、あのピコ太郎がネット上に出現したとき、「あれ?」でした。
円墳~~、方墳~~~、フン!前方後円墳。
これはある異文化とある異文化の合体が起こったのではないか?だれでも一度はそう考えます。例えば狗奴国と女王国(邪馬台国」の大和における「フン!!」があったのではないか?ですね。
しかもその後の5世紀には河内に巨大な「フン!!」が出現します。単純な二大勢力の合体では終わっていません。この王権も、なぜか知らぬが前方後円墳を採用し、しかもさらなる大型化をしています。まるで漫画みたいにでっかい墳墓を、あはははははははははははははっは、
と笑うしかないほどの規模で作った。そして宋に朝貢しました。
前方後円墳~~~、前方後円墳~~~、フン!巨大古墳 です。
みなさん、気付いておられる知りませんが、中国の史書で日本のことを「倭国」伝と「国」として認めたのはこの宋の王からです。その前の魏志ではまだ「倭人」伝です。つまり卑弥呼も臺與も女王とは書かれてますが、それが筑紫にあろうが大和にあろうが「国」とは認められてはおらんのです。
これが『日本書紀』ですとどうでしょうか?
『日本書紀』本文には一切、「朝貢」という言葉や表現がありません。ただ、神功皇后の注として「朝貢した」と書かれるだけです。
これは『日本書紀』の対外自意識を実に見事に表しているのです。中国に朝貢なんぞわれわれの日本国はしていないのだ、神功皇后つまり女酋長だった卑弥呼だけがそういうことをしたのだ。です。だから倭五王の朝貢すら書かれません。無視している。
しかし卑弥呼のような、天皇政権とは無関係だった馬の骨女王ならば、そういうことはしても仕方がない・・・=われわれとは無関係な地方土着の原住民のやったことだから、でしょう。しかしならばなぜわざわざ神功皇后の事跡を書くのか?そこに魏志の倭人伝の朝貢記事を脚注とは言え持ち込んだのか?それは女帝の確かな前例だったからですし、中国に対しても、あなたがたは女王を認めているじゃないかという前例にできます。するとそれはそのまま国内異分子への女帝擁立の正統性になるわけです。
さて古墳ですが、では方墳や円墳が前方後円墳の前に存在したでしょうか?実はないのです。だから前方後円墳が狗奴国と邪馬台国の共立的合体というのは間違いです。
方墳と円墳が合体したのではなく、あれは道教的な方円思想なのです。つまり陰陽です。寺澤薫が取り違えている直線と曲線の合体=陰陽思想ではだめなのです。弧文・弧帯文・直弧文はもっと冷静にデザインを解析しなくてはなりません。まず最初にああいう形に墓ができていったのは、そこに陰陽思想があり、それが神獣鏡の意匠にもある母と父ですね、これが陰陽で、これは寺澤が言うように「陰陽合して万物を生み出す」です。だから円と方が合わさってあの形は母親の胎内を表すことになった。死して母体へ返り、再生する。それが新生児であるという円環思想です。これは縄文の思想です。
円墳や方墳はそのあとの古墳時代中期以後に出現します。出雲の四隅突出型ですか?あれは方墳ではない。四神が四至(しいし)の隅にいるという相応思想です。のちに「戌亥の隅」とか「北東の鬼門」へと発展する思想です。ですから四遇が「足れる足」の形になっています。のちのY字型聖地、木俣の神と同じ生命がそこに再生するです。そこから墓に足がつく。吉備楯築のようなほそ長い足がつく。基本は同じでしょうが。
前方後円墳~~~、前方後方墳~~~~、フン! 円墳・方墳 なのです。肩透かしですね。
そのあと、蘇我氏の方墳、階段墳が来て、古墳時代が終わります。フン!墳!フン。
ここで神道が何かを語ってみましょう。それは古代の思想です。それは原始信仰であり世界で共通です。そこから日本はあまり変わっていません。仏教ははいっても、それも古代からの原始信仰と習合してしまいました。で、西欧合理主義を柱にする明治政府は、これを解体し、再び神道と天皇中心の「キリスト教世界にない、日本だけの唯一の崇高な形式」と強く主張しました。しかし科学者から見れば、明治当時でも、神道は原始信仰の残照でしかありません。それを明治以後の軍部は圧倒的な武力で恐喝し、恫喝し、恐れおののかせることで無理やりにこれを戦争の理由=単一民族説でおぎないます。
おかげでぼくのご先祖のお寺も焼かれ、祖父は鎌倉時代から続いた祭祀者としてのアイデンティティそのものを奪われてしまいます。これが廃仏毀釈でした。
県史によれば、それ以前の明治維新の時期でも、ご先祖さまは神社と寺の宝物を海に隠そうとしたりしています。結局、寺は焼かれ、神社祭祀者からも追放されました。
ですから筆者Kawakatuは、信仰はさておき、宗教に嫌悪感を持ってしまうことになりました。ですからぼくに対して絶対に宗教とか祭祀の話は持ってこないで欲しいのです。嫌悪感しかありませんから。
ゆえにぼくは科学的な客観的分析を選ぶようにしています。ココロとは関係ナシに、無理やりそうしているのです。宗教や信仰を私は分析はします。しかし愛してはいないのです。
纒向では紅花や、最近ではバジルの種が見つかっています。
紅花は口紅や油で有名ですが、纒向神殿遺跡では朱塗りの建材が見つかりますので、たぶんそれに使われたんでしょう。バジルはハーブですが、たぶん薬用。紅花には薬用効果も期待されたでしょう。桃の種にしてもそうですが、あれほど中国の陰陽思想の薬物種を仕入れたのに、鉄器も銅器も、あきれるくらい出ない。それは纒向が筑紫のような軍隊、政治、ヒエラルキーで分断され、伊都国王、奴国王など複数王が同居したせめぎあい世界だったに比べて、まことにあんあんのんのんとしたよりあい所帯であり、道教的な鬼道だけが頼りの、極めて国家としての緊張感のない=見るあるもの少なし=祭祀世界だったとしか思えません。つまり言うならば現実がない虚像のような世界です。トランプのポピュリズムにも近い。それが軍隊を持った筑紫その他を牛耳ったということですか?
しかし決定的にこれだけはネックです。一大率は女王国の北にあるのです。もし大和の北となるとそれは北陸にあったことになり、魏志の言っている伊都国に置いたとという記事に完璧に矛盾してしまうのです。どうしますか?