従来、古墳時代(3世紀末~6世紀半ばの設定)は温暖であったと考えられてきた。それは山内清男などが唱えたように、歴史記録に基づいたピアスンの海面変動曲線やC⑭測定法に基づくフェアブリッジの海面変動曲線を参考に、北欧のダンケルク第二海進が日本の3~4世紀にも影響したからだとされてきた。この時期に静岡の登呂遺跡や瓜郷(うりごう)などの遺跡が消えたことや、記録にある倭の五王の治水工事からも正論とされてきた。
しかし1970年代から、花粉や年縞の分析の精度が高まり、古墳時代は前後の時代より寒冷であったことが言われるようになった。山本武夫は記紀の仁徳時代の大古墳工事や『三国史記』にある旱魃・冷夏・洪水の少ない年がほぼ一致することから、仁徳の即位期間をピークに温暖だが、これはフェアブリッジのポスト・ローマ海進期(400年代)にうまく合致すると言い、しかしその前後には海退期があって特に2世紀のローマ・フロリダ海退期は前古未曾有の寒冷期と捉えている(「気候と歴史」『気候と文明、気候と歴史』1978)。この期間には、中国では黄巾の乱、日本では「倭国大乱」が起きている。
吉野正敏も中国・日本の資料から同様の結論を導いている(「歴史時代における日本の古気候」『気象』1983)。
ここから北原糸子は、記紀、崇神天皇紀にある三輪の祟り神・大物主の出現や、天理図書館蔵の宝亀三年十二月十九日官符にある出雲伊波比(いわい)神の祟り記事、あるいは『本朝月令』が引用する『山城国風土記』逸文の賀茂神の祟りなどなどを引いて、それらの古墳時代に相当する時代の祟り神の登場と、その鎮魂ノウハウ記事が、古墳期の寒冷化を背景に描かれる可能性を語っている(『日本災害史』2006)。
※もっとも記紀は8世紀の史書であり、400年も前の気候による祟り神登場や治水工事記録が正しく当時の記憶から描かれたかどうかは筆者はなんとも言えないと見ている。例えば崇神時代に造られた狭山池は、考古学の発掘では推古時代の工事だったとされた。『日本書紀』は特に、推古前後の事跡を前倒しして飛鳥以前の記事に仕立てた可能性が高いとも考えられる。ただ、気候という点では、確かに大古墳造営の始まりを、寒冷期や洪水期の災害による稲作・畑作の停滞があったと見れば、大古墳はエジプトのピラミッド同様、それに代わる公共事業だったと捉える方法もあるだろうとは考える。
阪口豊はもっと精密な資料で語る。尾瀬ヶ原のピート=泥炭柱からハイマツ・ヒメコマツの花粉量を調べ上げ「BC398年に始まる弥生温暖期は(AD)17年に至って急に寒冷化し、17年~240年の移行期を経て732年に至る長い寒冷期を迎える。この寒冷期は、390年の一時的な中休みによって二期に分けられ、気温は前期で270年、後期では510年ごろに最も落ち込む。特に前期は著しい。720年を過ぎると気温は上昇し、780年でそのピークに達する」(『尾瀬ヶ原の自然史』1984)という。
環境考古学の安田喜憲は山本の説を積極的に採用し、気候の悪化こそを国家成立の契機と捕らえている。
阪口の資料は山本や吉野の気候変動ともよく合致する。またローマ帝国時代の気候変動とも合致する。現代の冬の大寒波発生も、欧州や北米での大寒波の影響は確かにあると考えられており、地球気象の動きが連動することを証明している。原因は諸説あり、例えば地球の自転や公転が、地表の空気の動きを引き起こすなど意見はあるが、筆者にはよくはわからない。
北原の言う記紀の中の祟り神出現が、記紀が言うその時代の現象と関わって生まれたかはありえる話だが、往古から言われてきた記紀災害記録の年代観が、中国の史記などを手本にまったく踏襲して書かれていることも否定できない。陰陽五行説に準じて年代・月日を決めていたことは間違いがない。夏王禹が治水のために全国を歩き感慨工事した(「史記」)、とか万里をさだめ、度量衡を行い、全土の範囲を決めたとかいう話は、まずは日本の秀吉の事跡や、魏志の倭人伝の方位・里数、日数記事にも影響したし、そもそも日本の中世の軍記も記紀も、そうとうに史記や「捜神記」などの影響を受けていると言ってよかろう。「捜神記」には孫権に自らの奉祭を求める災厄神が登場したりしていて、日本の『日本書紀』の祟り神がそこから取られていることは間違いないらしい。
信長が若いころ「うつけ」だったとか、秀吉が六本指だったとかも、英雄譚の一種であったり、あるいは英雄がその後敗北したり、殺された場合、その人生を貶めて書くのは常である。
平安時代にはやはり食に関する記録に、中国の古い迷信から食い合わせを記録した書物もあった。いわゆる「うなぎと梅干は腹を壊す」といったたぐいの迷信である。
気候が悪くなると当然、農作物は実りが悪くなるし、乾燥は雨水が減り、雨乞い、亀卜などの記事が増えるのは当然である。ただ、それが本当にその時代にあったことかどうかは、よく検討する必要がある。
崇神天皇の時代は、ちょうど邪馬台国の臺與のあたりの時代なので、かなり天候が悪く、いくつもの地異や災厄神が登場し、さらには宮中の神々を遠くへ追いやったことも書かれている。それはアマテラスと大国魂であるが、そのことはこの二つの祭神が、藤原政権ではそもそも大王が祭ってきた神かどうかにまで疑問があることを匂わせていることが推測可能である。太陽神を一神教として天皇家の先祖神とするのは、摂政藤原氏家(不比等)にとっては実はあまり心地よくはなかったのではないか?それは持統女帝を筆頭とする傀儡王家のためには必要だったが、では天武・持統の死後、それほど伊勢や大国魂に丁重な祭祀を天皇家が示したようにも見受けられない。
伊勢などは、宮中よりもむしろ江戸幕府が、いや町民が自らの意志で、この女神を旅行の方便に使っていた気配が濃厚で、天皇の行幸記事がないのである。
それは気候がよくなってから太陽神への尊崇が薄れたからだともとらえられようが。
ただ欽明朝には、前の継体王家の最後がばたついたためという名目で、日置・日祀部が置かれており、なにかあると決まって誤魔化すかのようにアマテラスが持ち出されたことはあるようだ。つまり継体朝がなにごとかあって滅びてしまう、そのことを祭祀で誤魔化すとか、あるいは同じように、蘇我氏をやってしまったあとに、怨霊が出たとか、古墳の体裁を大きく変えたとか、気候変動とか、いろいろ言い訳があって、王朝が大きく切り替わったことを隠したかったようだ。
その結果として、奈良時代には今度は藤原家そのものが道真の怨霊によって死んでしまい、因果応報のようにされているのも実に不思議なのである。
なお、祟りの語源は「立つ現る あちあれる」であろう。「あれ」とは神などが顕現することであり、「立ち」も霊や神がそこに立つことである。また同音異語に【絡垜】があるが、これは糸を巻くときに使う道具である。糸がからみつかぬようにする道具。つまり「からみつかれぬようにする道具」で「苧環=糸巻き」とセットなのである。だから「たたりたたり」はその器具の音からきたかもしれない。おだまきは三輪神話でも登場する。また同様の道具に機織用の「ヒ」があるが、こういう機織関連に言葉がいつも心霊や祟り神と関わる理由は、女性がもくもくとそれらを使って作業する行為そのものに呪性を感じたからであろう。なぜなら男性はそれが苦手だからだ。そこに怨念と似通うものを男たちは見るのかも知れぬ。
『肥前国風土記』基肄郡の条にそのたたりが登場する。
「かぜこ」の荒ぶる神平定記事で、夢の中で「絡垜」と「臥機 くつびき」に押さえつけられるとある。つまり悪夢であるが、くつびきも機織の道具である。一端を機械のまねきにつけ、他の一端を織る人の足につけて、足の屈伸で綜(あぜ)を操るための麻縄。すそお。なにやらい~~~っとなりそうないらっとする道具だ。そのはず「くつわ」「沓」とか「かせ」などと同じく、あの世にも通じる語でもあった。
かぜこは宗像のシャーマンで、幡を風に乗せてよき土地を占ったという。ま、そういうことである。
何かの参考にはなるかと書き置いた。