いろいろ考えたあげくだが、結局、いろいろ筆者が仮説を言うよりも、資料から、みなさんがいろいろ想像したほうがいいだろうと結論。
恭仁京にはもともとカモ氏と秦氏、各種半島由来氏族が住まっていたこと。
彼らは大和の葛城の御所市あたりから移住しただろうこと。
長岡京の乙訓郡や久我郡、紫香楽などが彼ら渡来系氏族が開発した土地だったこと。
時代を追って、聖武も桓武も、彼らが切り開いた土地に次から次に遷都していくが、完成するとすぐにそれを捨て去ること。
などなどから、
彼らが王族に利用されたうえで、追い出されて移住していかねばならなかった「敗者」であること。
などはあきらかだと。
それは桓武が利用した枚方の百済王氏の娘(桓武初恋の相手)もやはり、聖武時代から出羽の金の供出などで同じ扱い。
出雲臣氏は、京都の出町周辺、高野川と鴨川の外周にもともといた氏族だ。そこ鴨氏と秦氏はやってくるが、鴨氏は出雲臣とは婚姻がなく、秦氏は婚姻している。それは鴨氏がそもそも出雲~大和葛城において、出雲の神を管理する氏族だったからだろう。
鴨氏が「かも」を名乗るのは彼らが名負いの「水取り部 もいとりべ」に任じられて以降であろう。「みずとり」=水鳥で「カモ」を代表とした。それを「神山」があるので「神」からだというのは、神山の名のほうが後付けであるに違いない。鴨氏は大和で三輪氏と同族化しており、ゆえに三輪の大物主と同じ丹塗矢伝説を持った。京都で秦氏と婚姻することで、大三輪の丹塗矢伝説は松尾の秦氏にも受け継がれる。松尾秦氏は伽耶滅亡後に、宗像、出雲、吉備、讃岐、播磨、摂津経由で山城に入る。
そこにいた出雲臣は、出雲から亀岡(口丹波)経由で保津川を下り賀茂、高野に先住していた。当然、松尾の壱岐氏も、大原野の大江腹土師氏も、出雲経由で入っただろう。そこに秦氏や鴨氏が入る。
出町に東に小野氏が住まっていた。比叡山の麓に本拠を移したゆえに、婚姻関係があった松尾の祭神に、日枝の大山咋があり、出雲・壱岐氏を通じて宗像氏の女神も祭られた。
聖武の遷都は、普通、藤原広嗣の九州での反乱を契機に始まるとされるが、実は聖武が遷都を始めたときに、すでに乱は収まっている。祖父天武のまねをして東国巡行したのは確かに藤原×橘の勢力争いがきっかけだろうが、このとき聖武は天武のまねをしてクーデター的な行動をするつもりだっだろう。そして広ツグの乱が収まると、かつての孝徳天皇のように海岸部の難波に宮を作る。しかし、その後ハヤトや蝦夷の紛争がきざしをみせると、すぐに内陸の紫香楽へ、これはまた旧くは天智天皇の近江京を真似たかのような移動。ここで大仏を作り始めたが、すぐに今度は木津川に、まるで継体大王の葛葉~木津川~乙訓という故事のような移動をしてみせた。
それらの宮の建立に、必ず加茂神社、秦氏の開発が関わっている。
桓武も長岡京から平安京と、秦氏が開発し、鴨氏、出雲氏族らがかかわった土地を奪っては宮にする。
まるで敗者、渡来、出雲、伽耶由来氏族の「追いやり」ばかりである。そのつど、彼らは移住していかざるを得ない。
今回、金正男の殺害を見て、ああ、あそこはまるで日本の飛鳥時代だと見えた。
天武の子孫を次々に暗殺し、結局天智の直系が平安京を作るというあの時代。また、蘇我三代による方墳王権が前方後円墳王権(卑弥呼から継体まで)をひっくりかえして、それがまた小さな古墳の天皇王権によって暗殺される・・・三代目入鹿はまさに三代目正恩か?など。しかも彼は先先代、先代の直系ではなかった可能性。桓武に似て富士山の血脈ー在日日本人の母。まるで日本における百済王族子孫・高野新笠の子桓武である。
いろいろ考えさせられた。古代世襲王権の作られ方の参考になる。
要するに、今の北を見ていると、古墳時代~飛鳥~奈良~平安がよく見える。
すると朝鮮の将来もまた見えてくるのではないか?武士と言う別の王権にのっとられていった日本の中世~近世が彼らにも待ち受ける?
面白い。