京都には学生時代から何年も住んだ。
卒業後、大阪府の枚方市から八幡市へ移って、10年は大阪で働いたが、その後はずっと京都で働いた。八幡市の木津川沿いに会社があって、向島と桂の支店を管理させていただき、さらに丹後の宮津と西舞鶴、峰山町、兵庫の高砂、岡山にも支店ができて、行動範囲は広がった。
八幡市から桂へは、淀川にかかる御幸橋を渡って旧京阪国道京都~守口線を利用した。向島へは木津川の背割り堤から東一口(いもあらい)という豊臣時代往古の巨椋池コースを使った。
八幡から桂のコースは、御幸橋を淀競馬場の手前で橋を渡り、長岡京、向日市を抜け、久我(こが)、鶏冠井(かいで)町から羽束師(はつかし)という道順。今考えてみると、秦氏、鴨氏、土師氏などの、山城ゆかりの氏族が住まう地域を通っていたわけである。
桂離宮のすぐ北は、もう葛野、松尾である。そのまま土手を北上すればいわゆる渡月橋に至る。
鶏冠井は「かいで」と読むが、もともと「かえで」である。「かえるで」。長岡京の大内裏はここにあった。中国の宮城周囲にはカエデ・・・とは言っても中国では三つ葉の楓の木(ふうのき)であるが、それをぐるっと植える風習があって、長岡京も平安京も、まず楓を植えた逸話がある。平安京は嵯峨野に聖徳太子が楓を植えたので、「楓野」。そこに楓の甘い樹液を求めるミツバチやスズメバチが集まるので蜂岡と呼ばれた。つまり今の広隆寺の北側が今でも蜂岡町となっておる。長岡京の場合も、この「かいで町」にゆかりの楓園が作られている。
羽束師は「はぢーかし」で、土師氏の河岸が地名になっていて、京都では最初の河の合流地である。ここで南下してくる鴨川と桂川が合流するので、いいはにつちが生まれる。「はじ」はつまり土師器の「はじ」でもあり、土器を作るよい土は、この鳥羽伏見一帯でうまれて、土師氏らの女子によって土器になり、平安時代になっても伏見の深草でそれが売られた。その商店街が今の直違橋(すじかいばし)本町商店街である。だから「深草」は土器を売る女のスラングであった。
同じように土師部の女というと大原野~西ノ京の花売りである。「花いらんかえー」は、しかしまた「花を売る」=ヨタカ、売春の隠語でもあった。西の大原野も、修学院がある北の大原も、春をひさぐ女がいたのだろう。もっとも北の大原女は、おたぎの薪をひさぐもので有名になったが。頭に「しば」を乗せて売り歩いた。大原野は花の京とも呼ばれ、花農家が多かったようだ。ただし、大原野~老の坂は大枝土師氏管理者が住まう墓所で著名である。高野新笠とその夫の古墳もここにある。
高野新笠の父は大和に入った百済王族で倭(やまと)氏である。そのむすめがなぜか土師氏にとついで新笠が生まれ、これまたなぜか桓武天皇を生むこととなる。
久我は「こが」と読んで、女優・久我美子はこの子孫である。久我神社には鴨氏が大いに関わる。北の出雲郷にカモ神社があるのと同様、久我も河川の合流地で、鴨氏が大和葛城から 恭仁加茂町を経て、ここに入り、最終的に平安京遷都とともに鴨川と高野川の合流する河合の地に定着したというのは、カモ一族のひとつの移住コースだったろう。ただし、河合のさらに北に上賀茂があることは、鴨氏に二種の種族があったとも考えうる。
上賀茂の鴨氏が先住出雲族の管理者だったとするならば、大和の葛城鴨がイズモの八重事代主を祭ることと矛盾しない。しかし下鴨の鴨氏には、秦氏との婚姻がまとわるし、松尾秦氏と深く関わるし、また松尾には宗像の女神と、日枝の和邇氏(小野・粟田氏)の祭る大山咋神の二神が祭られ、秦氏が水を牛耳った治水氏族だということとも矛盾がない。つまり上下鴨氏は「水」を司るという意味で共通で、それはイズモでスサノヲが斐伊川を牛耳ったこととも矛盾しない。だから京都における鴨氏祖神の話よりも、葛城におけるアジスキタカヒコネや宗像タケミナカタや事代主などの出雲葛城族で彼らを考えたほうが、話は見えやすくなる。だから鴨氏も葛城氏同様に、伽耶に関わる豪族だったと筆者は考えている。
そうすると京都で、あるいは葛城で、秦氏と鴨氏が婚姻するのは必然的なのであり、「かつら」「かどの」「かづらき」といった「葛」地名の共通性は理解しやすい。
この桂地域に物集があり、もとは物集女地名で、それが物集女土師氏、紀氏、壱岐氏を見事につなぐ。いわゆる物集古墳群で出てくる土器の模様に、和歌山紀の川河口部で出る様式(淡輪式)が反映されている理由が、紀ノ川の淡輪(たんのわ)古墳群の紀氏に求められるのである。紀氏と土師氏は紀ノ川ですでにえにしがあり、土師氏は土器を焼き、埴輪を作り、古墳を造営する、出雲から来た氏族だった。
そしてその紀ノ川の北部の泉州こそは須恵器集団だっ大三輪氏=神氏の入った土地だった。それが大和の三輪山祭祀をするわけで、松尾の秦氏が言う玉依姫は実は三輪の姫であり、それが三輪山の大物主と婚姻する丹塗矢伝説の河とは、つまり京都の鳥羽の二股の土地である羽束師でもよいわけである。もちろん河合でもよいのだ。
こうして桂から丹波街道を使って筆者は丹後へ走る日々を数年過ごすことになった。9号線、丹後自動車道で、天橋立、大江山、加悦町、与謝を往復し、丹後から高砂、岡山へもよく飛んだ。それが古代史の重要な道であることに、ずっとあとになって気がついたのであった。
次回、向島と観月橋、徳川大名屋敷と桃山大手筋。