八幡市から向島、桃山御陵へ行くには、京阪国道(旧国道1号線、現在は国道13号線)の八幡御幸橋を渡って背割堤(せわりてい)を左に見て木津川、あるいは少し先の宇治川の土手を右折し、土手を東へ進めば東一口(ひがしいもあらい)に達する。そこはかつての巨椋池(おぐらいけ)湿地帯の西の端である。
御幸(ごこう)橋は後村上天皇行宮跡碑から考えて、おそらく天皇の岩清水八幡宮行幸のためにかけられた橋であろうと思うが、記録では明治時代の架橋記録しかないので、なんとも言えない。淀川をはさんで、往古には八幡の橋本から大山崎に日本三古橋(ほかは宇治橋・瀬田橋)と言われる山崎橋がかかっていたが、今はない(行基の改修は有名)。山崎橋は八幡の岩清水八幡宮と、対岸の乙訓郡長岡京をつなぐ大橋だったという。WIKI山崎橋
橋本の地名はこの橋からきている。
橋本は江戸時代は遊郭があったところで、今も格子のある旅籠家屋の見られる旧京街道に面している。歩くにはいい街道である。
復元された遊郭家屋
御幸橋
宇治川の土手を東へゆくと久御山町一口である。一口と書いて「いもあらい」であるわけは、ここに古代の鋳物師(いもじ)がいたからであろう。鋳物(いもの)は水で冷却して冷やすことで強くなる。それをなぜ「一口」と書くのかは、諸説ある。
一説では「いも」とは疱瘡の「疣=いぼ」で、それを洗ったからだも言う。
ただ、「いぼ」地名では播磨秦氏に深く関わった揖保郡地名があって、大阪府三島地域には神功皇后と顔面に疣があったと言う安曇磯良(あずみのいそら)を祭る疣神社があり、岐阜にも揖斐川があるので、異母、つまり日本人原種とは違う渡来系地名でもあろう。その中に、日本にたたら製鉄を伝えた人々があり、鋳物師をいもじと言うのも、おそらく「いぼ=いもの(鋳物には装飾の疣イボがたくさんつけられる)」からだろう。
たたらの作りは四角の土の箱で鉄などを焼き、溶けた鉄は土の箱のはじにしつらえてあるひとつの口から流れ出す。ひとくちとはだから溶解した金属が流れ出す唯一の口なのであり、技術者がそこに製鉄、精錬という命をかけた作業の聖なる部分としたのは当然だろう。真っ赤に溶けた金属が、そこから流れ出し、やがては仏像や刀などの神聖な一品へと変化する。この製鉄のなかの一大変化する過程の象徴的な場所が、たとえば川の流れの瀬のような、狭く、集中する・・・気の集まるところとしての聖地だったのではないか。その一口が、金属加工物=大地の子=カグツチの、生命の生まれる場所だったのだろう。それは鍛冶屋・鋳物師にとっての、イザナミの「ほと」=ヴァギナだったのである。
「巨椋池 おぐらいけ」には往古は名前がなかった。それは池というよりも鴨川・桂川、宇治川、そして木津川の三川合流によって集まる水の作り出した、決壊の残照であり、水力の圧力による必然の爆発緩衝地帯なのだった。おぐらはもと「おおくら」であり、巨大な窪み地名である。それが小椋となり、小倉となっていった。
この小倉には、弥生時代から渡来遺跡がたくさんある。オンドルがしつらえた住居遺跡ゆえにそれらが3世紀弥生時代からの渡来人来訪があったことを語る。やがて彼ら技術者の中から「小椋 おぐら」を名乗る木地師一族が現れるが、彼らは近江永源寺からやってみた氏族であろうと思われ、渡来技術者たちに、そういう、移住地選択の情報が弥生時代の渡来民から伝えられる適地というべき情報があったことがしのばれる。(歌手小椋佳の小椋は彼が幼少時に住んだ小椋地名をとったもので、本人は小椋木地師一族とは関係がないと、かつてTVで語っていた出自説明からわかった。)
ただ、この地は京都の古い郡名では、なぜか和歌山の紀氏に由来する紀伊郡だった。紀氏がそれほど古い氏族であること、和歌山では、スサノヲの子孫として半島から樹木の種を出雲経由で紀州にまいた、ゆえにそこは木の国となり、やがて地名二文字表記が奈良時代に発布されると木国は紀国となったが、その「き」は関西では「きい」と伸ばして発音され、紀伊となったわけである。その紀伊郡地名がなぜ遠く離れている山代の南部に生まれるか?当然、巨椋周辺に紀氏がやってきたからにほかなるまい。
その元はやはり紀ノ川河口部の淡輪に求められる。これは土器意匠の淡輪と京都物集遺物からわかったことですでに何度かここに書いた。さらに紀州海部の集散した海草郡、さらに四国讃岐、そして吉備~出雲。さらには安曇移動コースとなる佐賀県基肄郡(きいぐん)、大分県国東岐部などが考えられるのである。その先を思えば、当然、任那のあったという伽耶であろう。(国東の岐部に伝わるケベス祭りと大阪の堺市に伝わるえびすを祭る火祭りは非常に類似する。堺といえば大三輪氏の出る陶邑のあった場所で、大分の宇佐に大神氏がいたことと深く関わるだろう。須恵器を作る大三輪氏部民と土器の土師氏に関係もあったろう。三輪とはつまり彼らの「みわ=神」であるが、京都の鴨氏は同じ丹塗矢伝説を持ちながら鴨氏は「かも」であり「かみ」ではない。つまり鴨氏は「かみ」がなまった氏族名とは言いにくいのである。このように紀氏から多くの氏族のヒントが得られる。)
紀氏が葛城同族の武内宿禰末裔氏族であることを考えれば、当然の帰着である。また同じ葛城同族の羽多・羽田・波多氏らが、実はそもそも弓月君子孫伝承を持つ海人族であることから、秦氏が羽多氏、波多氏始祖伝承を、婚姻によって取り込んだと考えるのは中村修也や大和岩雄らである。(太秦の木島神社の三柱鳥居は池の中に立っている。元糺池と呼ばれるこの池は下賀茂神社の糺の森の大元で、それは葛野秦氏の葛野大堰造営を記念するミニチュア版だと考えられる。そこにほかの神秘的意味を求めるのは秦氏の治水事業の記念碑なのであって大きな勘違いだろう。)
葛城氏と秦氏が伽耶日本府の最初から、血縁関係にあった可能性は高い。ゆえこそ、葛城襲津彦が秦氏を連れ帰る記録も存在するのである。
向島、填島など、小椋地域には島地名が多い。それは湿地に浮かぶそこがかつては島だったからである。この湿地を最初に開拓して、周囲に土手を築くのは豊臣秀吉である。京都市内でいえばつまり「御土居 おどい」に当たるような土手を築いて、湿地に橋をかけさせ、往来を楽にした。
秀吉の築いた土手と巨椋池干拓事業図
その後、戦時中には、戦況悪化で食糧不足となった軍部が、この池を埋め立てて稲作のための新田を作ることになる。かつての湿地帯はこうして、今の埋め立てられた新田地域に変化した。
巨椋池の東岸は宇治市、南岸は綴喜郡、相楽郡、そして北岸は京都市伏見区桃山である。桃山には桓武天皇をはじめとして平安時代の天皇陵が集まる。そこを大手筋と言う。ここに城を作ったのが秀吉。いわゆる伏見桃山城である。
筆者には学生時代の懐かしい思い出のデートコースだ。深草、藤森、墨染、丹波橋から桃山へ、よく妻と歩いたものだった。丹波橋の教会で結婚式もあげた。
この地を木幡 こはたと言う。
「こはた」は「許の国の秦」という地名である。「許」は「こ」で、「このくに」よは木の国である。ゆえに池も「許の国の湿地帯」だった。それが巨になり、最終的に「小」になる。それが小倉のゆえんである。旧くは小椋、巨椋。ゆえに巨椋池でおぐらいけ。だから宇治の小椋は秦氏のいたところで、それが北上して紀伊郡深草秦氏になったのであろう。
宇治から桃山への島をつなぐ橋が観月橋である。もとは豊後橋と呼ばれたのは、観月橋の北側に豊後守居宅があったとも、あるいは秀吉が豊後大友氏に端を作らせたからとも言うが、そもそも各地にある丹波橋とか肥後橋地名の由来が各地名を持つ武家が作ったものという例証から、桃山雄周辺が秀吉時代の武家屋敷跡だったからとするのが主流である。
桃山南部には徳川家康居宅をはじめ、全国大名の出張る屋敷が集まっていた。そこを「指月 しづき」と言う。秦氏の月に由来するだろう地名だが、観月橋の名の通り、秀吉はここから名月を眺めたとも伝わる。
桃山のさらに古い史跡といえば神功皇后に関わる御香宮(ごこうのみや)である。この神社は福岡の香椎宮(かしいのみや)から分祀された。つまりそもそもは八幡である。
神功皇后は母方が葛城氏、父方が息長氏であると作られ、その血脈が河内王家の応神天皇を生み、仁徳が生まれた。しかしその墓所はすべて京都とはほど遠い泉州の丘陵地にある。いわゆる大阪府堺市の百舌鳥、古市古墳群である。
百舌鳥地名は当然、その大古墳群を土師氏が造ったからだろうし、古市は遠の飛鳥のあった太子町のアスカに隣接する。そこは葛城氏の金剛葛城山地の西側で、大和と河内を分ける分岐点である。
三世紀、卑弥呼の、あるいはその子孫の邪馬台国が大和纒向にあったとするならば
、河内の大古墳群の大王家は、少なくとも大和纒向にいた旧勢力とはまったく違う氏族だった可能性が高い。いわゆる中国史書の言う「倭の五王」がこれならば、彼らからアスカ王家の間に、『日本書紀』が近江や日本海に出自を置かれた継体大王を置く意味を考えねばならない。そこにあきらかな王統の断絶がある。
邪馬台国の女王が、直接、飛鳥、藤原宮の天武以降の天皇家につながるかどうか、つまりここにはなはだしき疑問点が垣間見えるのである。あいだに河内王権と継体摂津王権を挟み込み、その時間の格差は大きい。
『日本書紀』はそれをこともなげに婚姻でつないでみせているが、さて果たしてそれは正しいのかどうか疑問が多い。
葛城の系譜がいかに重要かがそこにある。時代を経て異なる王権をつなぐための位置に葛城氏は住まっていた。
あとは考えられたい。日本の天皇家が、さて、現代のポピュリストたちが思うような神武以来の皇紀2000年につらなる永続的なものだったか・・・。森友学園の言うような神の国日本であるのかどうか。ちょっとまともに世界の歴史を学べば、そんあことがあろうはずもないこと、神が日本だけのための概念であるのかどうかなど、あなたの常識内で考えればすぐに気がつくはずである。小学生ではあるまいに、神がわずかに一国だけの有利のために存在するはずがないのは、イスラムの中東だけのための絶対と言う奇妙な観念を見たらわかろうはずではないか?神とは地球のすべてのためにあるのであり、どこかの一民族のために有利なほどこしをするはずもないのではないのか?
そのような壊れた思想で考える前に、あの中国でさえ、往古から治世の真奥は道教・儒教・仏教の三者によって互いに補完されあわねばならないと言っている。ひとり神道だけで国家を治めるなどあってはならないのだ。それは北朝鮮的な偏った考え方である。
次回、白川・出町・そして丹後。