定説では葛野大堰のあった場所は桂川の渡月橋の東側沿岸だろうとされている。
しかし筆者は最近、近所の大分川に作られている堰を歩いてみた。
上流部分に段差堰があり、これで水流を弱め、川の真ん中の埋め立てた大きな洲によって水を二つに分け、手前の支流へ弱めた水をいざなう。そこに取水口を設けて土手下にある農地に水路で水を送り込んでいた。
この構造は、河川の流れに逆らわない構造で、引き込んだ支流は写真手前で本流に戻るようになっている。これが葛野大堰の構造と同じだっただろうと思われる。
中国の都江堰も葛野大堰も堤は島状に造られ、水流は下流へと抜けるようになっている。
川の流れは湾どになった曲がりといわれる地形で、堰は外へふくらむところに設けられるのが常道である。そのほうが水をいざないやすい。曲がりの水流は外へいくほどに遅い(ただし重い) ので、遠心力で外の陸地へ出ようとする力が働く。それがやがて蛇行を大きくしていくと三日月湖になる。そういう川が外にふくらんだ地形に堰は作られた。もうすると水の遠心力が緩和されるので東側陸地への氾濫も押さえられる。
ただ、水路遺跡が月読神社の前の河川敷で見つかっていて、大堰が一箇所ではなかったと考えられる。嵐山側農地へも水路は延びていたのである。大堰は川の両岸にあったのではないかと思う。
東側の太秦地区へは小川がいくつも残されており、そっち側だけを考えてしまいがちだが、嵐山山麓の松尾地区にもかつては水路が引かれていたのだろう。
こちらがわには南に乙訓郡があり、大原野から長岡京へつながる土地になる。