巨大古墳順位表(数字は全長)
1 仁徳天皇陵古墳(大山古墳) 486 大阪府堺市堺区大仙町
2 応神天皇陵古墳(誉田御廟山古墳) 425 大阪府羽曳野市誉田
3 履中天皇陵古墳(石津ヶ丘古墳) 365 大阪府堺市西区石津ヶ丘
4 造山古墳 350 岡山県岡山市新庄下
5 河内大塚山古墳 335 大阪府羽曳野市南恵我之荘・松原市西大塚
6 五条野丸山古墳 310 奈良県橿原市見瀬町・五条野町
7 ニサンザイ古墳 300以上 大阪府堺市北区百舌鳥西之町
8 渋谷向山古墳(景行陵) 300 奈良県天理市渋谷町
9 仲姫命陵古墳(仲津山古墳) 290 大阪府藤井寺市沢田
10 作山古墳 286 岡山県総社市三須
2 応神天皇陵古墳(誉田御廟山古墳) 425 大阪府羽曳野市誉田
3 履中天皇陵古墳(石津ヶ丘古墳) 365 大阪府堺市西区石津ヶ丘
4 造山古墳 350 岡山県岡山市新庄下
5 河内大塚山古墳 335 大阪府羽曳野市南恵我之荘・松原市西大塚
6 五条野丸山古墳 310 奈良県橿原市見瀬町・五条野町
7 ニサンザイ古墳 300以上 大阪府堺市北区百舌鳥西之町
8 渋谷向山古墳(景行陵) 300 奈良県天理市渋谷町
9 仲姫命陵古墳(仲津山古墳) 290 大阪府藤井寺市沢田
10 作山古墳 286 岡山県総社市三須
11 箸墓古墳 280 奈良県桜井市箸中
12 五社神古墳(神功陵) 275 奈良県奈良市山陵町
13 ウワナベ古墳 255 奈良県奈良市法華寺町
14 市庭古墳(平城陵) 250 奈良県奈良市佐紀町
メスリ山古墳 250 奈良県桜井市高田
16 仲哀天皇陵古墳(岡ミサンザイ古墳) 242 大阪府藤井寺市藤井寺
行燈山古墳(崇神陵) 242 奈良県天理市柳本町
18 室大墓古墳(室宮山) 238 奈良県御所市室
19 允恭天皇陵古墳(市野山古墳) 230 大阪府藤井寺市国府
20 宝来山古墳(垂仁陵) 227 奈良県奈良市尼ヶ辻町
16 仲哀天皇陵古墳(岡ミサンザイ古墳) 242 大阪府藤井寺市藤井寺
行燈山古墳(崇神陵) 242 奈良県天理市柳本町
18 室大墓古墳(室宮山) 238 奈良県御所市室
19 允恭天皇陵古墳(市野山古墳) 230 大阪府藤井寺市国府
20 宝来山古墳(垂仁陵) 227 奈良県奈良市尼ヶ辻町
21 太田茶臼山古墳(継体陵) 226 大阪府茨木市太田
22 墓山古墳 225 大阪府羽曳野市白鳥
23 巣山古墳 220 奈良県北葛城郡広陵町
24 ヒシアゲ古墳(磐之媛陵) 219 奈良県奈良市佐紀町
西殿塚古墳(手白香皇女陵) 219 奈良県天理市中山町
26 佐紀石塚山古墳(成務陵) 218 奈良県奈良市山陵町
27 川合大塚山古墳 215 奈良県北葛城郡河合町川合
28 築山古墳 210 奈良県大和高田市築山
西陵古墳 210 大阪府泉南郡岬町淡輪
太田天神山古墳 210 群馬県太田市内ヶ島
31 津堂城山古墳 208 大阪府藤井寺市津堂
32 桜井茶臼山古墳 207 奈良県桜井市外山
陵山古墳(日葉酢媛陵) 207 奈良県奈良市山陵町
34 コナベ古墳 204 奈良県奈良市法華寺北町
35 御廟山古墳 203 大阪府堺市北区百舌鳥本町
36 摩湯山古墳 200 大阪府岸和田市久米田摩湯町
白鳥陵古墳(軽里大塚古墳) 200 大阪府羽曳野市軽里
新木山古墳 200 奈良県北葛城郡広陵町三吉
神明山古墳 200 京都府京丹後市
両宮山古墳 200 岡山県赤磐市
新木山古墳 200 奈良県北葛城郡広陵町三吉
神明山古墳 200 京都府京丹後市
両宮山古墳 200 岡山県赤磐市
データ・堺市古墳大きさランキング(日本全国版)
前方後円墳と言えばみなさんまずどこを思い浮かべますか?
世界最大の敷地面積を持つ仁徳天皇陵(大仙(山)古墳)や二位の応神天皇陵は別格として、古墳が多い県と言えばやはり奈良県を思い浮かべるでしょう。
考古学者も奈良盆地のおおやまと古墳群、纏向遺跡などが日本最古の王朝が生まれた地域だと言います。
しかし、この順位をよく見ると、大きさのベスト5の中に奈良の古墳はありません。ベスト4には岡山県の古墳が入り、ほかはすべて大阪府にあるのです。奈良の最大の前方後円墳はやっと6番目に見瀬丸山古墳が出てきます。卑弥呼かトヨの墓か?として有名な箸墓(箸中山古墳)は全長280mもあるのにやっと11位です。
おかしいですね?
邪馬台国や大和朝廷がはじまると言われている奈良盆地には、最大古墳がないなんて。
一覧表でぼくは今回、五条野(見瀬)丸山古墳(ごじょうの・みせ・まるやま・こふん)と河内大塚山古墳(かわち・おおつかやま・こふん)にだけWiki解説へのリンクを入れて注目しようと思います。
五条野丸山古墳は奈良県最大の大きな古墳ですし、河内大塚山古墳と並んで5世紀以降では日本最大の古墳です。
五条野丸山古墳は、以前は見瀬丸山古墳と呼ばれていました。しかし最近、その地域が見瀬地区ではなく五条野、大軽(おおかる)などの地域にあることから改名されました。ならば五条野・大軽丸山古墳にしたらいいのにね。変なの。
この古墳は宮内庁の陵墓指定を受けており、畝傍陵墓参考地天武・持統天皇陵と言われています。しかし時代的に天武・持統天皇夫婦は古墳終末期の飛鳥末期(7~8世紀)の人で、丸山古墳製造期の6世紀後半にはあいません。100年も離れています。だからこの指定は明らかな間違いで、今は欽明天皇ときさきの蘇我堅塩姫(かたしひめ)のお墓だとか、人によっては当時最高の実力者だった蘇我稲目の墓だとかいわれています。蘇我氏の墓は普通、どれも階段式方墳ですのでこれもあわないし、欽明天皇の墓は、考古学では梅山古墳だと考えられており、どちらもずれています。で、いまだに誰の墓かが決まっていません。
おかしいですねえ?
奈良で一番大きなお墓が、誰が葬られたのかがわかってないなんて・・・。
実は古墳のほとんどは誰の墓なのかがわからないんです。なぜかというと、お墓の中に日本では墓誌(被葬者の名前を書いた板)が入っておらず、歴史書に頼っています。しかしその歴史書の書く場所があいまいで、宮内庁はずいぶん困り果て、間違っていても記録に正直であろうとするのが行政なので、修正が遅れます。しかも宮内庁は、一度陵墓指定地や参考地に指定しますと、そこは天皇の御陵だから、掘り返すのは不遜なので発掘してはいけないと言うのです。これではいつまで経っても大多数の古墳の被葬者は決まりません。
さきほど書いた天武・持統天皇陵(野口王墓)は、考古学では明日香村にある八角形墳に決定しました。このお墓から一列に、蘇我氏的な方墳のお墓が並び、その一番最後にあるのが梅山古墳です。持統天皇は蘇我氏女性の孫なのです。
蘇我氏のお墓の多くは、実は奈良にはなく、あってもあとの時代に大阪府の河内にある「もうひとつの飛鳥」に移動しています。これを「改葬」と言います。なぜ遺骸を移すのでしょうか?
一番目に考えられる理由には、弥生時代からの風習があります。死んだらまずはすぐにその場に埋め、骨になったらほかの場所へ移すという風習です。動かす場所はその人の生誕した土地や、住んでいた場所、ゆかりのある場所の聖地です。
蘇我氏の有名な人々の墓は、だから多くが奈良明日香村と河内の近つ飛鳥の両方にある場合があり、奈良のほうはからっぽであるケースが多いのです。例えば蘇我馬子の姪である推古女帝とその子竹田皇子(みこ)のお墓は最初は宮があった明日香村の植山古墳(方墳)だったのが、のちに河内飛鳥の山田高塚古墳へ改葬されたと記録にあり、掘ってみたらそのとおりになっていました。これは記録と考古学が合致した、実はとっても珍しい例です。
さあ、では五条野丸山古墳の被葬者は誰なんでしょうか?
だって、奈良で一番大きな前方後円墳なんですよ?6世紀後半に、それほどの大きな墓が造れた人って誰でしょうか?
まず前方後円墳ですからただの豪族だったとは思えません。まずは皇族でしょう。前方後円墳は近畿の大王のお墓様式ですから。卑弥呼はともかくとしてトヨは前方後円墳時代の人ですので、きっと前方後円墳に埋葬されたことでしょう。卑弥呼はそれより少し前の人なので、可能性としてはさまざまな形式の墓が可能性があります。方形周溝墓とか円墳とか、纒向型といわれるプレ前方後円墳(石野博信は長突円墳とする)でもかまいません。3世紀後半の墓ならどこでもよいのです。するともっとも古い纒向型長突円墳があるのは四国になります。徳島県か香川県には2世紀後半くらいの柄鏡型の長突部を持った円墳があります。しかしここには魏志倭人伝が書いたような祭祀都市らしき環濠遺跡がありません。卑弥呼の時代のそれがあるのは、唐古・鍵遺跡か大阪の池上曽根遺跡くらいです。纒向は時代は合うのに、環濠がないし、箸墓は指定古墳で発掘不可能です。纒向石塚古墳は小さいけれど卑弥呼の死んだ時代に合致します。このように、どの古墳も卑弥呼の墓だったとは今のところ決定できないままです。
五位の河内大塚山古墳は、5世紀後半の近畿地方では最大のお墓です。5世紀後半というのは古墳中期で、前方後円墳全盛期のお墓です。特徴は、6世紀前半に多い剣菱形(けんびしがた)と呼ばれる、長方部。これは今城塚や五条野、鳥屋ミサンザイなどの古墳と同じ形です。ただの古い時代の長方形でもなく、次の箸墓のような広がったバチ形とも違って、四角の真ん中あたりが婉曲してスレンダーな形状をしています。
考古学者の石野博信は、前方後円墳はそもそもは円墳だったのであり、あとから長方部が付け足された古墳もあると言っています。古墳は周囲に堀を持ちますが、その堀がある部分だけ削られて、円墳の上から方形部の盛り土されていたお墓があるのです。これは近畿と九州で二例が見つかっています。後方部は最初はなかったかも知れませんね。岡山の楯築(たてつき)墳丘墓は2世紀の古い時代の墓ですが、円墳の両方向に、細長い突起部が作ってあり、双方中円墳だったと考えられています。細いので昔はそれがお墓の一部だとは思われていませんでしたが、今ではそれが両方にあって、初期の長突部であるとされています。そのあとで、四国の讃岐と阿波に柄鏡型の初期前方後円墳が登場し、やがて3世紀になってそれが突然、奈良の纒向に登場します。そういう流れで前方後円墳は完成すると、近畿の考古学者は言っています。
そうしますと、奈良の前方後円墳は岡山県吉備の人たちと、四国の人たち・・・これを東瀬戸内様式とすることになります。ですが、吉備のお墓には九州のような豪華な埋納品(鉄器や鏡)がありませんし、四国にはややありますが、九州と比べると少ないわけです。九州の土盛りしただけの大きな2世紀前半の方形墓(土こう墓といいます)には、多くが女性が葬られていて、すごい数の鏡、とんでもない大きさの鏡や、レプリカにした鉄剣や鎧兜が入っています。同時代のほかの地域にはそんな豪華な威信材があるお墓は存在しません。つまり1~2世紀の九州の豪族は、とってもリッチだったわけです。そして鏡が、近畿とは違って本物の中国鏡ばかりです。近畿では3世紀後半になってやっと鏡も出てきますが、すべて国内産でとびきり大き目のホウセイ鏡しか出ません。中国鏡は非常に少なく、よほど貴重品だったのでしょう、必ずお墓のひつぎの中の、死者のすぐ頭部に置かれています。まわりはがらがらとした三角縁神獣鏡が十把ひとからげに取り囲むものが多いのです。鉄の剣もまず出ません。纒向からは神獣鏡も鉄器も出ていません。
決められなくなってきますでしょう?
さて、では順位上位の巨大なお墓がなぜ全部大阪の堺市周辺百舌鳥や近つ飛鳥あたりの古市にあるのでしょうか?
とにかくとびきり大きいのです。
400mなんて、ほかにはありません。
仁徳さんとか応神さんって、いったいどんな人だったんでしょう??
『古事記』や『日本書紀』で、彼らはそれほどの際立った活躍をした大天皇だとは書かれてはいません。ただ徳があって、立派だったとは書かれますが、あんな大古墳に合うほどには大活躍したりしてません。むしろ最後の雄略や武烈などは、ひどい書かれ方をした暴君でした。おかしいとは思いませんか?
日本人は面白い習慣があり、言葉や文字にも霊魂があると言います。これが「言霊」思想ですが、その古い形式では、やっつけた人は悪霊になって祟るという考え方もあります。菅原道真やスサノヲ命や大国主、事代主、あるいはタケミナカタ、奈良では大物主神などはその代表です。平安時代には怨霊信仰と呼ばれました。やっつけてしまったので、かえって丁寧に祭る・・・それが「神やらい」「忌み事」です。
ですから立派なお墓や神社に祭られた人=えらい人だったわけではないのが日本の古代です。そういう逆転思考が古代史では大変必要です。
言霊ならば、記録がとっても素晴らしい人だったと書いた人は、実は暗殺や毒殺や追いやられた権力者だったと思えます。
すると雄略や武列はそうではない。ひどいやつだったと正直に?書かれています。しかしその代わりのように、お墓だけが馬鹿みたいに大きいのです。ところがその先祖だった仁徳や応神は墓ももっともっとでかくて、しかも人徳の高い素晴らしい大王だったと書かれています。つまりこの応神から武烈までの王朝を、奈良の王朝が作った記録では、われわれとは「別の」「知らない」人たちだったとしたかった・・・という発想が浮かびませんか?
蘇我氏はどうでしょうか?
蘇我馬子にはなんの落ち度もないのに、その墓である石舞台古墳の石室がむきだしにされています。その子孫の蝦夷と入鹿などは墓がどこにあるかもわかりません。彼らは完璧に天罰で殺されたことまで書いてあります。大化の改新前の一巳の変ですね。
蝦夷はそつなく大臣を終えますが、その子の入鹿に至っては首をはねられたシーンを執拗に、詳細に描かれました。これは明らかに祟る可能性がある殺され方です。だからかどうか、本当の変の首謀者はわかりずらくしています。藤原鎌足と中大兄皇子がやったと書いていますが、ここにはどこかしら出雲の国譲りに似た構造があるように見えます。藤原氏の神であるタケミカヅチ神が物部氏の神剣を使って出雲をぶんどっちゃう話ですが、なぜこの時代に藤原氏が関係するでしょう?弱小氏族でしかない藤原氏の前身中臣氏は、まだ物部大連氏の子飼いの祭祀者でしかなかったのです。
すると一巳の変でも鎌足はなにに関係するのかわからないことに気付きます。彼は変のあと忽然と記録から消えます。そして死ぬ間際に再登場し、天智天皇となった中大兄の悩みに応えて死にます。彼の行動は記録の中でまるで「きせる」です。中がない。しかもその『日本書紀』の記録が作られた時代に、時の権力者は鎌足の息子の藤原不比等でした。
鎌足とそっくりなきせる行動をした同時代人が百済にいます。百済王余豊璋(よ・ほうしょう)です。この二人は記録ではこうたいごうたいに記事が出てきます。一方が百済へ行くと鎌足が消え、百済で豊璋が行方不明になると鎌足が登場します。このふたりは同一人物かもしれません。
鎌足が最初葬られたという阿武山古墳はとっても小規模な墓で、山のてっぺんという生きにくい場所にあります。それを息子の不比等は改葬して、今の奈良の談山神社に葬りなおします。なのに、阿武山にはちゃんと遺骸がありました。変ですね?霊魂だけを動かしたということでしょうか。それになぜ奈良の春日山でもなく、別宅別荘のあった京都山科でもないのか?天智の墓が山科にあるのに、なぜ相棒だった鎌足は、摂津の淀川の反対側なのか?三島隠棲という『日本書紀』の記事は正しいのか?
摂津はそもそも継体大王や春日氏の所領です。継体の先祖だという近江の息長氏や日本海九頭竜川の三尾氏の墓ならわかりますが、なぜ鎌足か?淀川は瀬戸内に流れ込んで、そのまま九州に続きます。その先は?百済があった朝鮮半島ですね?
倭の五王という大王一族は記紀にはまったく登場していません。なぜでしょうか?変わりに応神~武列の河内王朝が描かれ、それが子孫がいなくなって継体が担ぎ出され、その双方の血があとの欽明だけが受け継いで、ほかの異母兄弟は死んだと書かれています。なぜでしょうか?
そして欽明が蘇我稲目と、まるで周王と太公望のように出会って飛鳥時代は始まる・・・。すると前方後円墳は衰退してゆき、大臣になった蘇我氏は方墳、天皇は上円下方~八角形墳となって古墳時代が終わるのです。もう巨大古墳は天皇でさえ造りません。どんどん小さくなる。海外の大国を意識しなくなるということです。
それは遣唐使によって、ある程度の大陸の新知識やものを手に入れたということでしょう。ちょうど2世紀の九州が衰弱していったのにリンクしています。人類は知識を増やすと好奇心をなくします。安定期に入ったのです。そのころやっと大和に朝廷が完成します。そう考えるのが妥当だとぼくは思っています。
さあ、では吉備にある大古墳二基はいったい誰の墓でしょう?
阿蘇のピンク石が出ています。そのあたりを次回今まで以上に深く扱ってみましょうか。