予定していた阿蘇ピンク石記事は次回に順延します。
すんまへん。
卑弥呼がもらったはずの親魏倭王金印・・・。
その場所は推定するなら候補地がいくつかある。
まず九州なら平原遺跡周辺、近畿なら東大寺山古墳近辺ではなかろうか?
ただ、倭の奴の国王・帥升がもらった金印は、なぜかは知らぬが邪馬台国連合のいくつかの王都のうちの奴国王がいたはずのところにも、伊都国にもなく、少しはなれた海岸部の海の中道・志賀島にあったので、もしかすると、推定値よりかけ離れたところに隠してあるのかも知れない。というのは、中国からもらった権威の品だから、それを奪い取ろうとするものは必ずいるので、王はそばに置かなかった可能性があるからだ。
もうひとつの意見は、倭の古代人は意外にそういうもらいものに興味をあまり盛ってなかったかも知れないというものもある。
そのいい例は、奈良県の天理市和邇にある東大寺山古墳から出た中平年号入り鉄剣の置かれていた場所が、三角縁神獣鏡同様の場所だったからだ。
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石野博信『楽しい考古学 遺跡の中で見る夢』より
この鉄剣の銘文にある中平年というのは、ちょいど魏志に言うところの「桓・霊の頃倭国大いに乱れる」とぴったりの年代だ。だからもし大和に邪馬台国にあったとしたなら、和邇氏は当時、邪馬台国卑弥呼らの重要な配下か、王そのものであった可能性を示す遺物で、もっと丁重に扱われて当たり前のものなのだ。
魏志には卑弥呼には鉄刀も与えられたと書かれている。もしこれがその鉄刀だったなら、その置かれた場所が棺の外だったというのは、まことに首を傾げたくなる。
おそらく当時の倭国は、今のホクセンの北にあった公孫氏燕と交流があった。公孫氏は中国正統王朝から見れば蛮族・鬼道の外道国家であるが、その頃の中国は後漢滅亡で乱れていて三国分立時代。諸国はいまだどの国家と正統な交流をすべきかが決められない時代だったので、後漢をあっけなく滅ぼした公孫氏は、北東にあっても唯一つきわねばならぬ・・・まさに今のホクセンに似たところの国家だった。
しかしさすがに魏が中国を統一すると、曹操はこれを一気に攻めて滅ぼす。すると卑弥呼は待っていたように、どこよりもはやく楽浪へ使いを送ったのであった。それで魏王はそれをほめて、さまざまの好物を賜る。それが銅鏡百枚や鉄刀である。
ところがそんな大事な刀が、東大寺山ではいいかげんなところに置かれている。そんなことってあるのだろうか?
となると黒塚古墳の、別室にやはり置かれていたU字型パイプなどもそうだ。さほど大事にしていないわけである。ところが数少ない中国鏡だけは、なぜか最重要な場所に置いた。彼らは鏡にしか興味がない人々だったのかとなる。
そもそも鏡も剣も、九州では棺の中の、被葬者のすぐそばに置かれている。このへんが大和の人々はわからないね。想像するに大和はシャーマン、九州は武力持つ祭祀大王となるのかな。