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Channel: 民族学伝承ひろいあげ辞典
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驚天動地の天皇系図その2

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ええか、おぬしら、天皇系図は歴史上の断裂を無理やりつないであるのだぞ。
 
前回は大きく三段階に切り分けて、初代から貫通する大和での二大家系・・・葛城系譜と息長系譜の合体による大王家持ち上げ系図の構造を見てもらった。しかし記紀に書いている大王の系譜とは、
 
あくまでも
 
大和という地方国家が始まって、いつどこでそれが全国区の大王家、そして皇室と認められて行ったかの記録
 
でしかない。
しかもそのほとんどは作り話なのである。
 
 
 
これをもっと詳しく仕分けすると・・・
 
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まず真ん中の倭五王系譜から作られた河内王朝構図は葛城王朝だったということになる。
ここに併記するよに付け足された息長系譜の存在そのものが、記紀天皇家系譜そのものの「敏達+広姫」を絶対に遡らない系譜を証明していることになるのだ。要するに大和の天皇家の始まりは敏達以前には存在しない。奈良にあったのは葛城王朝と宗我王朝だけだったのである。葛城王朝以前の王権など近畿にはない。あるとすれば崇神のところに邪馬台国があったかなかったかである。
そのまた前は筑紫王朝すなわち「親魏倭王」である奴国王の後裔である。
 
 
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神武~欠史八代~崇神~応神までは、各氏族のコラージュである。そこに葛城、物部、尾張、息長などの有力氏族の伝承が盛り込められてあり、大和の古い王統はまずは葛城、それが息長と合体して応神が登場し、これが葛城襲津彦がかつて治めていた伽耶から来たことを匂わせてある。3~4世紀に新羅と書いてあった場合、それは新羅系伽耶であったと考えてまず間違いない。このころまだ新羅は弱小で国家の体裁が整っていない。
 
 
本来、冒頭系図にあつはずの邪馬台国や奴国が存在しないのは、大和政権がそれを知らなかったからにほかならない。大和はいまだに倭国ではなかった。3~4世紀に倭国と認知されていない田舎の某国でしかないことの証明である。
 
 
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