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オシサカの男弟王は百済王の弟・東城王


癸未年 八月日十大王年男弟王在意柴沙加宮時斯麻念長寿遣開中費直穢人今州利二人等取白上同二百旱作此竟

(大意)癸未(きび、みずのとひつじ)の年八月 日十大王の年、男弟王が意柴沙加(おしさか)の宮におられる時、斯麻が長寿を念じて開中費直、穢人(漢人)今州利の二人らを遣わして白上同(真新しい上質の銅)二百旱をもってこの鏡を作る。


ご存知、和歌山県隅田八幡宮人物画像鏡の銘文である。




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日本の歴史学者たちは、長らくこの文にある日十大王、男弟王、斯麻について、誰のことかを論じてきたが、いまだ確定していない。

男弟王とはオホド王つまり継体大王のことだとしてみたり、斯麻は百済武寧王だとか、三嶋県主だとしてみたりしている。また「意柴沙加宮(おしさかのみや)」
オシサカの宮(忍坂宮)が允恭天皇の皇后・忍坂大中姫(おしさかのおおなかつひめ、雄略天皇母)の宮処だからとして日十大王は允恭であるとしたりしている。

しかし、誰一人、それらに確信が持てている学者はいない。

その癸未年の解釈も二種類あり、オホド=継体と武寧の時代なのか、あるいはオオホド=継体の祖父の時代なのかも決まっていない。

これらをすべて確定するには、まずは癸未年とはどっちなのかを決めておかねばならない。何も悩むこともなく、允恭の妻(=雄略の母)の宮があるのならそれはその時代なのである。つまり極めて簡単明瞭、443年。

となると日十大王とは倭王済で、『日本書紀』のこの時代の天皇記録はすべて捏造だとしていいのだ。これは、『日本書紀』なら日本の河内王朝が大和に迫ってきた雄略の時代の話になるので、実際には、倭王済~武が河内太子町近辺から葛城山を越えて大和に侵略して、迫り来る時代になる。河内と大和の対立の時代があったと考える。激動の時代である。

だからまだ継体はみじんも影がない時代。シマは嶋王=武寧でいい。

これは二つの国家のせめぎ合いが近畿であったという意味を持つ文である。ひとつは大和東部にあった倭人の国、ひとつは河内にあった百済東城王の国家(倭五王末期の国)。東城王とは武寧王の叔父の末多王(まった・おう。茨田王)のことである。この人は甥っ子の斯麻から見たら父・ 百済王の弟なので、まさに「男弟王」である。

そして彼の性格は、『日本書紀』の描いた雄略や武烈にそっくりで横暴で、悪辣だったとされている。ゆえに百済は彼をもてあまして追放し、日本にやってくる。最初は九州の佐賀県、末多=みた、吉野ヶ里そば(今の神崎郡三田 みた)に入る。筑後川の吉野ヶ里と三潴にはさまれた狭い地域だ。水沼君が彼を援助したのだろう。

その前に玄界灘の姫島で百済からさらってきた王妃の子・武寧=嶋王が生まれ、そこから肥前の葛城勢力紀氏と吉備葦北国造の力添えで近畿に移動して河内に王権樹立。つまりこの人こそは『日本書紀』が長々と創作した応神~仁徳~允恭の前の王までを挿入してまでごまかそうとしている百済由来国家=応神王朝の創始者である。

要するに『宋書』が言う倭の五王とは、日本に追いやられた東城王が400年代に大阪地方に形成した百済分家王家。日本の茨田(まんだ、まった)氏はその子孫である。

この王権はその後、武=武寧の時代までに大和へと東征し、古い邪馬台国残存国家だった大和東部国家を懐柔する。大和政権はこの当時、大和盆地しか治められない弱小国家つまり地方都市でしかない。それが『日本書紀』が言う崇神=仲哀政権つまり三輪王家である。

三輪王家は苦肉の策で倭王の娘を娶ることで和合政権をめざし、実は地下では、武政権を弱体させたい。そこで武の子孫を暗殺し、倭王の参謀だった葛城地方の伽耶政権=葛城王家を用いてこれを転覆。手引きしたのは同じく半島伽耶から逃げていた蘇我満智=木満智であろう。




面白い?


こんなこと筆者しか書かないでしょう?
でもそうするとすべてがつながるから面白い。




阿蘇ピンク石石棺分析していたら、あっと気がついたのだ。これこそ真実の古代史。









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