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阿蘇ピンク石石棺再論2 運搬氏族と枚方からどうしたか?


非常に重たいものを船で曳航した場合、非常に困る問題がある。淀川はいい。当時は水位も高く、大阪湾は今よりもずっと奥まで入り込んでおり、淀川で白肩(枚方)の津までは充分に往来が出来た。

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しかし枚方から先はかなり川が浅くなる。だから橋本あたりで一旦船から石をあげねばならなかったはずだ。摂津三島側にある今城塚古墳は陸揚げはたやすい。古墳も近い。筑紫津で水揚げして修羅に乗せれば近い。地形も急ではない。前回の分析では、その先の近江や大和まで運ぶことにさほど考えがいたってなかった。

住んでいたからわかるが、橋本や枚方や樟葉、あるいは天野川河口部のある光善寺渚町~伊加賀西町出口あたりなら、「ひらかた」=平たい潟になった地形で、水揚げは楽だが、陸路の距離がすごくなる。しかも木津川は八幡市から非常に喫水が浅い川である。筆者は家族でかんたんに対岸の宇治へ渡れていた。

(ちまみに筆者は、学生時代前半は枚方市茄子作近くに、結婚して寝屋川市緑町から樟葉光町に、引越しして光善寺出口に、伊加賀西町へは子供の保育園で、交野市は仕事で、私市へは植物園やくろんど池や山のハイキングで再三いっている。その後京都府八幡市に引っ越した。まるで継体大王や古代史を解明するための運命だったかのようだ。しかも出張で竜山のある高砂、宮津、舞鶴、岡山県赤磐郡を巡回した。現在は九州大分県に住まっている。)

さらに当時は、葦が生い茂った浅い、広大な湿地である巨椋池(おぐらいけ)があって、ここは小舟くらいしか通れない。宇治川へ出るのも大変だったはずだ。いったい、どのルートを修羅を引いたのか?


大和へ出るなら木津川、あるいは天野川しかない。しかし木津川は浅いし、天野川は狭くて浅いうえに、山に上がっていかねば鳥見の峠に出られない。しかもそこには信貴山がある。ニギハヤヒのように空を飛ぶしかないだろう。木津川で相楽へ引くしかない。すると奈良街道だろう。低地の男山周囲を川沿いに回って八幡から内里へ出て、奈良街道に入る。そこは息長氏の居住地・大筒木である。内里にも葛城鴨や隼人がいただろう。つまり武内宿禰の内の氏族部民である。こうして石棺コースを陸路でたどると、古代氏族の協力関係が浮かんでくるのだ。

息長氏の許可もいるだろう。

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巨椋池は宇治になる。昔は山背国紀伊郡になる。3世紀から渡来氏族や秦氏がいて、紀氏がいる。この石の運搬に、和田萃(わだ・あつむ)は紀氏が九州から関与したと考えている。筆者は息長氏、紀氏、そして隼人の力が必要だったと考えている。というのは相楽から奈良に入るときに大住車塚古墳の氏族=大隅隼人の居住地があるからだ。つまり紀氏は、和田が言うように、早くから九州の肥前あたりに靫負として入っていて、磐井の乱でも活躍したはず。それが球磨地方をはさむ鹿児島の曽於のハヤトと結託してもおかしくはない。阿多の隼人は記録でもいち早く神武に協力するとなっている。要するに神武東征の英雄譚の出元には紀氏と隼人の協力の影がある。


紀氏は和邇氏と並んで最古クラスの海人族である。定着したのは和歌山県紀ノ川両側。大谷古墳や岩橋千塚古墳は紀氏の墓だろう。その埴輪には九州装飾古墳に描かれる双脚リン縄文型(スイジガイがモデル)の冠帽をかぶる人物がある。となると福岡県の王塚古墳は紀氏の墓だと言えることとなろう。


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枚方あたりから喫水が低くなっている証拠に、ここには橋本の架橋があったし、今でも橋と京阪電車の鉄橋がかかり、ロシアとごちゃごちゃが多かった日露戦争時代には、ここにはお台場が二箇所造られた。砲台があるということは、ここで船はスピードをゆるめねばならなかったからである。これは逆に言えば、摂津の継体大王らが、樟葉砲台があったあたりで川をしめてしまえば、近江や山背や大和への通路を封鎖して、水上封鎖可能な関所だったことになる。記紀では反対に、ここで継体が栗熊王らに対峙させられている。だから継体大王にとっては樟葉、山崎、筑紫津などは重要な関所であった。物部氏はさきほど書いた枚方市伊加賀西町あたりに津守の居館を持っていたようだ。(いかがとは物部氏の先祖神のひとつであるイカガシコオに関与する地名だ)


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それにしても修羅で大和までとは実に距離が長い。
葛城黒姫の故郷帰還記事には、やはりこのルートで下狛あたりの渡来氏族の家に立ち寄っていたりするので、このルートは難波から大和への遠回りコースだったようだ。だからそこには土地勘がある紀氏の船頭はかかせまい。


宇土から瀬戸内には、最初は吉備氏の船頭が当たった可能性がある。葦北国造アリシトの故郷は吉備である。そこからたぶん、寄港地の海人族がかわるがわる交代で瀬戸内へ(紀氏、水沼君、松浦、安曇、宗像、穴門など)、瀬戸内に入れば豊の海部、大三島からは瀬戸内海人越智や村上水軍の前身が、伊予松山からしまなみ海道で鞆の浦をに渡り尾道水軍とか、垂水の倭直氏、阿波水軍、九鬼水郡などの力が必要だったはずだ。


摂津三島の地名は、『伊予国風土記』に「津の国三島より大三島へ大山積神を動かし祭った」という記事がある。すると三島地名は大三島由来ではなく、逆に摂津由来だったことがわかった。では、次回三島とは?


各古墳の氏族分析はそのあとで。こうご期待。





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