Quantcast
Channel: 民族学伝承ひろいあげ辞典
Viewing all articles
Browse latest Browse all 1881

継体と蘇我氏・持統女帝に関わった河内馬飼氏関連遺跡

$
0
0

継体大王擁立に関わる氏族として大伴氏、物部氏は『日本書紀』が記すが、ほかに九州の火君、筑紫君、吉備氏、紀氏、葛城氏なども考えられ、さらに『日本書紀』も書いた河内馬飼氏がある。

枚方市~四条畷市、南野、寝屋川市の広範囲に彼らの遺跡は点在し、その多くの場所に近いところに若い頃、筆者は住んだり、仕事をしたりしたから土地勘がある。

イメージ 1
枚方市と寝屋川市香里園の間の丘陵地に茄子作遺跡はある。学生時代にはまだ発掘中だった。藤田川大団地のそばだ。筆者はそのころ香里ヶ丘の県学生寮にいた。


寝屋川市の太秦や茨田(まった)は、記録にある池が掘られた地域である。秦氏や茨田氏がこれに当たったとある。

四条畷市蔀屋(しとみや)の鵜野・讃良(うの・さら)の馬飼部のいたあたりは、働き始めた頃によく仕事で走った。中古住宅を管理している会社だったので、よく隅々まで歩いた記憶がある。遺跡はただの空き地だった。確か出水川病院?の近くだったのではないか。

この鵜野・讃良はのちの持統天皇の幼名であるから、彼女は馬飼氏に育てられたのだろう。彼女は蘇我石川氏のはえ姫(卑称だろう別名が『古事記』にある)の孫だから、蘇我倉石川氏が依頼したのではないか?

継体を出迎えて活躍したのは河内馬飼

「今から1500年前の507年1月、越国三国へ即位の招請に向かった倭の使者に対して、「男大迹王(をほどのおおきみ)」後の継体天皇は大きな疑念を抱いていた。
この時、「男大迹王」に倭中央政権の内情を伝える使者を送ったのが「河内馬飼首荒籠(かわちのうまかいのあらこ)」でした。
「河内馬飼首荒籠」と「男大迹王」は以前からの知り合いだったと日本書紀には書かれています。」


河内馬飼は応神の記録にもあるので、継体より随分前から畿内にいたようだ。新羅王が神功皇后に献上した馬と氏族の記事は信用できないとしても、応神記事にある新羅の馬飼い阿直岐(あちき)の子孫が河内に住んだのかも知れない。


蔀屋遺跡では多くの馬犠牲の遺骨が出ている。



そうした氏族が北河内一帯に住んでいたことは重要だろう。



また茨田氏は本拠地が東大阪の茨田大宮あたりだったか?ここに瓢箪山古墳がある。職場の女性たちがよく「ひょうたんやまで買い物する」とか言っていた。小阪が近い。


当時、学研都市線(旧片町線)の鴻池新田のニチイに通っており、まだ筆者の思考の中には古代史はなく、鴻池善衛門の屋敷跡にばかり気が行っていたのを思い出す。



また阿蘇ピンク石が出た大王陵の培塚がある藤井寺も懐かしい。かの井真成の住む土地だったらしいが、藤井寺はもと葛井寺で、近つ飛鳥太子町である。ここのピンク石から考えたのが、ピンク石石棺が改葬前用の棺かも知れないと言うことだった。

というのは植山古墳の推古・竹田のピンク石石棺がそうらしいいからだ。二人はのちに太子町の山田高塚へ改葬されるが、植山の石棺は非常に美しいままで、未使用のようであった。これはあるいは、阿蘇ピンク石は、改葬したあと用の石棺で、さらの手付かずで埋められただけだということも考えさせる。本来なら、そこには何もなくなっているはずだが、わざわざ入れ込んだか?


持統女帝が蘇我氏氏族であることと、阿蘇ピンクは何か関係するだろうか?しかし彼女も夫の天武も阿蘇石は使われていない。推古以来、赤い石は消えている。それはまるで蘇我氏が消されるのとリンクしたかのようだ。

しかし継体と蘇我氏にはなにも関係がなかったように『日本書紀』はしてある。ここは怪しい。蘇我氏は継体と尾張氏の姫の息子よりも、欽明の参謀として登場する。ここに二つの皇統の対立を見る学者も多い。























Viewing all articles
Browse latest Browse all 1881

Trending Articles



<script src="https://jsc.adskeeper.com/r/s/rssing.com.1596347.js" async> </script>