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Channel: 民族学伝承ひろいあげ辞典
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空白の飛鳥 八年間以上の大王不在 壬申の乱は天智が起こした

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不可思議な斉明天皇の行動と、ありえない中大兄の即位

『日本書紀』斉明天皇紀
「 斉明7年(661)1月6日、前年末から難波宮に居た斉明天皇は難波津を出発した。8日、吉備の大伯の海で、大海人皇子の妃・大田姫皇女が女の子を出産した。大伯皇女と名付けられた。14日に伊予の熟田津に到着し、石湯の行宮に滞在した。

 
 熟田津に 船乗せむと 月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな   

 
 3月、磐瀬の行宮(朝倉の広庭宮のこと。福岡県朝倉市 筑後川沿線の平地)に入った。この地を川港として長津と改称。4月に入って、百済の鬼室福信は、改めて東朝(大和王朝)にも使いを遣って、皇子・豊璋の返還と援軍を求めた。

 5月23日、先の遣唐使がようやくのこと帰ってきた。越州に留めていた船に乗り、4月1日に出港したが、陸地の見えない海上の航海技術が不完全であったらしく、9日間漂流して耽羅島(済州島)に着いた。島人の王子らを伴って帰り、以後、耽羅国との通交が始まったという。

 
 翌7月に、斉明天皇崩御。中大兄皇子は8月1日に葬儀を行い、遺体を博多湾岸の磐瀬宮に移した。朝倉山の上に鬼が現れ、大笠を着けて葬儀を見守っていたという。」



1 皇極時代との異常な変化
斉明は孝徳の難波宮を中大江とともに捨てて、百済援助に自ら九州へ出向く。この行動力と、皇極時代の目立つこともなかった天皇とにギャップがありすぎる。これは中大兄白村江での大敗北を、『日本書紀』編集者が斉明重祚と神功皇后並みのおてんばぶりとで誤魔化し、責任を斉明になすりつけたと考えるのがよいだろう。

つまり斉明女帝は、重祚しなかった可能性、そして九州にも行かなかった可能性の二点の疑義がここには存在する。だいたい朝倉町は海から遠すぎる。しかも筑後川なら朝鮮ではなく有明海へ出てしまう。そんなあほな。

有明海が重要な港だったのはわかる。遠浅で、おだやかで、敵は入りにくい地形。干上がるとしかしこっちもなかなか外海へは出られないが。瀬高女山などの朝鮮式山城の存在は唐を意識したときには有効。つまり有明側が港にさるのは遣唐使以後である。それ以前には玄界灘が大事。だから斉明・天智が朝倉に仮宮はちょっとありえない。朝鮮半島に出てゆくなら絶対宗像や伊都や遠賀川である。作り話だと言える。



2 九州で斉明が死ぬのが到着から数ヵ月後、その後なぜか中大兄は即位もせず七年が過ぎてしまい、途中で百済王として扶余豊樟(よ・ほうしょう)を送り出して、彼が半島で鬼室を殺し、行方不明になると自ら船団を率いて百済援助へ向かう。しかし新羅・唐の連合軍にあっけなく木っ端微塵に粉砕され逃げ帰る。それゆえかしばらくは大和へも帰れない。しかし戻ったとたんに飛鳥から近江へ逃げ込み、勝手に朝廷を建てて引きこもった。

ではそれまでの10年近い期間、いったい畿内は誰が面倒見ていたのだろうか???


このことを歴史学者は何も問題にしない。こともなげに鎌足が内臣で代行したとする。しかし記紀には、このシーンでまったく飛鳥の出来事を書いていない。だから当然、鎌足も記事に出てこない。空白の10年である。どうして誰も不思議に思わないのだろうか?

いったいそんな期間、飛鳥を放っておいたら、普通はクーデターが起きていてもおかしくない。天智が即位し、近江へ遷都できたことも不思議な話だ。唐と新羅に空前の大敗北を喫した皇子が、素直に大王になれるものだろうか?ここも誰も疑おうとしない。

もし、鎌足が豊璋で、百済に戻っていたのなら、では誰が斉明女帝の代わりができただろう?

No1は大海人皇子ではないか?
大友=弘文天皇はまだ幼少。いや九州で生まれて飛鳥にはいなかったかも知れないだろう。鎌足はどこへ消えたのか?この間に飛鳥では何一つ事件が起こらなかったとでも言うのか?

斉明が飛鳥に居残っていれば?まずはそれが順当な見方かも知れない。そもそも女帝がのこのこと船に乗ること自体が異常事態である。しかも勇ましく鎧兜で・・・。これはまったく神功皇后をそのまま生き写しにしたような大歴史小説になっているではないか。彼女は九州には行っていないのではないか?

ならば飛鳥は安泰である。しかし・・・。

斉明が重祚しておらず、すでに大海人が即位していたとしたなら?

すると、大敗北後、すごすごと戻ってきた中大兄こそが、飛鳥では排除され、クーデターを起こすしかない落ちぶれ皇太子だったことになってしまうだろう。


この期間なら、天武も額田王を天智から取り戻せていたはずだし、吉野にも行く必要がなくなる。そして天智が戻ってからは近江と飛鳥の2朝対立時代だったとも考えられる。天武の年齢が天智より上だったとも書かれる理由も、天武が天智のいない間に飛鳥を乗っ取った継体のような外部親王だったからといえることになりはしないか?


そうすると天智はまるで神功皇后と武内宿禰によって殺された仲哀天皇のモデルだったとも見えてくるから面白い。




そもそも天智が「聖人聖徳太子」を最初に創りだした人である。自分の祖母が蘇我氏だったから、殺してしまった蘇我本家と石川家両方の祟りを畏れ、事実をかわすために厩戸を持ち上げたのが聖徳太子。その後も鎌足の孫である光明皇后がこれを受け継いで、蘇我氏を鎮魂するために太子を持ち上げ続けたことが太子信仰まで生み出すこととなった。以後、日本人は戦争のたびにアマテラスと聖徳太子を軍神のごとく引っ張り出し、平和の象徴どころか実際には戦争の道具にしてきたのだ。

天智までの大王家は飛鳥の王家ではないのではないか?そう思うぐらいでちょうどいい。またぞろ戦争に『日本書紀』を持ち出されてはかなわない。むかしの無教養だった日本人とは今のわれわれは違う。そういうことだけはさせてはならない。


戦争するのにいちいち神がかりする時代では、もうない。













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