紀年銅鏡の出土地一覧図
一覧表
紀年 西暦 古墳名
築造年代 最大墳長 墳形
1 青龍三年方格規矩四神鏡 235年紀年 京都府峰山町太田南5号
4末~5初 20m弱 方墳
2 青龍三年方格規矩四神鏡 235年 大阪府高槻市安満宮山古墳
3後? 20m 方墳
3 赤烏元年対置式神獣鏡 238年 山梨県三珠町鳥居原狐塚古墳
5中 20m 方墳
4 景初三年三角縁同向式神獣鏡239年 大阪府和泉市黄金塚古墳
4後 94m 前方後円墳
5 景初三年三角縁同向式神獣鏡239年 島根県加茂町神原神社古墳
4中 30m 方墳
6 景初四年斜縁盤龍鏡 240年 京都府福知山市広峰15号
4後? 40m 前方後円墳
7 景初四年斜縁盤龍鏡 240年 伝宮崎県持田古墳群某所
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8 正始元年三角縁同向式神獣鏡240年 兵庫県豊岡市出石町入佐森尾古墳4末
4末 35m 方墳
9 正始元年三角縁同向式神獣鏡240年 群馬県高崎市蟹沢古墳
4末 12m 円墳
10 正始元年三角縁同向式神獣鏡240年 山口県新南陽市竹島古墳
4末 56m 前方後円墳
11 赤烏元年対置式神獣鏡 238年 兵庫県宝塚市安倉古墳
4 16m 円墳
12 元康?年対置式神獣鏡 291~299年 伝京都府上狛古墳
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13 正始元年同向式神獣鏡 240年 奈良県桜井市外山茶臼山古墳
4初 207m 前方後円墳
以上参考 石野博信『ひょうごの遺跡をめぐる』うより
一覧を見て感じるのは、
1 紀年鏡のすべてが、決して地域の大豪族の墓から出ていないことである。大きな墓となると奈良の外山茶臼山古墳だけだと言ってよいだろう。
2 奈良県からは一箇所しか出ていない。邪馬台国の三世紀の中国の紀年鏡であるのだから、邪馬台国が大和にあったと考えたい人々には、これは「なぜ?」でしかあるまい。
3 卑弥呼が鏡を分配したのなら、紀年鏡の出た墓の多くが卑弥呼よりも150年以上も下がった年代の墓であるのはなぜか?卑弥呼の時代に合致する墓は、この中では高槻市の安満宮古墳と外山茶臼山くらいのものである。卑弥呼が魏へ使者を送ってもらってきたのがこれらの紀年鏡だったのなら、なぜそんなにあとの時代の被葬者の墓にそれがあるのかである。考えられるのは、
A、邪馬台国連合は脆弱で、各地の王が勝手に中国と交易していた。
B、邪馬台国連合と紀年鏡には相関関係はない
C、卑弥呼の時代よりも後まで、鏡は伝世され、卑弥呼の死を慮りなかなか墓に入
れられずにいた。
4 魏とつきあっていたはずの邪馬台国連合。なのになぜ赤烏という呉の紀年鏡があるのか?山梨と宝塚の豪族は呉とつきあっていたアンチ邪馬台国国家だったのか?
石野のアイデアでは、当時、公孫氏が遼東で魏呉ともに自由につきあいがあり、諸国はそこから呉鏡も入手できたのだとする。それはつまり、邪馬台国体制が非常に緩かったことになる。
5 なぜ邪馬台国連合の最重要な玄関だった北部九州から紀年鏡が一枚も出ず、狗奴国的な地域である日向から出ているのか?つまり邪馬台国が大和にあったとするなら、そのとき筑紫連合は邪馬台国とは連携しておらないとなる。その理由はこれしかない・・・筑紫を遠隔地の邪馬台国が監視しなければならなず、それは筑紫は一枚岩の邪馬台国連合体ではないということではないか?しぶしぶ従っているような、いつ離反してもおかしくない存在が筑紫で、だから一大率を置かねば言うことを聞かなかったとなる。
いずれにしても、紀年鏡はあまりに邪馬台国の年代とはかけはなれた時間帯、地域枠から出てきてしまっているといわざるを得まい。
紀年鏡が出た=邪馬台国同盟国は言えないとしておきたい。