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古代史と気候変動

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気候変動と文明の崩壊はほぼリンクしており、なぜ気候変動が起こるかもある程度の解説がなされるようになっている。
http://cache.yahoofs.jp/search/cache?c=MShBH7Y5saEJ&p=%E5%BC%A5%E7%94%9F%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%81%AE%E5%AF%92%E5%86%B7%E5%8C%96+%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%95+%EF%BC%93%E4%B8%96%E7%B4%80&u=www.seijo.ac.jp%2Fpdf%2Ffaeco%2Fkenkyu%2F169%2Fakashi.pdf#search=%27%E5%BC%A5%E7%94%9F%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%81%AE%E5%AF%92%E5%86%B7%E5%8C%96+%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%95+%EF%BC%93%E4%B8%96%E7%B4%80%27
このサイトは地球の長期的な気候変動と、世界の王国、帝国の崩壊の関連が詳細になされている。例えば今回の1世紀後半~3世紀後半、あるいは6世紀の世界各国の文明交代劇を見ようとするなら、P24の「気候変動と文明の崩壊」章から下をざっと読むだけでも疑問は解けるはずである。

イメージ 1
2~3世紀に深刻な寒冷化が起きている。4世紀と6世紀に小寒冷期、持統天皇の8世紀には台風とシベリア寒気団の停滞や季節風暴風が起こる。各地に阿蘇風祝が送られ知事となっている(阿蘇・諏訪・常総など)。




3世紀後半の寒冷化の前から、世界では異常気象とその要因となった火山のひんぱんな噴火が増え始めているようだ。それによって、漢の滅亡、インドや欧州、エジプト太陽信仰の一時的クローズアップ時代(ラムセス3世王時代)などが起き、2~3世紀後半には、ステップ地帯の騎馬遊牧民族の南下、西移動によるケルト・ゲルマン民族の大移動が起こり、南欧からブリテン島への大移住が起きて人種のシャッフルが起こった。中国では三国志の激動期が、その影響を受けて、遼東での公孫氏の独立運動と反映と拡大政策が、そのまた影響で南の高句麗では広開土王が百済・新羅へ侵略を、金官伽耶などの伽耶諸国の離散と日本への逃亡が起こる。

この時期、ステップ地帯では乾燥した風が吹き荒れ、草原は枯れはて、遊牧、小麦生産などが不可能になる。ゆえに遊牧民は騎馬して、彼らの先祖がやってきた道であるステップロードを西へ逆流し、あるいは南方、中華帝国を侵害しはじめた。中国ではこれを受けて始皇帝以来、環境悪化のたびに増築してきた万里の長城が海岸部にまで延長されている。北方民族だけでなく、南の海人族までが倭寇といわれた海賊として侵略、迫害を始めたのであろう。

半島では公孫氏の南下で高句麗が南下政策を取らざるを得ず、南の百済を侵害する。百済はこれに対して倭のなにがしかの勢力に援助を求め、そのことが広開土王碑文に書き残された。当時の倭は弥生時代で、さほどの軍事力は持っていなかっただろうが、人海作戦であろうか、1世紀には山東半島の曹操先祖とも交流があったらしき船の技術があって、半島へ北上して、そのまま光州あたりに居残るものすらあったようだ(のちに前方後円墳が登場する)。

魏は呉、蜀を制すると、すぐに遼東へ兵を送り、公孫燕を滅ぼし、ここを奪還する。公孫氏は繁栄の期間、魏呉をてんびんにかけたつきあいをし、情勢を見てきたが、「倭は燕に接する」と魏志韓伝にあるごとく、海で隣り合う倭の筑紫ではない地域=日本海から近畿に住まった人々との物々交換を繰り返していた。韓伝にはさらに半島が「人肉相い食む」状態まで状況が悪化している。これは中国でも大差はなく、地方では「鬼市」なる村単位での子供の交換が行われていた。倭では地域地域でばらばらだった大陸大国への従属志向が、魏呉蜀いずれを選ぶかで錯綜をはじめる。そのことを近畿勢力は、政治的に公孫氏から知る位置にあった。一方筑紫は、常に中国漢に属してきたゆえに、早くから中国的な鏡祭祀を受け入れており、銅矛祭祀とそれは並立していた。しかし遠い近畿や日本海では、なかなか漢鏡は入手できず、銅器~鉄器もなかなか入らない。そこで公孫氏を通じていくらかの鏡を手にする程度。武器も古いままであった。筑紫はしかし新興勢力の大和に、容易には物資を提供せず、近畿は立ち遅れていた。そうした中で公孫氏が倒されてしまうと、手詰まりになり諸国が乱れ始める。筑紫は伽耶経営に忙しく、鉄は容易に入手できたが、伽耶も南下する百済や新羅によってひとたまりもなくばらばらになり、王族諸侯はみな海を渡って倭へ移住する。この伽耶王族の移住先が大陸に向かう位置にある筑紫ではなく、とんでもない片田舎だったはずの大和であったことが、近畿の文化に大きな影響を与える。3世紀から突然、近畿には環濠集落や大墓地が登場。徐々に倭の文化、武力は筑紫から大和へと動き始めた。そうした中で筑紫はしぶしぶ卑弥呼の共立に賛同せざるを得ないことに気付かされた。時代は弥生から古墳時代へと一気に変化したのである。

筑紫的な、大陸のヒエラルキー思想がついに大和へ入り、物資が足りない分、大和は鏡の大量コピーと大型化、さらに古墳の巨大化に打ち込むしかない。いわゆるはりぼて文化だと言える。それがのちの大和朝廷への第一歩だった。三角縁神獣鏡という公孫氏以来の呉越的な神仙思想と、寒冷・乾燥化を抑えられなかった半島銅器は打ち捨てて、太陽信仰を取り込む。鏡によって神の言葉を託宣する巫女王たちが、武力ではおさまらなかったことを反面教師にしたい豪族たちの支持を受けて登場した。中国伝統に影響を受けてきた筑紫は、女王を内心認めたくない。いやいやこれに従うそぶりを見せつつ、中国からの貢物などはすべて大和へは転送せず、交易も新羅とも北魏、残存呉などとも勝手にやりはじめた。そこで卑弥呼は伊都に一大率を置かねばならず、内心落ち着かない。

ついに筑紫は新羅や熊襲勢力と手を結ぶ。いわゆる狗奴国である。


ところが、5世紀、突然河内に新勢力が退去して押し寄せた。熊襲の襲来であろうか?河内に超巨大古墳群が登場し、西にあって葛城山をはさんで大和旧勢力王家と対立。河内勢力は、大和に紀を使うそぶりを見せつつも、実際にはその姫らを強引に妻に娶り、系図をつなぐことでいっそう巨大な墓を作る独裁制を見せる。倭王興から武の後半時代には、葛城王家、吉備王家という大和王家にとって重要な伽耶由来豪族をてなづけ利用したあげくに、滅ぼす。邪馬台国以来の主要氏族はみな大和中心部から離散し、近江や山背や紀伊~伊勢・東海へと移っていった。

しかし6世紀、再び気候変動が起こる。これによって河内倭王政権は壊滅的打撃を受けただろう。時代は百済にえにしの深かった王・継体を選ぶ。しかし継体の中継ぎとしての役目は、飛鳥を築く蘇我氏のかついだ欽明によって暗殺断絶し続かなかった。

こういう大きな流れがあったと見るほうが古代史はわかりやすくなかろうか?


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