前々から不思議に思っていることがある。
渡来して以来、播磨や出雲といざこざがあり、紆余曲折の末に但馬の国に入ったというアメノヒボコのことだが、「ひぼこ」という名前は矛を意味すると思っていたのが、なぜか兵庫の日本海側但馬地域の方墳や遺跡から、あまり銅矛が出ないのである。
日本書紀の解明サイトより
いや銅矛だけでなく、銅剣さえあまり出ない。
同上サイトより
銅矛を墓に入れるのは弥生時代の北部九州に顕著な風習なので、近畿に少ないのは当然と言えば当然。銅剣も瀬戸内中心でこれも当然と言えばそうなのだが、しかしするとこの人の名前になぜ「矛」がつくのかわからないわけである。
兵庫県豊岡市出石町がヒボコの本拠となったはずなのだが、ここにはヒボコを祭る出石神社が鎮座し、すぐそばには入佐山古墳群が存在し、これまでに日本の弥生時代でもっとも旧い時代の砂鉄が出ている。ほかに出石川流域の袴座遺跡からは有名な古代船の線刻画のはいった木製品も出ている。船と鉄ならば出石周辺は間違いなく先進地であろう。
出石神社Kawakatu撮影
HPを始めて、筆者はすぐに出石に行った。
出石古墳群方墳群Kawakatu撮影
入佐山三号墳(いるさやま)の砂鉄は、産土のように被葬者の下に敷かれていた。この古墳の年代(3世紀)からすると、それは日本の鉄の歴史では非常にありえないことだった。卑弥呼の時代に、ここの王や民は、もう砂鉄を知っていたことになるのである。砂鉄による製鉄は、普通、5世紀まで下がることになっている。
墳形は方墳でも長方形で、23×36m。それほど大きいわけではない。
また妙楽寺古墳では日本に数少ない長刀が出ている。
しかも長さが、魏志倭人伝で卑弥呼に下げ渡されたサイズの五尺クラスの鉄刀である。こうした五尺(魏尺で1.2mほどもある)刀は日本全国で5振ほどしか出ておらず、大変な貴重品である。
ちなみに卑弥呼は五尺刀を二振りもらったとあるが、兵庫県だけが長刀が2本出ていることも不思議である。やはり播磨・但馬は邪馬台国なのだろうか?となる。
出石神社近隣には多氏系大生部神社の石碑があったり、息長系部民の伊福部神社があるし、秦氏の記録も発見されている。
伊福部神社境内の大生部神社石碑Kawakatu撮影
伊福部神社
アメノヒボコと同じ伝承を持つ気比神宮のツヌガアラシトのいた福井は、敦賀の白銀町に白木神社があって朝鮮半島由来地名であるが、やはり銅矛、銅剣ともに出土が少ない。矛は皆無である。
(※しらき地名はすべて新羅由来とは言えない。むしろ日本の新羅使用は、三国時代の新羅統一以後であり、それ以前の百済や高句麗や伽耶諸国を含むケースが多い。というよりも秦氏の場合だが、先に葛城~山城に秦氏為政者が入ったあとから襲津彦がたくさんの秦の部民=職能民を連れ帰ったので、あとの部民もまとめて秦と呼んだのであり、秦は広く渡来技術者という意味を持っている。また秦氏が新羅から来るというのも、そもそも半島情勢で南下してきた広範囲の技術者たちが秦部なのだから、彼らも新羅とはいいつつもそもそも半島全域にいた人々だったと考えてしかるべきである。彼らには秦氏の血脈という統一性はない。秦という枠に朝廷によってまとめられただけの集合体である。秦氏というのは京都の管理者氏族に限った呼び名となる)
なぜアメノヒボコと呼ばれるのか、このようにまったく不明である。
矛を持たないのに天日鉾である。こういうところおかしいなあと首をかしげなきゃならんですよ、愛好家なら。
いずれにせよ、古墳時代というのは祭祀のよりしろが、弥生の銅剣・銅矛・銅鐸などから全国的に銅鏡=太陽の身代わりへと一変した時代である。だから方墳だろうと日本海だろうと、そこにある古墳に銅矛や銅剣や銅鐸がなくても不思議ではなくなっていた時代だということではないか?ならば弥生時代にはあったのか?というのが但馬・出石の謎なのだ。
なかったらしいから奇妙である。
ならなぜ彼はヒボコなのかである。
そしてヒボコやアラシトのような、秦氏とは違って「てんでんこ」に寒冷化と紛争の半島や大陸から逃げてきた渡来人がいくらもいたということである。彼らは主として日本海側に漂着し、そこから内陸をめざし、中国地方では播磨・吉備・四国・摂津・
河内・山城・近江そして大和から東海・関東へと広がっていくわけだ。福井からならば琵琶湖から近畿、東海へ向かう。そもそもが同じ半島を由来とする民族だったのだから朝鮮語を話し、どこかで邂逅しても、日本人とよりも血を交わす可能性が高かろう。半島人の今の生活感覚や思想などを見ても、かなり民族優先の排他的精神が垣間見えるから、縄文や海洋民日本人との頻度の高い血族化は多かったとは考えにくい気がする。
もちろんそうでない人々もいたではあろうが。
儒教がなあ・・・いつもそう思ってしまう。
結論
ヒボコもアラシトも、だから崇神時代というよりも、銅矛祭祀が消えた古墳時代に来訪したことがこれであきらか。つまりそれは3世紀後半の中国で三国紛争、半島でもそれが起こった時代。地球環境が寒冷・乾燥した民族大移動の時代だとはっきり言えるのである。