これから邪馬台国摂津・播磨説に関する記事を書く。
西求女(もとめ)塚、東求女塚、処女塚さらに五色塚といった瀬戸内海に面した臨海古墳群についてである。
過去、いくらかこれらについてはここでも書いてきた。
五色塚古墳と平安時代まで大和神社(正式名称・大和大国魂神社)祭祀者だった大倭(やまと)氏=古代の倭直、倭臣氏について、灘の西求女塚、処女塚、東求女塚と兵庫県を発掘している邪馬台国考古学者の石野博信(纒向発掘)の「邪馬台国播磨説」についてである。それら過去記事と、新たに見つけた新しい考察をあわせて、明日夜10時NHK総合 で放映されるだろうその種の番組※の前に、参考資料として読んでおくといっそう面白く視聴できるかも知れない。
※発掘!お宝ガレリア「またまた“小中学生”が見つけちゃった超スゴ~いお宝!展」https://hh.pid.nhk.or.jp/pidh07/ProgramIntro/Show.do?pkey=001-20170727-21-24744
ではまず、灘の海岸東部菟原に残る悲恋伝説「菟原処女の伝説(うないおとめのでんせつ)」からはじめてみよう。
菟原処女の伝説
能『求塚』の舞台。
「二人の男子はこの塚に求め来りつつ」
「この地に美しい乙女(菟原処女(うないおとめ))が住んでおり、多くの求婚者がいましたが、特に熱心だった2人(和泉(いずみ)(大阪府南部)の“血沼壮士(ちぬおとこ)”と地元の“菟原壮士(うないおとこ)”)が武器を持っての争いとなり、乙女は立派な若者を自分のために争わせたことを嘆いて死んでしまいます。
2人の若者もそれぞれ後を追って死んでしまい、それを哀れに思った人たちが、後々に語り伝えるために3人の塚を築きました。-
この伝説は奈良時代の万葉集(まんようしゅう)に登場する歌人たちが歌に詠んでいることから、かなり古い伝説だったようで、平安時代の「大和物語」では2人の若者が水鳥を弓矢で射て乙女を争うストーリーになり、後の時代にも謡曲(ようきょく)「求塚」や森鴎外(もりおうがい)の戯曲「生田川(いくたがわ)」などとして取り上げられています。」
http://www.city.kobe.lg.jp/culture/leisure/history/genshikodeai/004.html
この話は灘にある三つの古墳を男女の三角関係にした地元の民話を題材に能楽にしあげた作品である。その三つの古墳とは西求女塚古墳、東求女塚古墳、処女塚古墳のことだという。全国にこういう説話は多く、大半は山を題材にして、中世頃にできあがるが、古墳が題材とは珍しいのではないか。
次に当ブログ過去記事から、神戸の古墳の重要性について書いた部分の抜粋
「兵庫の東求女塚、西求女塚、処女塚の三つの古墳は面白い。それぞれ古墳の形が違う。西求女塚は前方後方墳、東求女塚は前方後円墳、処女塚は前方後方墳である。違う種族が同居していたのが神戸の灘である。ここ大事。」
2017/6/29(木) 午後 0:10卑弥呼の鏡論争 内向花文鏡か画文帯神獣鏡か?https://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/MYBLOG/yblog.html?m=lc&sv=%C0%BE%B5%E1%C4%CD&sk=1
「兵庫の東求女塚、西求女塚、処女塚の三つの古墳は面白い。それぞれ古墳の形が違う。西求女塚は前方後方墳、東求女塚は前方後円墳、処女塚は前方後方墳である。違う種族が同居していたのが神戸の灘である。ここ大事。」
2017/6/29(木) 午後 0:10卑弥呼の鏡論争 内向花文鏡か画文帯神獣鏡か?https://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/MYBLOG/yblog.html?m=lc&sv=%C0%BE%B5%E1%C4%CD&sk=1
「西求女塚古墳(にしもとめづか・こふん)
神戸市灘区都通3-1; 交通アクセス: 阪神本線「西灘」下車
前方後方墳 全長98m以上
古墳時代前期(4世紀後半~)
出土遺物
画文帯神獣鏡 2面
神人龍虎画像鏡 1面
半肉彫獣帯鏡 2面
三角縁神獣鏡七面(うち二面は布に包まれていた)
鉄製品 230点
碧玉紡錘車形石製品 1点
土師器 14点
織物残欠 2点
など
兵庫県の南東部、六甲山系と大阪湾に挟まれた標高6から8mの扇状地上に立地する、古墳時代前期初頭の大型前方後方墳である。古墳の存在は古くから知られており、『万葉集』などでは悲恋伝説の舞台として語り継がれてきた。
石室の石材は、地元のものだけでなく、阿波(徳島県)や紀伊(和歌山県)などからも運ばれており、地元の土器は出土しておらず、祭祀に用いられた土師器には山陰系の特徴をもつものが出土していることから、山陰や四国・南近畿などの諸地域と深い交流をもっていたことが推察され、瀬戸内海や大阪湾など水上交通に影響をもつ首長の墳墓であったとも考えられる
一般に前方後方墳は、ヤマト王権の直接の支配下に入らず、周辺部で独自の勢力を有していた有力な豪族の古墳に多いとされ、本古墳の被葬者もそうした一人であった可能性が高い
今回少年が発見した「温泉マーク」のある浮彫式獣帯鏡は一世紀半ばの中国鏡。
獣帯鏡には多様なデザインがあるので、一括して獣帯鏡と便宜的に呼ぶ。
中略
西求女塚古墳は、灘区のほかの有力古墳二つと同じく、海岸線に造られた大古墳。
まさに灘の地名にふさわしい立地にある。海が見える墳墓は、やはりその被葬者が海に深く関わった氏族の有力者だったからだろう。前方後方墳であることは、海人系海部・尾張氏に関わり、例えば大和の倭直(やまとのあたい)の先祖などが考え付く。いわゆる椎根津彦の子孫であろうか。
漢代の古い鏡を持っていたとすれば、邪馬台国などよりはるかに古くから、北部九州奴国同様に、漢との交流を持っていた氏族となるから、やはり倭直が最有力ではなかろうか?
言い換えれば、物部氏同族集団の一角であり、邪馬台国滅亡以後は、黒塚などとともに追いやられてゆく氏族のひとつであり、物部・和邇・尾張・海部などと同様、近畿最古の氏族にはいる。」2013/10/13(日) 午前 10:13西求女塚古墳と浮彫式獣帯鏡/少年の大発見https://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/55881620.html?__ysp=6KW%2F5rGC5aGa5Y%2Bk5aKzICDmsJHml4%2FlrabkvJ3mib%2FjgbLjgo3jgYTjgYLjgZLovp7lhbg%3D
これら古墳の被葬者を筆者は倭氏であろうと考える。
倭氏 やまと・うじ
倭国造(やまとのくにのみやつこ)氏
倭直 やまとのあたい
倭臣 やまとのおみ
大養徳
大倭
などが記録にある。
倭直 やまとのあたい
倭臣 やまとのおみ
大養徳
大倭
などが記録にある。
始祖伝承
祖神珍彦(うづひこ・宇豆毘古)。
後の槁根津彦(古事記)、椎根津彦(日本書紀)。
「イワレビコ(神武天皇)が吉備国の高嶋宮を出発した後、吉備国の速吸門で出会い、水先案内や献策などを行った。神武東征の功により、神武天皇2年に初めて倭国造に任じられたという。」WIKI大倭国造
それらの功績によって大王から「椎根津彦」の名を与えられた。椎根とは、舟を漕ぐ櫓のことで、古く椎の木から作られるのを最良としたことから、彼らの舟の民=豊後水道~瀬戸内の海人としての象徴として与えられた氏であろう。舟の櫓や櫂を、聖人の持つ威信物だった儀杖に見立てる風習があったという説がある(三品彰英「神武伝説の形成」1970)。杖、あるいはのちには構造船に立てられたV字型の柱などは、記紀神話にある高木の神=アメノミナカヌシであり、しかしそうした神の樹思想は中華の神仙思想を元とするものゆえ、神武の創生時代にはあるはずもなく、記紀編纂時代の8世紀の発想であろう。なんとなれば記紀編纂を指示した天武天皇が大海人という幼名や、ぬなはら・おきのまひとを諡号としているように、天武こそがそうした中華南朝の天文遁行に詳しいと書かれるので、まずそうであろう。また神武は創作された天皇祖人であって実在ではない。よって倭氏が神武時代に国造に任命されたというのも前倒し記事である。
実際には、大倭氏は大和にあった大和坐大国魂神社=のちの大和神社(祭神アマテラス、倭姫尊)の祭祀者であり、平安時代までには倭氏の名を、平安京遷都前に渡来してきた、のちの高野新笠の父方祖先である百済の一族(和氏)に譲って、大和神社祭祀からも撤退している。
珍彦の名は渦つまり海の渦潮を指しており、その姿も浦島太郎のような腰に箕を巻き、釣竿を持って舟で釣りをしていた。その場所は『古事記』と『日本書紀』で違っていて、豊後水道とも瀬戸内の垂水あたりにあった瀬戸の海峡であるともいうが、海人族である限り、そのどちらでもかまわない。広く太平洋側から瀬戸内海を往来していた海人族であろう。
祖人と本貫地
「「倭田」・「和田」と呼ばれる[1]。吉備国?。豊国?。穴磯邑大市長岡岬(大和神社旧社地)?。大和国城下郡大和郷、現在の奈良県天理市?。6-7世紀には磯城・十市地方(奈良盆地東部)も支配していたという。
「「倭田」・「和田」と呼ばれる[1]。吉備国?。豊国?。穴磯邑大市長岡岬(大和神社旧社地)?。大和国城下郡大和郷、現在の奈良県天理市?。6-7世紀には磯城・十市地方(奈良盆地東部)も支配していたという。
大和坐大国魂神社(やまとにますおおくにたまじんじゃ)。つまり、大和神社。あるいは、大和大国魂神社。斎主だった皇女渟名城入姫は、髪が落ち体は痩せて祭祀を続けることができなくなり、崇神天皇7年(紀元前91年)に倭迹迹日百襲媛命が夢で「市磯長尾市をもって、倭大国魂神を祭る主とせば、必ず天下太平ぎなむ」との神託を受け、垂仁朝に市磯長尾市が倭大国魂神を祭って創建された。」Wiki倭国造
海人族であれば、天武直前までには、すべてが海部の管轄化に置かれたはずである。つまり尾張氏、海部氏などと同族とも言われるが、むしろ日下部のような扱い方をされた可能性がある。というのは1世紀から3世紀を経て、5世紀頃の古墳時代前期末まで、彼らは高い地位にあったのが、天武期をのぞくと次第に目立たぬ存在となり、平安時代には祭祀者としてしか名前がでぬ存在となったからである。このことから、3世紀に彼らが邪馬台国に仕えた貴族階級だったのが、狗奴国に敗北することで前方後方墳の西求女塚へと転進し、それゆえに、やがて有史時代になると大和朝廷に煙たがられ始めたとする意見もあるだろう。そういう存在が大倭氏である。
黒塚古墳被葬者も?
瀬戸内海の播磨から摂津にかけて、彼らのものではないかと思われる臨海・臨河川大古墳がずらりと並ぶ。時代は古墳前期末すなわち3末~4世紀のもので、前方後円墳や前方後方墳が入り混じって存在する。その列は、猪名川で河川に沿って内陸へ向かうほか、瀬戸内沿岸に沿ってやがて摂津へ向かい、神戸の五色塚、灘の西求女塚、東求女塚、処女塚、桜丘古墳群、そして摂津淀川をさかのぼって直弧文のある鹿骨製の腕輪が出た紫金山古墳(前方後円墳)、高槻市の安満宮山古墳(長方形墳)へと続いてゆく。最古的な巨大古墳としては奈良纒向の黒塚古墳まで遡れるか。つまり彼らはそういう最古級の氏族であろう。そしてそれが九州の東海岸にいたと『古事記』がしていることは大事である。なぜなら豊前・豊後は海部だった大分君がいた土地だからだ。豊前海岸部に多くの方墳があることは忘れてはなるまい。そこが大倭氏のふるさとだったかも知れないのだ。豊後水道の佐賀関に椎根津彦神社と早吸比売神社がある。おそらく『古事記』記述に沿ったものであろう。
一方、兵庫の灘には生田川沿いに生田神社がある。
瀬戸内海の播磨から摂津にかけて、彼らのものではないかと思われる臨海・臨河川大古墳がずらりと並ぶ。時代は古墳前期末すなわち3末~4世紀のもので、前方後円墳や前方後方墳が入り混じって存在する。その列は、猪名川で河川に沿って内陸へ向かうほか、瀬戸内沿岸に沿ってやがて摂津へ向かい、神戸の五色塚、灘の西求女塚、東求女塚、処女塚、桜丘古墳群、そして摂津淀川をさかのぼって直弧文のある鹿骨製の腕輪が出た紫金山古墳(前方後円墳)、高槻市の安満宮山古墳(長方形墳)へと続いてゆく。最古的な巨大古墳としては奈良纒向の黒塚古墳まで遡れるか。つまり彼らはそういう最古級の氏族であろう。そしてそれが九州の東海岸にいたと『古事記』がしていることは大事である。なぜなら豊前・豊後は海部だった大分君がいた土地だからだ。豊前海岸部に多くの方墳があることは忘れてはなるまい。そこが大倭氏のふるさとだったかも知れないのだ。豊後水道の佐賀関に椎根津彦神社と早吸比売神社がある。おそらく『古事記』記述に沿ったものであろう。
一方、兵庫の灘には生田川沿いに生田神社がある。
播磨だけではなく摂津三島も含めて、そこが3世紀から倭一族の根城だったことは間違いあるまい。それが邪馬台国播磨説の背景である。ただし卑弥呼の墓にしたければ前方後円墳である東求女塚のほうがふさわしい。なぜなら九州における「卑弥呼の鏡」とおぼしき内向花文鏡が出ている。この鏡は太陽信仰があったことを教える鏡で卑弥呼に最もふさわしい鏡である。残念ながら、少年が発見した獣帯神獣鏡では、太陽をつかさどるアマテラスを祭る巫女王のデザインにならない。ただし、大和神社伝承の巫女王たちと伊勢神宮ヤタノ鏡が内向花文鏡であること、箸墓伝説などなど、すべてが太陽神アマテラスに関わるため、すべてを否定することはできない。むしろ、九州の海部の巫女王国と大和の巫女王国がいよいよ深い関係にあったことの証明とするほうが前向きな考え方ではないかと筆者は感じる。
なお、倭氏の大和での祖である長尾市の「いちし」は地名で市磯。いわゆるここに神武の名になるイワレ池gふぁあって、彼らはそこを根城として水の祭祀をしていた氏族である(辰巳和弘『聖樹と古代大和の王宮』2009)。つまり倭氏は磐余最古の氏族であり、神武東征譚は彼らの東征伝承であり、これといってほかになんの記事もない磐余という土地と神武諡号のイワレをつなぐ場所なのである。