瓦には平瓦と丸瓦があり、屋根の最前部には軒平瓦・軒丸瓦という、外縁に絵柄が浮き彫りされた飾り瓦を置く。丸瓦は旧い時代の寺院などに使われることが多く、いわゆる井上靖()いのうえ・やすし)の小説『天平の甍(いらか)』の「いらか」は、天平時代に多かった奈良県の寺院の屋根の景色を言うものである。童謡にも「いらかの波と雲の波」(こいのぼり)などと使われた言葉である。
軒丸瓦と軒平瓦の部位名称
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森 郁夫『一瓦一説 瓦からみる日本古代史』平成26年から
日本で瓦が使われるのは、飛鳥時代からである。それまでは日本を代表する屋根と言えば、桧皮葺や藁葺きだったと考えられる。記録上では最古の瓦が使われた建築は、飛鳥寺とされている。飛鳥から天平にかけて、百済様式を主として飛鳥寺、川原寺、法隆寺、斑鳩寺、豊浦寺、天智天皇時代には筑紫最古の観世音寺などが創建された。
もっとも、考古学の伽藍発掘では、その場所には、さらに旧い時代の伽藍が発見されることも多く、法隆寺若草伽藍や観世音寺旧伽藍の発掘の際に、さらにその下からもっと前の時代のプレ伽藍が出ることがある。法隆寺は西院伽藍以外は、数度の消失による建て替えがあって、観世音寺にもプレ伽藍があったようである。それゆえにそこで使われた瓦も時代を追って多種多様の出土があり、なかなか素人では分析を読むのは困難となってきた。筆者もまだかなり頭が混乱させられていて、この分析には長い時間がかかりそうである。ご了承ください。あいまに、別記事を投入して、筆者の気分転換をすることもあろうかと思う。
詳細はそれぞれ専門家の著書やサイトがあるので、各人、別途お読みいただきたい。
ここでは、極力簡単明瞭に最古の瓦様式だけを載せるようにしたい。
瓦を伝えてきたのは三韓時代の百済王・昌王である。『日本書紀』崇峻天皇紀に建築博士や瓦博士及び工人が来たとある。あくまでも記録上は、これが最初で、飛鳥寺は彼らの指導で創建される。そのとき建材を調達したのは飛騨蝦夷である。皇極~斉明紀に彼らを饗応した記録がある。この博士らはいわゆる前に書いたペルシア人名を持つ人々だった可能性があり、理由のひとつに、オリエント建築のエンタシスとか、パルメット、ロータスデザインが飛鳥~天平に流行っているからである。
百済昌王は、聖王(聖明王)の長子・威徳王であると思われ、その当時半島は、例によって中国情勢の影響下にあった高句麗の南下、新羅の台頭が起きており、百済を中心に、倭国へ援助を求めて、贈答品や技術者が贈られたようである。だから、瓦にもそれが反映し、百済様式を中心としながらも、高句麗・新羅様式の瓦模様が混じる寺院がある。
飛鳥寺 百済様式である
法隆寺 時代を追って、また伽藍によって百済・高句麗、やがて新羅様式のデザインが混在する。飛鳥寺の同笵瓦が出る。西院伽藍よりも東院伽藍、金堂などで混在が増加傾向にある。
川原寺・観世音寺 観世音寺と川原寺には同種瓦が使用された。どちらも斉明天皇の死を息子の天智が追悼して建てられたという記録を後押しする特殊様式である。
豊浦寺 高句麗様式。これは蘇我氏別業の寺であるため、蘇我稲目の妻が高句麗王の娘だったという記録に合致する。
次回、もう少し各寺別の分析詳細を画像でやりたいと思う。
この長い記事に登場する人物は蘇我馬子、物部守屋、物部大刀自、蘇我蝦夷、秦河勝、蘇我入鹿、天武天皇、天智天皇、持統天皇、斉明女帝、藤原不比等、藤原光明子・・・などになろうと思う。その中から天智~藤原光明子の期間に、日本復興や政治腐敗、政争のたびに作られていった聖徳太子のイメージの元となる人々が、間違いなく存在する。
また観世音寺の伽藍が法隆寺の伽藍とは大きさが違っていることから、観世音寺から法隆寺への移転説がある。これもややこしいが、天智天皇が播磨や大和や筑紫に、いくつかの観世音寺的な寺を建てており、またそれらがみな、斉明天皇のための寺であることも大事だろう。聖徳太子のイメージは、だからそれにともなって、ある工人が持っていった、それを古くは蘇我氏も、天智も、藤原氏も意図的にやっていたことも書かねばなるまい。
ご期待ください。
どうも原稿締め切りには間に合いそうにない。