ひとつきブログ更新をうっちゃっていた。
ひたすら食っちゃ寝るの日々。
静養のつもりでもあり、なおかつ、長考に入り迷宮入りしている瓦からの聖徳太子分析に背を向けたかったということもある。
秋口から偏頭痛に悩まされだした。毎年、猛暑のあとに夏バテとともにやってくる現象である。夏風邪のような状態が半月以上続いている。脳の左右側頭部に、軽い麻痺のような痺れと鈍痛が時折表われ、脳がひきつる感覚に、体も心もしびれて動かない。脳梗塞あるいは血管の縮小が原因だろう。今朝、台風がやっと記事を書く気にさせた。
那須与一源平屋島合戦での扇射的の逸話
平家物語:扇の的(原文)
ころは二月(にんぐわつ)十八日の酉(とり)の刻ばかりのことなるに、をりふし北風(ほくふう)激しくて、磯(いそ)打つ波も高かりけり。
舟は、揺り上げ揺りすゑ漂へば、扇もくしに定まらずひらめいたり。
沖には平家、舟を一面に並べて見物す。
陸(くが)には源氏、くつばみを並べてこれを見る。
いづれもいづれも晴れならずといふことぞなき。
与一目をふさいで、
「南無八幡大菩薩(なむはちまんだいぼさつ)、我が国の神明(しんめい)、日光(につくわう)の権現(ごんげん)、宇都宮(うつのみや)、那須(なす)の湯泉大明神(ゆぜんだいみやうじん)、願はくは、あの扇の真ん中射させてたばせたまへ。これを射損ずるものならば、弓切り折り白害して、人に二度(ふたたび)面(おもて)を向かふべからず。いま一度(いちど)本国へ迎へんとおぼしめさば、この矢はづさせたまふな。」
と心のうちに祈念して、目を見開いたれば、風も少し吹き弱り、扇も射よげにぞなつたりける。
与一、かぶらを取つてつがひ、よつぴいてひやうど放つ。
小兵(こひやう)といふぢやう、十二束(そく)三伏(みつぶせ)、弓は強し、浦響くほど長鳴りして、あやまたず扇の要(かなめ)ぎは一寸ばかりおいて、ひいふつとぞ射切つたる。
かぶらは海へ入りければ、扇は空へぞ上がりける。
しばしは虚空(こくう)にひらめきけるが、春風に一(ひと)もみ二(ふた)もみもまれて、海へさつとぞ散つたりける。
夕日(せきじつ)のかかやいたるに、みな紅(ぐれなゐ)の扇の日出(い)だしたるが、白波の上に漂ひ、浮きぬ沈みぬ揺られければ、沖には平家、ふなばたをたたいて感じたり、陸には源氏、えびらをたたいてどよめきけり。
あまりのおもしろさに、感に堪へざるにやとおぼしくて、舟のうちより、年五十ばかりなる男(をのこ)の、黒革をどしの鎧(よろひ)着て、白柄(しらえ)の長刀(なぎなた)持つたるが、扇立てたりける所に立つて舞ひしめたり。
伊勢三郎義盛(いせのさぶらうよしもり)、与一が後ろへ歩ませ寄って、
「御定(ごぢやう)ぞ、つかまつれ。」
と言ひければ、今度は中差(なかざし)取つてうちくはせ、よつぴいて、しや頸(くび)の骨をひやうふつと射て、舟底へ逆さまに射倒す。
平家の方(かた)には音もせず、源氏の方にはまたえびらをたたいてどよめきけり。
「あ、射たり。」
と言ふ人もあり、また、
「情けなし。」
と言ふ者もあり。
ころは二月(にんぐわつ)十八日の酉(とり)の刻ばかりのことなるに、をりふし北風(ほくふう)激しくて、磯(いそ)打つ波も高かりけり。
舟は、揺り上げ揺りすゑ漂へば、扇もくしに定まらずひらめいたり。
沖には平家、舟を一面に並べて見物す。
陸(くが)には源氏、くつばみを並べてこれを見る。
いづれもいづれも晴れならずといふことぞなき。
与一目をふさいで、
「南無八幡大菩薩(なむはちまんだいぼさつ)、我が国の神明(しんめい)、日光(につくわう)の権現(ごんげん)、宇都宮(うつのみや)、那須(なす)の湯泉大明神(ゆぜんだいみやうじん)、願はくは、あの扇の真ん中射させてたばせたまへ。これを射損ずるものならば、弓切り折り白害して、人に二度(ふたたび)面(おもて)を向かふべからず。いま一度(いちど)本国へ迎へんとおぼしめさば、この矢はづさせたまふな。」
と心のうちに祈念して、目を見開いたれば、風も少し吹き弱り、扇も射よげにぞなつたりける。
与一、かぶらを取つてつがひ、よつぴいてひやうど放つ。
小兵(こひやう)といふぢやう、十二束(そく)三伏(みつぶせ)、弓は強し、浦響くほど長鳴りして、あやまたず扇の要(かなめ)ぎは一寸ばかりおいて、ひいふつとぞ射切つたる。
かぶらは海へ入りければ、扇は空へぞ上がりける。
しばしは虚空(こくう)にひらめきけるが、春風に一(ひと)もみ二(ふた)もみもまれて、海へさつとぞ散つたりける。
夕日(せきじつ)のかかやいたるに、みな紅(ぐれなゐ)の扇の日出(い)だしたるが、白波の上に漂ひ、浮きぬ沈みぬ揺られければ、沖には平家、ふなばたをたたいて感じたり、陸には源氏、えびらをたたいてどよめきけり。
あまりのおもしろさに、感に堪へざるにやとおぼしくて、舟のうちより、年五十ばかりなる男(をのこ)の、黒革をどしの鎧(よろひ)着て、白柄(しらえ)の長刀(なぎなた)持つたるが、扇立てたりける所に立つて舞ひしめたり。
伊勢三郎義盛(いせのさぶらうよしもり)、与一が後ろへ歩ませ寄って、
「御定(ごぢやう)ぞ、つかまつれ。」
と言ひければ、今度は中差(なかざし)取つてうちくはせ、よつぴいて、しや頸(くび)の骨をひやうふつと射て、舟底へ逆さまに射倒す。
平家の方(かた)には音もせず、源氏の方にはまたえびらをたたいてどよめきけり。
「あ、射たり。」
と言ふ人もあり、また、
「情けなし。」
と言ふ者もあり。
(引用:光村図書『国語 2』)
北ミサイル 火星12の精度は低水準 グアム基地命中10%未満 米科学者
9/17(日) 7:55配信
【ワシントン=黒瀬悦成】米非営利団体「憂慮する科学者同盟」のデービッド・ライト氏は北朝鮮の15日発射のミサイルについて、米領グアムに到達可能だとしても、グアムのアンダーセン米空軍基地に正確に命中させる精度は確保していないとの見方を示した。
火星12のような旧世代技術のミサイルは、発射直後のブースト段階で誘導・管制に誤差が生じるほか、再突入段階で弾頭が大気を通過する際にも誤差が発生。このためミサイルの命中精度を示す「平均誤差半径」(CEP)は「5~10キロまたはそれより大きい」低水準にとどまるとしている。
仮に火星12に150キロトンの爆発力を持つ核弾頭を搭載して基地を狙って発射したとしても、地上に壊滅的打撃をもたらす爆心地からの爆風半径は3・7キロ。火星12のCEPが5~10キロだとすると、基地を破壊できる可能性は10%を大きく下回ると分析している。
火星12のような旧世代技術のミサイルは、発射直後のブースト段階で誘導・管制に誤差が生じるほか、再突入段階で弾頭が大気を通過する際にも誤差が発生。このためミサイルの命中精度を示す「平均誤差半径」(CEP)は「5~10キロまたはそれより大きい」低水準にとどまるとしている。
仮に火星12に150キロトンの爆発力を持つ核弾頭を搭載して基地を狙って発射したとしても、地上に壊滅的打撃をもたらす爆心地からの爆風半径は3・7キロ。火星12のCEPが5~10キロだとすると、基地を破壊できる可能性は10%を大きく下回ると分析している。
アメリカが平家で北朝鮮は源氏の義経側である。
アメリカが「できるもんならグアム島基地の真ん中を射てみよ」と挑発している。
この対立は明らかな「出来試合」で、両者ともに、実戦する意志がない。
しかも北には燃料も金も少なく、戦えば敗戦が明らかなので、チキン戦争の舌戦で続く、つまりゲームでしかない。互いの戦力、防衛力をうかがうばかりの、実戦なきやりあいである。あいだで右往左往させられているのは日本と韓国だけ。
台風18号
最初からこの台風の予想コースは間違っていると感じていた。
7月に来た5号と同じコースになるだろうと。
気象庁の予想円は九州のど真ん中を縦断するとしていたが、筆者は「違う」と思っていた。この鹿児島西部上陸コースは、昨今では、ほぼ予測円の東端を通る傾向にある。今回も薩摩半島から大住半島をかすめて太平洋へ出て行くだろうと予測していた。案の定、今、その通りのコースになりつつある。
現象の多くは、このように、過去をきちんと見ていれば、ある程度の予知予測が可能なことばかりである。予測できないのは、自身の体内で起こっている病魔や、おのれの心的な動きである。常に敵は自分なのだ。
「しょうとくたいし」と読ませた時代は?
「音読みには呉音・漢音・唐音(宋音・唐宋音)・慣用音などがあり、それぞれが同じ漢字をちがったように発音する[2]。たとえば、「明」という漢字を呉音では「ミョウ」と、漢音では「メイ」と、唐音では「ミン」と読む。
「音読みには呉音・漢音・唐音(宋音・唐宋音)・慣用音などがあり、それぞれが同じ漢字をちがったように発音する[2]。たとえば、「明」という漢字を呉音では「ミョウ」と、漢音では「メイ」と、唐音では「ミン」と読む。
漢音は7、8世紀、遣唐使や留学僧らによってもたらされた唐の首都長安の発音(秦音)である。呉音は漢音導入以前に日本に定着していた発音で、通説によると呉音は中国南方から直接あるいは朝鮮半島(百済)経由で伝えられたといわれるが、それを証明できるような証拠はない。
上記のように、漢字音の導入には仏教が大きく関わっており、各宗派によって使う音読みが異なっている。例えば、高僧を意味する「和尚(和上)」について、律宗・法相宗・真言宗では呉音で「ワジョウ(ワジャウ)」と読み、天台宗では漢音で「カショウ(クヮシャウ)」、禅宗・浄土宗では唐音で「オショウ(ヲシャウ)」と読んでいる。しかしながら、仏教用語の多くは古くから定着していた呉音で読まれている。
呉音は仏教用語や律令用語に使われ、日常語としても定着した。漢音はもっぱら儒学で用いられた。」以上Wiki音読み
漢字の読みは、日本にはまず呉音が先にやってきた。その時期を想定するなら、呉のあった中国南部の南朝との深いつきあいがあってからであろうから、倭五王の時代が候補1となるだろう。するとそれは最古で5世紀~6世紀だっただろう。漢音は仏教とともに飛鳥時代以降に定着すると考えられる。
しかし飛鳥時代の仏教導入者だったと『日本書紀』に記録される聖徳太子の読みは「しょうとく」で呉音であり、仏教導入とは無関係に読まれている。漢音読みなら「せいとく」となってしかるべきところである。聖徳太子の聖徳のイメージが完全に宮中に定着するのは、『日本書紀』によるところが大きく、それは天智~持統の期間、そして藤原光明子が皇后だった時代で、いずれも藤原氏(及び寺院建設に関与した渡来人秦氏)によるところが非常に大きいと考える。そのイメージが必要だった時代は、
1 日本が対外的に非常な危機的場面に遭遇した時代=白村江敗北
2 藤原氏台頭から藤原不比等のカリスマ性が失われ始める時代=光明子皇后時代
の二回が考えられる。
危機に当たって、それを乗り越えうる偉大な先人があったとしなければならなかった時代であり、それはちょうど記紀成立の前後である。証拠はさまざまあがっているが大事なヒントは、
●法隆寺薬師三尊像の光背銘文に「天皇」などの、太子の時代に合わぬ事柄が多い。
●薬師信仰は天武以降に大和に入るので、100年前の太子時代に薬師如来が存在するはずがない。
●持統天皇時代の様式の天蓋の痕跡が天井にある。
●天寿国繍帳の亀模様は斉明(皇極)女帝時代のもので、織物そのものも、銘文も太子時代ではなく、藤原光明子の時代の様式。
●法隆寺阿弥陀如来光背銘文の内容も、釈迦三尊の光背銘文も、太子時代にマッチせず、あとの時代=天智~光明子の期間に製作されている。
●『上宮聖徳法王帝説』その他の聖徳太子記事もその期間以降のものであろう。
などが挙げられる。だから聖徳太子とは、あとの時代の政治的利用で造作されたイメージであるとしたのは大山誠一である。「いなかった」はあくまでもセンセーショナルに著作をイメージアップするキャッチコピーであって、「聖徳太子はいなかった」のではなく、モデルは存在したが、事績の多くは後世の造作だと大山は言ったのであった。ところが深読みが苦手な一般聖徳太子ファンの中に、本当に存在しなかったのだ、と誤解した人々も多かった。著作の宣伝文句の話題性ある古代表現を鵜呑みにした人が、大いに反論したことがあった。およそ文献史学者というものは文科系人間であるので、表現はどうしてもそういう傾向があり、それは例えばスポーツ新聞の「●●選手引退」のあとに、新聞の折り返しを開くと「?!」がつくようなもので、たいがいの人は、苦笑で終わる表現方法に似ている。
また聖徳太子を「せいとくたいし」と漢音で読ませないのは、『日本書紀』の仏教導入者としての太子像と矛盾しており、「しょうとく」と呉音読みするのは、彼が古い時代にいた聖人であったことをイメージさせるために作られた人物と考えることができるかもしれない。日本の仏教の用語は、ほぼ呉音で読まれるわけだが、それは日本の仏教が、百済から伝来したためであり、百済仏教が南朝の影響を強く受けるものだったからだろう。つまり日本の仏教は最初から、中国南朝、呉音、宋音による古い大乗であることがわかる。中国の仏教が、北朝の新しい解釈であるところと、そこが違うだろうと思う。
さて、次に寺院に使われる軒瓦様式で見てみよう。
日本最古の寺院は、記録上も考古学上も、まず飛鳥寺(のちに元興寺)から始まる(筑紫最古の観世音寺は天智天皇が母親の斉明女帝の筑紫遠征先での死を悼んで創建したとされる)。
飛鳥寺
法隆寺
豊浦寺
坂田寺
観世音寺
をここで取り上げる。
それぞれの軒丸瓦の様式を比較するためである。
軒瓦の基礎知識については、先の記事をすでにお読みいただいたと思う。
飛鳥寺軒丸瓦はその多くが百済様式のものが用いられたが、中に高句麗式、新羅式のものが散見できる。百済様式が最も多いわけは、伽藍五重塔地下から百済昌王名前入りの贈呈物が出たことからも、飛鳥寺が当初から百済工人によって創建されたものであることを証明する。『日本書紀』には崇峻紀に百済が建築博士、瓦博士を贈ったとある。百済昌王は相続く韓半島での高句麗や新羅との戦いについて、倭国に援助を願い出た。その贈り物が彼らである。例のペルシア人だったという一説のある工人と博士たちである。
飛鳥寺軒丸瓦はその多くが百済様式のものが用いられたが、中に高句麗式、新羅式のものが散見できる。百済様式が最も多いわけは、伽藍五重塔地下から百済昌王名前入りの贈呈物が出たことからも、飛鳥寺が当初から百済工人によって創建されたものであることを証明する。『日本書紀』には崇峻紀に百済が建築博士、瓦博士を贈ったとある。百済昌王は相続く韓半島での高句麗や新羅との戦いについて、倭国に援助を願い出た。その贈り物が彼らである。例のペルシア人だったという一説のある工人と博士たちである。
ところが救援を欲して贈答をしてきたのは百済だけではない。高句麗も新羅もなんらかの援助を依頼し、なにがしかの技術や宝物を贈っていたようだ。飛鳥寺軒瓦にそれらが混在する理由に、そうした政治的事情があったのだろう。
法隆寺は、飛鳥寺と違い、北西部の斑鳩に聖徳太子が創建したと伝わる。斑鳩は生駒山地の信貴山をはさんで、東は物部氏が本拠としていた八尾市渋川と接している地域にある。信貴山の両側は、物部氏伝承にある祖神ニギハヤヒの姑とされたトミのナガスネ彦が住まったトミであると考えられる。トミ地名は奈良に二箇所あるが、もう一箇所の南部の多武峰山麓の等彌よりも、信貴山北東の鳥見のほうが、ニギハヤヒ降臨伝説のある交野市の磐船神社に近く、ふさわしいし、信貴山両側が物部氏の本拠地であることでもここであろう。実際に歩いてみれば、磐船神社から24号線鳥見へはすぐであった。その八尾市の渋川には物部守屋の別荘、別業ともいうべき渋川寺があり、今は渋川廃寺と呼ばれている。斑鳩に聖徳太子が住んだとされる理由は、守屋反乱の際に、平定後、蘇我馬子がその所領を手にして、さらに各地の所領をのちに秦氏に管理(京都の藤森神社や寝屋川太秦がそうだろう。そのわけは寺社建設や池、河川の開発に土木専門だった秦工人を使ったため。聖徳太子が大工・香具師の祖人とされたのもここから)させたことから、法隆寺も最初は物部氏の寺がそこにあったと考えられ、実際、法隆寺伽藍下から、それ以前の伽藍が出土している。
法隆寺軒丸瓦は飛鳥寺の同笵瓦がたくさん使われており、飛鳥同様、百済様式を中心に、新羅・高句麗様式を混在させて作られている。法隆寺は西院伽藍だけが最古のまま残っており、東院伽藍は天智~光明子の時代の再建かと思われる。記録どおりなら天智時代に火事があり、消失再建されたことになる。飛鳥寺はのちに平城京へ移転しているので、それでも法隆寺は世界最古の木造建造物である。西院伽藍は太子の別荘だったとされ、夢殿もここにある。一方、東院伽藍、また阿弥陀如来像も、おそらく天智~光明子時代に、太子をイメージして造られたことはまず間違いがない。
夢殿つまり八角堂は、天平11年(739)ころ行信の創建になる八角堂で、本尊の救世観音(くせかんの ん)立像とともに太子よりもあとの時代のものであり、また八角円堂は京都太秦の秦氏創建の広隆寺内にも存在し、ともに国宝だが、あるいは広隆寺の方が古い可能性がある。つまり秦河勝には太子自身のイメージが重なることになろう。聖徳太子イメージの第一は河勝。さてほかには?
続いて蘇我氏別業だった甘樫の豊浦寺は、瓦様式が高句麗様式である。蘇我の豊浦大臣と呼ばれた蘇我蝦夷の飛鳥での寺である。高句麗の様式である理由は明白で、祖父蘇我稲目の妻が高句麗王の娘だったからである。つまり蘇我氏は高句麗とも縁が深い、というよりも三韓すべてと交流した稀有な政治家だということになる。特に新羅とのつきあいも忘れていないところはのちの天武の政治姿勢に相通ずるところがある。
先ごろピラミッド式の古墳が話題になったが、あれはまず間違いなく稲目の妻高句麗女性の墓であろう。階段式方墳は高句麗王族の様式で間違いない。
さて、蘇我氏は、物部氏の所領のすべてを手中にしたわけだが、その背後に、守屋の妹であった大刀自姫の存在が見え隠れすることは以前書いた。馬子の妻である。守屋死後、物部氏の最高権力者は彼女になったわけだから。そして渋川や斑鳩にあった物部氏の寺を解体し、新しく法隆寺などを建てたことになる。その工人が秦の工人なのである。
続く
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斑鳩と飛鳥は対面する。
図上では、飛鳥は奈良盆地南部の東端で、斑鳩は盆地をはさんで西端に位置する。
奈良盆地は古くは縄文海進が残存する古奈良であったが、徐々に干上がっていって、古墳時代には中心部に浅い湿地を残す程度になっている。
この古奈良湖を形成したのは、盆地を、河内湾(古河内湖)と仕切っていた生駒山地と金剛葛城山地が存在し、今の斑鳩~古市へ抜けるただ一箇所の切れ目から、瀬戸内の海水は河内湖を経て流れ込んだことによる。
もう少し広い視線で言えば、一万年以上前、温暖化が始まって、最初、海水は徐々に「瀬戸内大盆地」に流れ込み始める。豊後水道、鳴門海峡、関門海峡の三箇所から、海水が入り、大阪湾は上町台地と生駒・金剛の山地だけを残してすべて海水に覆われてしまったということだ。
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それが徐々に干上がった頃に弥生時代が始まり、古墳、飛鳥へと続く。そういした歴史的視点で考えると、大阪と奈良は山を障壁として仕切られた、二段構えの潟湖であったことに気付くはずだ。関西地方で、ここが最初の大都市を造る理由はここにある。非常に安全な良港だったからにほかなるまい。
奈良盆地と河内湖をつなぐ唯一の切れ目に、だから当然、盆地東部の笠置・鈴鹿山地から染み出した水は、大和川となってここを流れ出すことになり、それが唯一の瀬戸内への出入り口となったわけである。
だからこそ、この出入り口の両側には、古市古墳群や斑鳩宮といった河内・奈良両王家の重要遺跡が集中している。
さて、飛鳥は蘇我一族の創った都であるが、彼らはまず斑鳩、つまり太子町周辺の石川を出自とした氏族である。飛鳥には、前にも書いただろうが、蘇我関連一族とそこから出た大王たちの墓が連なるように形成されている。そして斑鳩には、そこから改葬された分祀としても方墳が集中している。飛鳥の見瀬(五条野)丸山古墳、梅山古墳、植山古墳、石舞台古墳、鬼の雪隠・俎、野口王墓古墳、中尾山古墳などなど、ありとあらゆる墓はみな、蘇我氏の血脈に深く関わった人々のものであると言える。
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飛鳥の人口をなしていたのは、まずは渡来氏族と蘇我一族。聖徳太子もまた彼らの一員である。しかし、そうなる前には、生駒山には物部氏らが、葛城山には葛城氏らがすでに住まっていて、物部氏は生駒山塊を左右に根城とし、特に河内側の渋川を居館としていた守屋一族があった。守屋の別宅に渋川廃寺があり、蘇我氏に滅ぼされると、そこは蘇我氏の手に入り、反対側の斑鳩も蘇我氏の土地になったと思われる。
その背後にいたのが、馬子の妻である物部大刀自姫である。守屋の妹である彼女は、兄の引き継いできた大連としての権益をすべてを、夫・蘇我馬子に奪わせることで、自らが物部大連となることに成功。ここから蘇我氏の繁栄は始まったと言ってよい。
蘇我氏はそうやって三代を形成する。彼らは多くの半島技術者を招き寄せて、飛鳥に一大外来文化を根付かせたのである。見瀬丸山古墳は、この時期の最大の巨大前方後円墳であり、蘇我稲目の墓だと考えられている。その大きさは、天皇陵せある梅山古墳よりも大きい。つまり飛鳥時代とは、蘇我氏が創り、蘇我氏が大王であった時代なのである。
欽明天皇から始まるとされた飛鳥の時代は、つまり蘇我氏が河内王朝から引き継いできた大王の血脈を、完全に欽明=蘇我のものへと変換させたところにはじまったのである。ゆえに、『日本書紀』はここに王権簒奪の緩衝材としての赤の他人=継体大王一族を割り込ませた。そしてこの継体王家をつぶしたのが蘇我氏であることを暗に臭わせたのであろう。それはあとに蘇我氏を追いやることとなった藤原氏の、記録の改ざんであったかも知れぬ。徹底的に『日本書紀』は蘇我氏を悪とし、大王であったことを伏せることで、持統以後の天皇家の正当性を言い募るのである。
だが、その持統も、父天智も、また天武でさえも、元をさかのぼれば蘇我氏の血から生まれていた。『日本書紀』はそこさえも消してしまう。そのために息長広姫という女性を登場させ、ありとあらゆる手法で、息長血脈を正当化した。継体も神功皇后も、三尾氏も、すべてそのために置かれているのである。
藤原不比等は、代わりに飛鳥時代に、聖人がいたとした。それが聖徳太子である。その聖人イメージのモデルとなるのは、天智天皇、持統天皇である。
天智四年、法隆寺若草伽藍が燃えた。
法隆寺はこのとき、東院伽藍を建て、若草伽藍の隣には西院伽藍を復興させる。そして夢殿を建て、金堂には三尊像を置く。しかしそこには以前、久世観音が置かれていた。久世観音の丸い底辺と合致する塗り残しの後が、底辺の四角い三尊像をどけると残っている。久世はあきらかにそのモデルが蘇我蝦夷あるいは入鹿だったと思われる。それゆえに、天智も持統も藤原氏も、久世観音を白布でぐるぐる巻きにしたうえで、夢殿に隠匿し、のちにそれを隠すために、明治時代にあらわになった久世観音は聖徳太子がモデルであると喧伝させたのであろう。明治時代、宮内省にはまだ藤原摂関家の痕跡が根強くあった。
飛鳥寺は蘇我氏の寺である。斑鳩寺も蘇我氏の寺である。そして豊浦寺も。おそらく守屋の渋川寺もそうなるはずであった。斑鳩寺ももともとは物部氏の寺がそこにあっただろう。飛鳥のすべてが蘇我氏の思い出に満ち満ちていた。そのために藤原氏は持統を藤原宮という新しい都を造って移住させた。
続く。