天にはも 五百(いほ)つ綱延(は)ふ 万代に 国知らさむと 五百つ綱延ふ
万葉集 石川宿禰年足
石川宿禰年足朝臣 いしかわのすくね・としたり 688~762
この蘇我氏の人物をご存知だろうか?
蘇我倉石川氏の生き残りである。
「奈良時代中ごろ、年足は藤原仲麻呂のもとで出世し、天平宝字4年(760)に御史大夫に任じられましたが、2年後、天平宝字6年(762)9月1日に平城宮の邸宅で75歳の生涯を終えました。なきがらは、その年の12月1日に摂津国嶋上郡白髪郷(現在の高槻市真上町)の酒垂山に葬られました。」高槻市ホームページより
藤原氏と中大兄によって殺害された蘇我氏の入鹿は蘇我本宗家の人だが、蘇我倉石川氏はこのとき蘇我を売るかたちで生き残り、天智天皇の家臣となったのだが、冤罪によって石川麻呂は死に、氏寺である山田寺も焼かれてしまう。
しかし、蘇我赤兄など、いくらかの後裔を残し、年足もそのひとりであった。
彼の墓がどこにあるかご存知?
実は、蘇我氏にとっては宿敵であるはずの藤原鎌足の墓とされる阿武山古墳の西隣、同じ摂津国嶋上郡白髪郷(現在の高槻市真上町)の酒垂山に葬られた。墓誌が出たために間違いがない。その墓誌は現在、高槻市唯一の国宝になって保管されている。
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石川年足朝臣墓誌銘
武内宿禰命子 宗我石川宿禰命十世孫・・・
石川石足朝臣長子・・・
天平宝字六年十二月二十八日葬于
摂津国嶋上郡白髪郷酒垂山に葬る
・・・云々
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石川宿禰氏は石川麻呂の死後、壬申の乱で年足の父である石足が天武朝に用いるまで、かなりの長きの間、歴史から疎遠となる氏族である。
蘇我氏にとっては藤原の祖であり、本宗家を誅殺した張本人である鎌足の真横に墓を造るなど、われわれにはなかなか理解が難しいことである。いったい、藤原氏と蘇我氏の関係・因縁は?
一方藤原氏も鎌足死後、わずか15歳の不比等は、天武天皇には疎まれていた。この点に類似性があったと言える。しかし天武死後、不比等は女帝持統を以って尊崇する天智の政治の復元を目指して、藤原京を手中にし、うまく持統の後見となり得た。
石川家の祖人とされた石川宿禰は、伝説的人物とされ実在しないとされていた。しかし『三代実録』に「石川宿禰来村」なる人物が「曽我朝臣」に改姓を願い出たとあって、石川家ではそもそも自らを蘇我氏の者という自覚が続いていたようである。しかも墓誌を見る限り、石川宿禰から十代を経てもなお、依然として蘇我氏が武内宿禰子孫=葛城一党であるとも伝えられてきたのである。
さて、不比等の藤原氏は、壬申の乱で一切名前も出ない、勝ち組でもなく負け組みでもない氏族でしかなかった。その後も天武に無視され、蘇我氏、石川氏同様、いわば没落貴族に甘んじていた。ところが持統が即位すると、不比等は妻であった蘇我娼子(娼の文字は『日本書紀』の卑字ではないか)の蘇我血縁と、持統の母が蘇我遠智娘との近縁関係を利してか、うまく持統朝の重職に滑り込んだ。その中で、不比等も蘇我氏でも石川一族を見直したのか、子孫の藤原仲麻呂が取り立てたのが年足なのである。
かつての宿敵同士が、隣り合う墳墓に仲良く眠っていると考えると、以外に蘇我氏、石川氏を藤原不比等は、内心、外交や政治の手本とした可能性があった気がしてくる。
かつ、もっと想像をたくましゅうするなら、天武天皇が、蘇我本家を手本とし、それを売った石川氏を、それゆえにこそ憎んだという可能性も感じさせてしまう。
いずれにせよ、飛鳥にはまだまだ蘇我の傍流氏族がかなり勢力を持っていたわけで、高向・田中・小治田・岸田・櫻井・久米などの各臣たちは、壬申の乱で日向や赤兄が負け組みとして処分されても、本宗家が滅びても、石川家が自害粗略にされてもなお、その血脈を残していったわけである。
蘇我氏はその大元の出自が謎の氏族で、近つ飛鳥(奈良盆地明日香)の馬子以前の本拠や物部氏の所領であった斑鳩や遠つ飛鳥(大阪太子町周辺、八尾市)を手中にして開発する以前の本拠地がいまだわかっていない氏族である。つまり蘇我一族が地名石川を名乗るのも、物部守屋死後であったということになる。蘇我の名乗りも、地名である
宗我(そが)を名乗ったに過ぎないので、それ以前の氏は不明なのである。
おそらく稲目より前の人名は創作であろうし、葛城、武内宿禰出自も怪しい。とにかく飛鳥時代以前の倭五王あるいは河内王権の時代に蘇我氏の影も形もなく、継体時代にもまったく何も書かれていない。欽明のときになって突如として稲目が登場し、馬子へ続くのみである。そんなどこの馬の骨とも知れない一族が、大王同然の地位についてしまうところに、やはりどうしても、河内王朝~継体までとの王家の断絶があったはずなのである。つまり蘇我氏はある日突然、飛鳥へ渡来してきた何者かでなければならない。いきなり飛鳥時代にグローバルな対外政治や文化が花開く、その異常な日本史とも言うべき時代が、ますます謎に満ちてくる。
参考文献 『蘇我三代と二つの飛鳥』新潮社・NHK大阪文化センター