現代、東アジアと日本の関係は微妙になっている。現代の日本と東アジアの勢力関係、交流関係の大前提として、古代のそれを知っておくことは、人同士が円滑、平和に付き合うためにはかかせない歴史だろう。ところが、日本人のほとんどは、第二次大戦以来、あまりここを知りたがらず、おざなりにしてきたし、学校でも、ざっとしか教えていないのではなかろうか?
今回は最も近い隣国である朝鮮半島と倭国のつきあいの歴史をメインに、3世紀中後半の寒冷期以前と以後に分けて振り返ってみたい。
紀元前108年、前漢の武帝の朝鮮進撃から中朝関係はにわかに深まる。これ以後、半島には楽浪・臨屯・真番・玄菟(らくろう・りんとん・しんばん・げんと)の四郡が置かれ、中国の半島支配が始まった。しかし前漢の支配は長く続かず、前82年には臨屯・真番郡が廃止。ちょうどその頃、半島北部には高句麗が出現した。これは半島北部人の中に生まれた、中国支配への反駁心が積み重なったもので、半島最初の独立心の萌芽であった。
高句麗は、中国と対立することを勇気のもととして、勢力を増してゆく。しかし、同時に中国からの圧迫はどんどん強まってもきた。前漢の王莽(おうもう)による高句麗王殺害は有名で、この時期は、高句麗は中国によって「下句麗 げくり」と卑下する名で呼ばれたこともあった。
ただ、四郡設置は、中国が倭国を知る契機にもなった。後漢時代の『漢書』地理誌に初めて倭国が記載された。あのあまりにも有名な一節である。
「夫れ楽浪海中に倭人あり。分かれて百余国と為す。歳時をもって来り献見すと云う」
楽浪郡を通じて、漢も、古くから半島とつきあいのあった倭人を知るところとなったのである。半島と倭人のつきあいは、考古学の証明するところでは縄文後期。九州西海岸に半島式土器や釣り針が出ることで確実になった。
紀元前1世紀頃の 前漢時代のアジア勢力図
このころの半島には北部東岸部に、沃沮・濊(よくそ・わい)、南部西岸部に韓といった諸部族の集団ができていた。倭人はこの中の韓と特に交流が深かった。おそらく民族的に互いが近い倭種=海の民だったためかと思える。接合型釣具の出土は、彼らが海人であったことを裏付ける。それがやがて1世紀西暦44年の韓の楽浪郡朝貢で、韓廉斯人・蘇馬(そ・まてい)を漢廉斯邑君(かんの れんしの ゆうくん)に封じており(建武二十年)、これをきっかけに倭の奴国王も後漢に使者を派遣し「漢の倭の奴国王 かんの わの なこくおう」金印をもらうことになる(57年)。
韓とのつきあいから、後漢の成立や楽浪郡の存在も知っていたのであろう。それは奴国と言う、九州玄界灘沿岸域の一国家であったことは重要で、当時の日本での、九州北部の先進性を示すし、韓の柵封の刺激を受けての出来事だったことは間違いない(その後、倭国は高句麗とも中国へ同行して朝貢してもいる。三世紀)。
奴国人は、福岡県の博多の那珂川以東に所在し、遠賀川に近い。遠賀川の弥生時代の人骨DNA分析からは、半島人と近縁であることがわかっており、九州西岸部の倭人と違い、在来種縄文人DNAが少ない人々である。
紀元後1世紀ころの後漢時代の東アジア
107年には、倭国王・帥升が、朝貢。これも廉斯国を通じてであろう。
廉斯国にはもうひとつ日本にとって重要な産物があった。『魏志』が引用する『魏略』韓伝に、廉斯鑡(さく)が楽浪郡へ亡命しようとしたときに、木材を伐採している漢人の一団に出会った話がある。この伐採は、製鉄用だったという指摘があり、慶尚南道(キョンサンナンド・けいしょうなんどう)の前一世紀の遺跡・茶戸里(タホリ)遺跡から鉄器が発見された。韓では紀元前1世紀にはすでに製鉄ができていたらしい。
ほとんど同時期に、北部九州でも製鉄が始まっており、この鉄と製鉄技術が廉斯との交流で得られた日本最初の製鉄であった可能性は高い。
このつきあいは2~3世紀までつながっており、『魏志』韓伝 弁辰条に
「国鉄を出す。韓・濊・倭は皆これをほしいままに採る」という有名な一文がある。
その弁辰には小国家が群雄しており、特に瀆盧国(とくろこく)は倭と国境を接する海岸の国であった。
この図は、魏志倭人伝や韓伝の位置関係から推定して、「倭の北岸」が半島南岸部に存在したという想定で作られたものらしい。
そのすぐ北側に瀆盧国が置き描かれている。
またそこから楽浪郡への道程である狗邪韓國は魏志にも出てくるが、いわゆるのちに伽耶とか金官伽耶と呼ばれるようになる場所で、今の光州南道にある。
この一帯には5世紀古墳時代中期にいくつもの前方後円墳が出現する。つまり『日本書紀』記述から推定するに、それは葛城集団の外交官だったかと思える。『日本書紀』が大和の先住王家として描いた葛城氏は、だからそもそもは北部九州から日本海側を拠点として半島南西部につきあいを持った縄文由来の筑紫~日本海海人族であった可能性も充分に考えうるのであり、さらにその大元が南九州の神武伝説発祥地にあった可能性すら想定可能である。そこからこの氏族の始祖が武内宿禰という、九州佐賀などの有明海勢力地にその妻の神社を擁すること、同族だとされた紀氏の佐賀県・熊本県・鹿児島県・大分県での広まり、出雲神話で大国主の娘婿として葛城鴨氏の祖神・アジスキタカヒコネが登場することなどなど、海と半島との関係の深さが見えてくる。
アジスキタカヒコネには、天孫が送り込んできたアメノワカヒコと姿かたちがそくりだったという神話伝説があり、それは天を半島南部伽耶地域、アジスキタカヒコネが日本海~倭北岸の人だとした場合、その人種が同じ倭種だったと言い換えることも可能であろう。あとで書くが、土居が浜や遠賀川周辺の弥生人には、縄文人の血が入っていないと言う。彼らはすでに縄文時代からそこにいたのだろう。
さらに、葛城襲津彦が四世紀に伽耶を守って新羅と戦い、逃げてきた秦氏らを連れ帰ることからも伽耶・弁辰地域と葛城氏の関わりは想像できるだろう。その始祖武内宿禰が「内臣 うちつおみ」の代表として描かれることは、神武東征での参謀となる霧島地方(阿多津姫出身地)塩土の翁によく似ることと何か関係があろうかという想像も出てくるわけである。その祖神としてのスサノヲは新羅=半島に渡ってから出雲へ入るという話も、なるほどと気がつくはずだ。
さらに葛城を本貫としたと語った蘇我氏は、稲目の妻のひとりが葛城の女で、馬子はこれを根拠に、推古女帝に葛城を本拠地としたい=葛城氏を名乗りたいと考えたのであろうし、葛城氏になれば、のちの天皇家よりも古い、近畿最古の大王家として名実ともになれるからこそだっただろう。葛城集団は天皇の前にあった河内の別王権(ほむたわけの血筋)の宰相だったわけである。
ここまで参考
関周一『日朝関係史』吉川弘文舘 2017
続く