3世紀の世界史は気候によって大きく左右された。これは東アジアに限ったことでなく、世界中で共通している。
1世紀あたりから、火山爆破も相次いで、地球全体は冷え込んでゆく。すると東西で、帝国がゆらぐ事態が連鎖していった。東アジアでは前漢が滅び、遼東に公孫氏が台頭。南の高句麗を圧迫しはじめる。高句麗はしかたなく南下政策をとって、半島南部の韓諸国を侵し始める。それが倭国にも影響するのがこの時代である。
前記事では、韓地域の伽耶にあった廉斯国の鉄を取り上げたが、では伽耶が遼東の公孫氏といかほどの関わりをもったか、鉄や胴や、あるいは鬼道と言われた宗教形態、呉とのつながりがどのように両者を倭国へ影響したかは、定かではない。
韓という地域名は、半島の南部全体を指すわけだが、北部は高句麗成立以前は扶余である。民族的に、高句麗が扶余民族を中心とするに対して、韓地域は、雑多な他民族が混在する地域であった。それはDNAによって明確にされるが、文化や言語、食生活など民族学的にもかなりな違いが認められる。
民族で言うなら、韓には、もちろん扶余族もいたし、倭族、ツングース、モンゴルなどなど、多種多様な混在が見て取れる。つまり韓は、そうした多民族国家地域である。
国家と書いたが、国家ができあがる前は人、つまり民族集団である。それが国となるのは遼東、扶余地域の高句麗が最初で、それも、中国や公孫氏の遼東侵犯があってこそのこと。もとより、半島に国家などは存在しなかった。高句麗が成立したきっけかも、中国が気候の温暖な時期に、外を欲した結果であり、寒冷期なら、逆に、北方外部民族が中国に侵犯してきて、それどころではない。
この寒冷化は、倭にも当然影響を与える。それが倭国の乱であり、ちょうど桓霊帝の頃に始まる寒冷化で、北方からの進入があって前漢が滅び、あとの後漢もまた、公孫氏と呉のつながりで弱体化する。すると魏が北部に興り、これが遼東の公孫氏燕を滅ぼす。つまり歴史的ピストン運動が半島に起こったわけである。
すまぬ、今日はここまで。