本論に入る前に、まず中国の1~2世紀、「光武帝」「桓霊時代」「中平」年について解説しておく。
前置き、中国のここまでの流れ(光武帝時代)と韓地名の初出
「新(8~23)代からの混乱は、王朝の把握人口を激減せしめた。実に漢末約6000万人の4割にも満たなくなってしまったのである。これは、現行の統治機構、防衛機構それ自体の維持にさえ支障の出る数字である。
漢を号して再統一を目指した劉秀(後漢・光武帝)は、遼東郡に自立していた王調を30年に討滅すると、楽浪郡統治の縮小に着手した。
楽浪郡掌握の30年には、旧臨屯郡系の東部都尉を廃し、日本海側7県を放棄、在地の<シ歳>(穢貊)を侯に任じて統治を委託した(不耐<シ歳>侯、華麗<シ歳>侯、沃沮<シ歳>侯の三侯)。次いで、32年に「下句麗侯」を「高句麗王」に戻し、44年には韓人の蘇馬を邑君に任じて楽浪郡南境の安定を図った(漢廉斯邑君)。この流れで57年に倭人が漢委奴国王に任ぜられている。
この44年の韓侯が、「韓」の初出であり、以降半島南部は「真番」でなく「韓」と呼称されるようになる。また、57年の漢委奴国王が倭王の初出である。なお、倭人が邑君、侯よりも高位の王号を与えられたのは、単に人口の多さに由来すると考えられている。
こうした漢の周辺宥和策は、東北辺境での安定をもたらす一方で、周辺所属の組織化を促すものであった。」
中平(ちゅうへい)は、後漢の霊帝劉宏の治世に行われた4番目の元号である。
西暦のAD184年~189年を指す。
西暦のAD184年~189年を指す。
●中平年中の出来事
元年2月:黄巾の乱が起こる。
元年3月:党人の禁錮を解く。盧植・皇甫嵩を黄巾賊討伐に派遣。
元年11月:黄巾の乱を一旦鎮圧。
元年12月:光和7年を中平元年と改元。
6年4月:霊帝崩御。少帝劉弁が即位。何太后が朝に臨む。
6年8月:大将軍何進が宦官に殺される。袁紹、兵を率いて宮中の宦官を誅殺。并州牧の董卓が兵を率いて洛陽に入る。
6年9月:董卓、少帝を廃して献帝劉協を立てる。何太后を毒殺。
6年11月 : 董卓、相国となる。
(奈良県天理市和邇の東大寺山古墳出土鉄刀に
「中平□□(年)五月丙午造作文(支)刀百練清剛上応星宿□□□□(下避不祥)」
と金象嵌された文字があった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E5%A4%A7%E5%AF%BA%E5%B1%B1%E5%8F%A4%E5%A2%B3
天理市の和邇(わに)から櫟本(いちのもと)にかけては、和邇氏と関連氏族の拠点であるとされる。ということはつまり少なくとも中平元年~6年の期間のどこかでこの鉄剣は造られて、直接、あるいは韓地域、あるいは公孫氏の建てた帯方郡を通じて、和邇氏がこれを手に入れた=通交があった、ことになる。それはちょうど後漢が霊帝の治世で、世界は寒冷期で、倭で大乱が起きていた時代に該当するし、奴国王が金印を受け取る時代である。いわゆる邪馬台国前夜の話だ)
2世紀後半ごろ、それまで安定していた弥生時代の気候が急転し、寒冷・乾燥期になる。以前もここに詳しく書いた、パンデミック大変換期の始まりである。さきがけはタウポ火山(ニュージーランド)の大噴火だった。これによっていわゆる現代でもやがて起こるはずと考えられている、大量燃焼エネルギー蓄積による硫酸エアロゾルを含んだ噴煙は地球を覆い、縄文海進以来温暖で安定していた弥生時代の気候は一変。
後漢では、まさに桓帝・霊帝の期間に相当する2世紀後半は、農作物がとれない事態に陥った。すると当然、北方民族は南下して、遼東を犯しはじめ、後漢はこれを抑えるために公孫度を遼東太守として送り込む。ところが公孫氏は呉と通じて魏を脅かす存在に成長し、楽浪南部に独自で帯方郡を設置。高句麗・韓を支配せんと暗躍。人民を鬼道を用いて扇動しはじめてしまった。もともとその前の黄巾によって、この地域には道教以前の華南起源の神仙思想(太古からあった原始的神秘性を重視するシャーマニズム。よりしろに神獣鏡などを用いて、不老不死や祖霊憑依による口よせ的な神霊降臨思想)によって民人をたくみにあやつろうとした。
こうして激動の3世紀は始まった。
呉やのちに百済が生まれる帯方郡、つまりピョンヤンやソウルとの魏を挟み込む挟撃作戦と、北方異民族の烏丸・鮮卑をも手なづけた騎馬戦力、表向きは魏にすりよる格好だけしてみせる公孫氏の狡猾さは、長く遼東から韓半島・高句麗を巻き込んで魏を脅かし続けた。たまらず魏では遼東進撃を開始して、度の子孫公孫康(燕王を自称)を撃たんとする。
この公孫康も後漢に将軍として任じられており、帯方郡設置は実は公孫康の仕事であった。これによって韓、倭諸国はこぞって帯方郡に帰属するようになってしまう。表向きは中国の出先であると広めたからである。これではその北にあって南から遠い後漢の楽浪郡は形無しである。それにしても黄巾を最初に許容した中国の政策こそがそもそもの厄病の始まり。公孫氏はその宗教的などさくさを利用して勝手に動けてしまうからだ。しかもその鬼道すら取り込んで、倭・韓の遅れがちな近代性さえ手なづけてしまう。まさに今で言えば金北朝鮮以上のやっかいさであったろう。
隣接した高句麗は一番のめいわくをこうむる。高句麗が南部よりも進んだ国家体制を持てたことが、かえって災いし、そのアイデンティティー、愛国心がむしろ公孫氏の懐柔(236年高句麗王へ使者)を拒ませてしまう(高句麗王これを斬首)。やったとったのあげく、広開土王が登場し、きびすを返すように、今度は高句麗自体が南下をはじめる。奪われ行く北部国境地帯をあきらめ、撤退するしかないのだ。いや、撤退と見せての、移住、南部侵略のはじまりだった。韓はたまらず倭に援助を求め、倭はこれをうけて伽耶から北上し、高句麗国境地帯まで攻め上がり、これと対峙した(広開土王碑文)。
さて公孫康は魏呉の勢力を眺めつつ、いきなり魏に寝返る。232年には呉王孫権が康を燕王に任じて歩み寄っていた関係だったが、呉弱しと見るやさっそく裏切り。呉・蜀同盟の敗色はこれによりさらに悪化。魏は237年、さきほど書いたように遼東に軍を派遣。しかし失敗。再び翌年、ついに軍師・司馬懿(しばい、字仲達)を遠征させ、ようやく康を切り殺した。こうして公孫氏は四代で滅び、楽浪・帯方・遼東・玄菟郡のすべてが中国に戻った。これを知った倭の女王・卑弥呼は使者を送り、帯方郡を窓口に、正式に魏の帰属となって倭王金印を手にしたわけである。卑弥呼と帯方郡の通交には、常に韓、特に狗邪韓國を通ってなされることとなる。そして倭王であるためには、この韓諸国との平安な交流こそがかかせぬ条件であった。
魏によって安定するかに見えた半島であるが、実のところ高句麗だけはまだ戦々恐々。いつ魏によって滅ぼされるかわからない。国境を接する隣国の悲哀は永久に続く。そこで242年、ついに自らが西安平に侵略。これがかえって魏の激しい逆襲にあい、しかもとうとう魏も高句麗を許せなくなってしまう。火に油を注いでしまったのである。246年首都丸都陥落。魏はついでのように北方まで犯し、扶余、沃祖、穢、粛慎まで攻め入った。それは軍事的な威圧、つまり抑止行為であったと言える。そして世界がそうであるように、その侵略は同時に文明・文化の伝播を引き起こした。
かつて劣悪な地域だった欧州南部にも、サラセン帝国・ペルシアなどの侵略と最新文化の流入が起きたことでギリシア・ローマ文明は開花したようにである。戦争はそうした両面を常に持っている。
韓は馬韓・辰韓・弁韓の三地域に分かれていた。すべては帯方・楽浪郡の支配下にある魏の属国となっていた。一部反抗勢力がこれをよしとせずに帯方郡太守・弓遵を戦死させたりもしたが、魏はほかの二郡によってこれらを制圧する。これは政治的には、半島全体の王の登場を抑制し、独立を阻害することとなった。特に半島南部における小国家分立状態の永続こそは、倭にとって都合がよく、鉄を欲する倭国の自由な権益を見逃すことになる。それは高句麗にも同じで、かえってのちの三国独立や倭国の伽耶経営を許すことにもつながってゆく。
歴史には、このようにいろいろな見地がある。軍事で見る場合、文明伝播で見る場合、政治的見地で見る場合、民俗学的見地の場合、食文化、技術、科学、信仰・宗教、イデオロギー、墳墓様式や土器様式・・・人間が生きてゆく限りさまざまの事象すべてに歴史はあり、見方もいろいろある。
先にシリーズの1で、他サイトが考えている寒冷化前の東アジア地図を紹介したが、歴史学者が考える同時代の地図も見てもらいたい。
日本の歴史学で考えられている穏当な?(言い換えると政治・イデオロギーに背を向けるマルクス主義歴史学の史観)アジア勢力図
1に貼り付けた他サイトが考えるやや『日本書紀』より史観の3世紀半島勢力図
これによれば「倭の北岸」つまり『日本書紀』がのちに言う任那日本府があったとされる南岸地域=伽耶にそれはなく、それにともなって金官や瀆盧国の位置も当然、異なっていることに気付かれたい。また上に貼り付けている3世紀東アジアで倭の文字は中国地方あたりにあるのが、5・6世紀地図では近畿に移っているのも気付かれると思う。
倭国が5世紀、古墳時代あたりには明白に近畿地方・大和にあるというのは戦後学者たちのこぞって認める地理になっているが、筆者では、それは飛鳥の6後半という認識になってしまう。3世紀だと、筑紫と大和の二箇所に小国家集団が集まったという認識である。どちらが邪馬台国という小首都だったかはまだわからない。
半島の場合、もっとイデオロギーの影響を受けて諸説が噴出するだろう。文献が明確に地理を描かないからだ。伽耶は日本府があったというのは『日本書紀』の右思想であり、学者たちがそこを書き入れないのは、戦後からの左より思想からである。両者は相容れない。それはまったく現代の政治事情=三極分化選挙そのものであろう。人間は考える生き物。そして日本は思想や表現に自由が約束されている。どちらかを否定し消し去るのは憲法違反になる。つまり日本国憲法は、別の考え方で見ると大変あいまいな法律であろう。それは他国から敗戦のときに限って使うように与えられた法だからかも知れない。人間は面白い生物で、戦争に負けた、もう絶対しないとなったら、それまでの極右・軍国主義から正反対の極左・反戦主義へと、いとも簡単に変身したのであった。まるでざるの中の小豆のようにである。
そして戦後70年、敵がもし攻めてきたらどうするのか?という立憲国家の根幹にある問題を問うことは、戦争するつもりか?と決めつけられ、右思想、軍国主義者であると決めつけられていたのである。不思議な国だとアメリカは思ったそうだ。そして左翼へと、ロシア民謡やルパシカを喜んで受け入れて、歌声喫茶でトロイカを熱唱する若者たちを「赤」になってしまわないように監視したという。そして昭和60年代、アメリカの心配が、安保反対、その後の赤軍、学生運動、朝鮮逃亡旅客機ハイジャック、重信、赤軍テロ、東大立てこもりを次々に生み出していったことは忘れない。
そしてそれに正反対にやはりテロへと突き進んだ三島由紀夫の切腹、斬首事件のことも・・・。
歴史にはいろいろな角度からの見方がある。それのどれかを選ぶのがわれわれの勉強ではない。すべてを知っておくことが歴史なのだ。どちらも否定はしない。批判もしない。終わったことは戻らない。どれが間違いかと言われても、答えようはない。むしろ全部が間違いかも知れない。それはあとの時代が見分けることだ。ずうっとあとの、一万年ほどもあとの人間が考えればいい。キリストや仏陀が生まれてからでさえ、まだ1万年も過ぎてはいない。それを自由と呼ぶのだ。選択は自由である。しかしひとつだけに知識を偏らせてはなるまい。道路は左右をよく見てわたるものだ。ど真ん中でもいけない。道路の真ん中は双方から風圧が来て危なっかしい。どこを立ち居地にするかは、それもまたあなたの自由。
朝鮮半島はかつて日本にとってアマテラスのいる天上界だったこともある。それはつまり多くの先進文化を韓を通じて知ることができていた時代があったという認識につながる話だ。もちろんアマテラスは実在しない8世紀宮中の観念であり、民衆はまったくそうとは思っていなかったはず。記紀など読む自由すらないし、読むことすらできない大半の日本人には、モノこそが文化であり、先進であっただろう。そして人々は自由に海の外からこの島国へと訪れた。血は混じり、智も混じった。すべてを自在に、日本人は取り込んだ。そんな民族は日本人だけだということこそが、われわれのアイデンティティではあるまいか?そして今、海外から、多くの外国人がその日本の、混沌の夢を求めてやってくる時代になった。
歴史は先生である。
眺めておくもの。
そして役立てるもの。
それは科学や技術の前にあるもの。
国民が最初に知るべきもの。知識の源泉。思想の大元。自由と平和の礎。
温故知新
小池百合子も三国時代・三韓時代をもっと勉強しておけば、この安倍の策謀にはまらなかったかも?
次回五世紀へ。倭の五王が登場する。本当かどうか誰も知らない時代へ。
推理と推測
わたしの最上の友人がそこにいる。
推理と推測
わたしの最上の友人がそこにいる。
葛城氏の正体に迫れるか?